第12話 命を繋ぐ夜、誓いの朝
それは「皇子殿下からの贈り物」として、辺境伯ヴァルトハイム家のタウンハウスに届けられた。
帝国の紋章が金箔で押された小箱の蓋を開けば、中には彩り豊かな菓子が並んでいた。
小塔のように積み上げられた焼き菓子には金箔が散らされ、琥珀色に透きとおる飴は蜜を閉じ込め、花弁をかたどった砂糖細工は春の庭を思わせる。誰もが目を奪われるほど可憐で、添えられた紙片には「ささやかな祝福を」と短く記されていた。
その甘美な贈り物を口にしたのは、ただ一人――エリナ・ヴァルトハイム嬢だった。
次の瞬間、彼女は蒼白に顔を変え、その場に崩れ落ちた。
邸内は瞬く間に動揺に包まれ、侍女たちの悲鳴と医師を呼ぶ声が重なり合った。
その報せは、辺境伯邸から城へと矢のように届いた。
「皇子殿下からの贈り物を口にして、エリナ・ヴァルトハイム嬢が倒れた」と。
伝令の声は震え、従者たちの足音が石の廊下に響き渡った。
報告を受けた側近ローレンツが顔色を変えて殿下に取り次ぐと、普段は微動だにしない氷の仮面が揺らいだ。 露わになったのは焦燥と怒りを押し殺した色だった。
レオンハルトはためらいなく馬に跨がり、風を裂くように駆け出した。
行き先はただ一つ――辺境伯家のタウンハウス。
到着した屋敷は騒然としていた。医師や従者が飛び回っている。
レオンハルトは足を踏み入れ、階段を何歩かで駆け上がると、エリナのいる寝室へ飛び込んだ。
そこで見た光景は、言葉を失わせるほどに残酷だった。
エリナの頬は青白く、時に氷のように冷え、またあるときは熱に浮かされたかのように火照る。小さな体が痙攣し、呼吸が浅く、生命の灯が薄れていくように見えた。
荒い息遣いと、かすかな呻き声が漏れ聞こえる。
レオンハルトは、エリナを失うことへの抑え得ぬ恐怖を味わった。
医師が顔を曇らせて告げる。
「これは普通の毒ではありません。体内の魔力の流れが乱れ、内側から作用しています。外的な傷は見当たらないが、力の潮流が異常に膨れ上がり、肉体を蝕んでいるのです」
言葉は冷静だったが、誰の耳にも深刻さが伝わった。
レオンハルトは言葉少なに彼女を抱き寄せ、額に冷たい掌を当てた。指先を首筋や手首の魔脈に置いて探ると、確かに異常がある。魔力が局所的に膨張し、うねり、暴走している。外からの薬や解毒剤では押さえきれぬ、内より沸き上がる瘤のような蠢き──それは人の手によって仕組まれた呪いのように思えた。
そして彼は、眠ることを捨てた。
昼も夜も、時間の境は消えた。石の床に膝を据え、指先で陣を描く。術式の一つ一つを正確に、着実に刻み込むことが唯一の道だった。増殖する呪力の“核”を探し出し、そこに逆向きの印を刻んで機能を削ぐ。核を封じ、次の核へ移る。即効性のある解法はなく、段階を踏んで暴走を順に鎮めるほかない。
レオンハルトは自らの魔力を細い糸のように取り分け、それを核へと通し、逆回路へと流して熱へと還していった。魔力は消費されるたびに身体を削り、やがて頬はこけ、目の下に影が落ち、無精の髭が伸びる。だが彼は手を止めない。
エリナの枕元で、呼吸が乱れるたびに声をかけ、こぼれた汗を拭い、布団の裾をそっと直した。エリナのそばに寄り添い続けたのは、ただひとりレオンハルトだけだった。
辺境伯邸の従者たちも、皇宮から付き従った側近ローレンツも、その鬼気迫る様子を震えながら見守った。誰もが彼の術式を完全には理解できず、不安と畏怖の入り混じったまなざしで見守るしかなかった。
レオンハルトはローレンツに命じる。
「差し入れの出所を洗え。誰が菓子を準備し、誰が届けたか。可能な限り痕跡をたどれ」
──呪詛が仕組まれた手口を暴き、下手人を突き止めるためだ。
日を重ねるごとに、レオンハルトは確実に消耗していった。だが陣は一つずつ効を奏し、暴走の火種は少しずつ冷まされていく。
七夜が過ぎ、八日目の淡い朝。薄明の光が窓を撫でるころ、エリナのまぶたがわずかに震え、ゆっくりと開いた。
瞳はまだ霞がかかるように濁り、焦点は定まらない。
けれど、その視線がレオンハルトをとらえた刹那、強張っていた表情がふっと和らぎ、唇がかすかに開いた。
「……殿下……?」
その声に、レオンハルトは一瞬、呼吸を忘れた。
そして次の瞬間には彼女の手を握っていた。
確かに温もりが戻ってきている――その事実が胸を打ち抜き、抑えていたものが一気に込み上げる。
驚きと安堵が入り混じり、声はわずかに震えていた。
「……エリナ……」
「……殿下の声が、ずっと聞こえてきました」
か細い声が唇から零れ落ちる。
暗闇の中で、何度も殿下の声に呼ばれていたのだと、彼女は途切れ途切れに告げた。
「……やっぱり、優しいんですね」
その囁きは風のように弱々しく、それでも確かな温もりを残した。
レオンハルトの胸を締めつけていた恐怖は、ようやく解き放たれる。
氷の仮面がふと緩み、頬にかすかな光が差す。
エリナのまつげがふるえ、やがて静かに瞼が閉じられる。
安堵の吐息を残して、彼女は再び深い眠りへと沈んでいった。
彼は静かに布団の縁を引き上げ、柔らかくエリナの肩に掛け直した。しばらくの間、彼はその場に座り込み、静かな寝顔の彼女をじっと見つめた。神など信じたことはなかったが、その瞬間ばかりは、心の中で何かに感謝している自分を自覚した。
しかし安堵は長くは続かない。医師の説明は明快だった。原因は呪詛の可能性がきわめて高い。外敵が仕組んだ巧妙な術であり、誰が背後にいるのかを突き止めねばまた同じ危険が繰り返される。
だが、誰であれ――エリナに手をかけたという事実。それだけで十分だった。
胸の奥で、所有を侵された獣の怒りが牙を剥き、鋭く燃え立つ。
彼女はもはや、ただの辺境伯令嬢ではない。
いつの間にか、傍らに置き、守り抜くべき唯一の存在となっていた。
その領域を踏み荒らした者に待つものは、赦しではない。
ただ滅びだけ――冷徹な断罪が与えられるのだ。
レオンハルトは立ち上がり、暗い窓の外を見据えた。
氷のような冷たさと、灼熱の憤怒がひとつに溶け合う。
低く漏れた声は、石壁すら震わせる響きを帯びる。
「……俺のエリナに手を出した罪は、必ず償わせる」
その言葉には、もはや単なる怒りを超えたもの――澄み渡りながらも、凶々しい決意が宿っていた。
氷の仮面の奥で、復讐の獣が牙を研ぎ、静かに唸りを上げる。
目尻に深い影が落ち、唇の端はほんの一瞬、残酷な笑みに歪んだ。
金の瞳に宿った光は、従者たちが息を呑み、直視できぬほど鋭く壮絶だった。
その場にいた誰もが理解した。
――帝国の皇子が本気で怒りを燃やした。
その矛先となった者に、もはや逃れの道は残されていない。