第15話 呪種の夜、磔の朝
※本話には残酷な描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
月の光さえ届かぬ皇宮の地下牢。
鉄と石に囲まれたその場所で、囚われの令嬢は日に日に蝕まれていく――はずだった。
しかし、彼女の皮膚の下に浮かぶ黒い痣が脈動するたび、衰弱ではなく異様な変貌が進んでいった。
それは、あの老魔導士から密かに譲られた「力の呪種」であった。
エリナの命を奪おうとした種とは似て非なるもので、「これを宿せば、殿下の力に並び立つ妃となれる」と囁かれていた。
甘言にすがった彼女は、その言葉を信じ、震える手で呑み込んでいたのだ。
だが種が与えたのは力ではなく、何処までも増殖する腐蝕のような狂気だった。
日が経つごとに、彼女の姿は呪いに喰われていった。
白い頬には黒い血管が網目のように浮かび、細い指は鉤のように反り返る。
瞳孔は異様に拡がり、かつて気品を帯びていた面影は、呪いに食い破られた面影へと変わり果てていた。
「ころす……エリナを、ころす……」
断続的な呟きが、もう理性の声ではないざわめきとして牢を満たす。
蓄えられていた狂気は、もう内で膨らむだけでは満たされぬほどに臨界点を超えていた──そして、破裂した。
鼓膜を刺すような低い音とともに、魔力の奔流が一気に奔り出し、鉄格子へ叩きつけられる。
鉄は赤く爛れ、悲鳴めいた軋みを上げて滴り落ち、黒い煙がゆっくりと天井へと這い上がった。
看守たちの叫びがこだまし、何人かは声を上げてその場を逃げ去る。残る者も、目の前の化け物を理解できずに硬直していた。
瘴気がその身をさらに蝕み、ドロテアの身体はさらに変じていく。
その存在自体が呪詛の器と化し、息をするだけで周囲の空気を腐らせていくようだった。
皮膚の下を走る痣は生き物のように脈打ち、こけた頬に貼りつく笑みは不気味に深く裂け、そこから漏れる声は人の言葉を真似た狂気の呻きとなった。
「……殺す、ころす、エリナ……コロス……」
呼吸のごとく漏れる彼女の声は、囁きにも似て低く、まるで何か古い呪いを己に繰り返し刻むようだった。
言葉は途切れ、滑り、また立ち上がる。
母音が裂け、子音が尖り、意味を持たぬ断片が次々口から零れるたびに、その口元の笑みは深まっていった。
嗅ぎ慣れぬ硫黄と焦げた鉄の匂いが空気を満たし、周囲には高熱に割れたような微かなひび割れ音が残った。
彼女は這いずるように立ち上がり、そこかしこの壁を爪で引っ掻きながら出口へと向かった。
その足取りはもはや歩みではない。引きずり、震え、跳ねるたびに骨が軋む音が響き、呪いそのものが地を這って進むかのようだった。
やがて、重い鉄扉を押し開け外気に触れた瞬間、夜風が運ぶ土と草、生き物の息づかいの匂いが瘴気と混じり合った。
その刹那、ドロテアの瞳はさらに狂おしく輝いた。口の端からは血が垂れ、笑い声と呻き声が折り混ざる。
「……あの女を……殿下を……奪ったものを……」
まだ言葉にならぬ唸りの間に挟まれた呟きは、歪み、軋み、やがて夜の闇そのものへと吸い込まれていった。
人ならざるものへと変じた女。
その歩みは帝都の影を縫い、狂気の残滓を撒き散らしながら辺境伯邸を目指した。
まさに狂気が破裂したその姿は、見る者の理性を一瞬で侵食するほどに凄惨で、忘れ難い悪夢のようだった。
夜の帝都をさまよう足取りは、人ではなく獣のものだった。
月影の下、ドロテアの全身からは黒い瘴気が滴るように立ちのぼり、通りすがる灯火はその気配に怯えたかのように瞬き、しだいに色を失っていった。
やがて、彼女の瞳が標を捉える。――帝都の外れに佇むヴァルトハイム辺境伯のタウンハウス。
夜気の中に聳える石壁は厚く高く、辺境を護る砦さながらの堅牢さを誇っている。門の前には辺境伯家直属の兵たちが槍を構えていた。
「止まれ! これ以上、一歩も進ませぬ!」
兵たちの声が夜に響く。しかし次の瞬間、ドロテアの体内から膨れ上がった呪種の魔力が破裂した。
黒い奔流が石壁へ叩きつけられ、轟音とともに石が砕け散る。門の結界はひび割れ、耐えきれずに崩れ落ちた。兵士たちは槍を突き立てて突進したが、黒い奔流に弾き飛ばされ、鎧ごと地に叩きつけられる。呻き声が重なり、夜の静寂を切り裂いた。
「退けぇぇぇ……殿下は、わたしのもの……!」
ドロテアは血を吐きながらも笑い、なおも進む。
屋敷の玄関には、既に従者たちが立ち塞がっていた。辺境伯家に仕える彼らは剣や杖を手に、恐怖に震えながらも主を守ろうと必死に結界を張る。
「ここから先へは行かせない!」
「奥にはお嬢様がおられる!」
忠義に燃える声が玄関に響いた。
だが、ドロテアの狂気は容赦なかった。爛れた手を振り下ろすと、黒い炎が奔り、従者たちの結界をたやすく焼き裂く。魔力の衝撃波に吹き飛ばされ、彼らは床に叩きつけられた。呻き声が響く中、ドロテアは血走った瞳で扉を踏み破り、屋敷の奥へと侵入する。
大階段を駆け上がり、廊下を突き進む。
狂気の声が迸る。
「エリナ……!お前さえ……お前さえいなければ……殿下は、わたしのものに……!」
そして――彼女は、ついにエリナの部屋の前にたどり着いた。
だが、扉を引き裂こうとしたその瞬間、冷ややかな蒼光が弾けた。
レオンハルト自らが施した幾重もの結界が、まばゆいばかりに光を放ち、彼女の爪も叫びも寄せつけぬ壁となった。
呪いに歪んだ爪で結界を削り裂き、狂気の力で打ち据えた。
がり、がり、と音を立てて削れていくのはドロテア自身の爪だった。
血が爪の隙間から滲み、石床に赤黒く滴り落ちる。
守られている扉には、一片の傷すらつかなかった。
結界は、冷たい光を帯びて彼女を拒んでいる。
「どうして……どうしてなの! なぜ……なぜあの女だけ……!」
爪を砕き、血の涙を流しながら、ドロテアは喉を裂くように叫ぶ。
「私は……殿下を……あんな娘よりもずっと……愛していたのに!」
「――愛、だと?」
背後から降りかかる声に、ドロテアの全身が硬直した。
その声は、彼女が幾度も夢に見、渇望し、歪んだ想いで追い求め続けた存在のものだった。
振り返れば、そこに立つのは黄金の髪を戴く皇子。
月光を浴びたその姿は、神罰の化身のように冷たく、凄烈だった。
「殿下……!」
ドロテアの血まみれの手が、必死に伸ばされる。
「殿下! 私……私こそが! ……エリナなどではなく、私こそが殿下の妃にふさわしい! どうか、どうかお願いです!」
レオンハルトの瞳は、刃よりも鋭く彼女を射抜いた。
「お前が愛していたのは――己と、俺の名声だけだ。愛と呼ぶにはあまりにも浅ましい」
「違う……違う!」
ドロテアは結界に取りすがり、なおも血を吐きながら懇願する。
「私は……殿下の力に並び立つために、呪種を……! 殿下の隣に立つためだけに……!」
その叫びを遮ったのは、冷光を放つ剣の閃きだった。
一刀、鮮烈に走る。ドロテアの肩口から血飛沫が弧を描き、壁を赤く染める。
彼女はなおも膝を引きずり、這い寄ろうとした。
「殿下……見捨てないで……! 私を……」
「まだあがくか」
低い一言が落ちる。
二度目の閃光が闇を裂いた。
ドロテアの絶叫は途中で途切れ、崩れ落ちた身体から黒い霧が噴き出した。
呪種の狂気そのものが空気に溶け、やがて何も残さず消えていく。
レオンハルトは剣を払うと、冷たく言い放った。
「――エリナに指一本触れることすら、許されはしない」
結界の向こうでは、エリナが安らかな寝息を立てていた。
彼女がこの夜の狂気を知ることはない。
皇子はただ一人、静かにその傍らを守り続けていた。
夜に満ちた災いは、彼女の夢を侵すことなく終息した。
◇
狂気は潰えた。だが代償は、翌日の光の下で形を変えて現れる。
帝都は早朝からざわめき立ち、群衆は波のように広場へと押し寄せていた。
その日――アイゼンリート公爵の刑が執行される。
行われるのは――帝国が権を示すための公開処刑。最も長く、最も苛烈な苦痛を与え続ける刑、磔刑である。
公爵は鎖に繋がれ、群衆の嘲笑と罵声の矢を浴びながら引き立てられた。
かつての威光は剥がれ落ち、髪は乱れ、服は裂け、顔は蒼白に染まり、足元さえ覚束ない。
膝を折り祈るように嘆願を繰り返すが、その声は虚空に吸い込まれるばかりだった。
読み上げられた法務の文書は、ドロテアが前夜脱獄の末に変じ、すでに討たれたことを告げた。
だが公爵にはなお裁きが下される。――ただの死ではなく、帝国が人々の記憶に刻みつけるための「見せしめ」として。
広場に据えられた柱に公爵は縛り付けられ、鉄輪と鎖がその四肢を締め上げる。
冷たい風に晒されるその姿を、群衆は冷ややかに、しかし飢えた獣のような熱狂をもって見上げた。
「これが、帝国の断罪だ!」
罵声が飛び、石が投げつけられる。かつての権勢は、ここに完全に地へ墜ちた。
処刑とは名ばかりで、それは長い死の見せ物であった。
日が傾くにつれ、晒しは過酷さを増す。凍てつく寒気と糞尿の臭気、暴徒の投げる石に耐え、夜になっても公爵は柱に縛られたまま放置される。
これから幾日も、肉は裂け、傷は蝿に蝕まれ、衰弱と飢えの中で朽ちてゆく。
――その末路こそ、帝国の恐怖を刻むために用意された残酷な儀式であった。
人々はそれを見て、権を畏れ、従うことを学ぶ。
公爵家の滅亡は、帝国の秩序と皇子の威光を守るための冷酷な印であり、同時に――エリナを傷つけた者たちへの警告でもあった。
刑の執行を見届けたレオンハルトは、その日の終わり、邸へと戻る。
眠るエリナの枕元に膝をつき、毛布を直すその手には、断罪の苛烈さとは別の静けさがあった。
やがて夜が更けるころ、帝都はひとつの終焉を噛みしめていた。
アイゼンリート家は滅び、その名は広場に晒され、やがて人々の口から忘却の泥へと沈んでいく。
だがただ一つだけ残ったものがあった。
――皇子レオンハルトの決意である。
審判すら凌ぐほど峻烈に、誰が何を為そうとも、傍らに眠る彼女だけは決して手放さぬという誓いであった。