第14話 過保護に守りたい
断罪の余波が帝都を震わせた後も、エリナの回復はゆるやかだった。
一日の大半を眠りに費やし、目を開けていられる時間はほんのわずか。それでも、そのひとときが増えるごとに、彼の寄り添いはますます深くなっていった。
目を開ければ、必ず彼がいる。
椅子に腰を下ろして書類を広げていても、エリナがまぶたを震わせれば即座に立ち上がる。
「喉は渇いていないか。……いや、水を持ってこさせる」
「スープは温かい方がいい。さあ、少しだけでも口にしてみろ」
「枕は高くないか? 寒くはないか?」
まるで幼子にするような気遣いに、エリナは困ったように笑う。
「……殿下、そんなに……。私はもう大丈夫です」
しかし彼は眉を寄せ、真剣に言い返した。
「大丈夫なものか。あの日……君を失いかけた」
その声音には、普段の冷徹さは微塵もない。震えるほどの愛おしさと、拭えぬ恐怖の名残が滲んでいた。
食事も彼が匙を手に取って口元へ運ぶ。
「子ども扱いしないでください」と赤面して訴えるエリナに、彼は微かに笑みを浮かべるだけで、動きを止めようとしなかった。
「甘やかすなと言うのは無理だ。……君がこうして食べてくれるだけで、俺にはどんな勲章よりも嬉しい」
低く囁かれた声は、氷の皇子ではなく、ただ一人の男のものだった。
エリナの胸がじんわりと熱を帯びる。
頬を朱に染め、視線を落としながらも、かすかに笑みを浮かべた。
「……殿下はずるい方ですね。そんなふうに言われたら……もう何も言えません」
彼女の囁きに、レオンハルトの眉がかすかに緩む。
彼の微笑みは、帝国の誰も見たことのない、彼女だけに向けられる特別なものだった。
――やがて、エリナが初めて自力で身を起こそうとした朝。
枕元で本を開いていたレオンハルトは、彼女が布団を押しのけるのを見た瞬間、音を立てて立ち上がった。
「何をしている。まだ休んでいろ」
「……もう、大丈夫です。少しくらい歩いてみたいだけで――」
「だめだ」
遮る声には、皇子の威厳ではなく、一人の男としての焦燥と必死さがにじんでいた。
「倒れたらどうする。もう二度と、あんな思いはしたくない」
エリナはふっと目を伏せた。
こんなにも真摯に、自分を気遣ってくれる人がいること――その事実に胸の奥が温かく震えた。
(……これほどまでに心を尽くしてくれる人を、どうして好きにならずにいられるだろう)
彼女はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
「……では、殿下が支えてください」
それは、初めて彼女の口から洩れた「願い」だった。
レオンハルトの心臓が強く跳ね、胸の奥に熱が広がる。
彼は無言のまま頷き、片腕で彼女の肩をしっかりと抱き支えた。
触れ合う体温は、どんな薬よりも確かな力を与えてくれる――二人にとって、それはかけがえのない一歩だった。
一歩、また一歩。
弱々しくも前に進むエリナの姿に、廊下の影から従者たちが思わず息を呑む。
氷の皇子が、あんなにも柔らかな眼差しで誰かを支えている――。
それは唯一、エリナだけに許された顔だった。
「……ありがとうございます」
小さく囁かれたその声音はかすかに震えていたが、確かに彼の心を打ち抜いた。
レオンハルトは息を詰め、唇を引き結ぶ。だが次の瞬間、支える手はさらに強くなり、胸は抑えきれぬほど高鳴っていた。
エリナが彼を見上げ、かすかな笑みを返したその瞬間――。
堪えきれず、レオンハルトは支えていた肩に身を寄せ、こめかみにそっと唇を触れさせた。柔らかな髪がかすかに揺れ、彼の吐息が頬を撫でる。
「……っ!」
エリナは大きく目を見開き、瞬く間に頬が真っ赤に染まった。心臓が跳ね、息が詰まる。思わず身をすくめるが、支える腕の温もりが逃げ道を塞ぐように彼女を包み込んでいた。
レオンハルトもまた、自らの衝動に気づき、わずかに目を伏せる。
氷の仮面を崩してまで触れてしまった己の行為に、一瞬だけ息を詰めた。だが――彼女の頬の赤みと、怯えるでもなく揺れる瞳を見た瞬間、その後悔は甘やかな熱に溶かされていった。
「……すまない」
低く囁く声には、激情と共に抑えきれぬ愛情がにじむ。
エリナはただ首を振り、頬を朱に染めたまま小さく囁いた。
「……謝らないでください」
その言葉に、レオンハルトの胸の奥で張り詰めていたものが音を立ててほどけていく。
彼はふっと息を吐き、緊張を溶かすように微笑んだ。その笑みは氷を纏った皇子には似つかわしくない、ただ彼女一人のためのものだった。
「……ああ。君がそう言うなら」
そう囁いた声には、安堵と甘さが同居していた。
彼女の頬にかかっていた髪を、指先でそっと耳に掛ける。距離の近さにエリナが小さく息を呑んだのを感じながら、レオンハルトは静かに続けた。
「これからは、俺が過保護に守る。……鬱陶しいと思っても、諦めろ」
囁きに、エリナは小さく首を振った。
「……鬱陶しいなんて思いません。むしろ……嬉しいです」
その言葉に、彼の瞳が揺れ、強張っていた表情がほどけていく。
けれどレオンハルトは、ふっと微笑んで彼女の髪を撫で、穏やかな声で言った。
「……さあ、もう休め。君の体は、まだ完全じゃない」
そう促す声は、命令ではなく優しい願いそのものだった。
エリナは素直にうなずき、彼に支えられながら再びベッドへ身を沈める。温かな毛布を掛け直す彼の手に包まれながら、胸の奥にひそやかな安らぎが灯るのを感じていた。