第11話 公爵家に芽吹く陰謀
その夜。
武功祭の喧噪がまだ街の隅々に残り、酒場の灯が揺れているころ――アイゼンリート公爵家の馬車は、重く閉ざされた館の門を軋ませて帰還した。
館の中はすでに静まり返っていた。だが豪奢な応接室の扉が閉じられるや否や、その静けさは破られる。
ドロテアは絹のドレスの裾を踏み乱し、宝石の髪飾りも傾けたまま、父のもとに駆け寄った。
「お父さま……っ!」
膝に縋りついた瞬間、押し殺していた感情が堰を切った。嗚咽と共に言葉が迸る。
「殿下は……殿下は、あの娘に……! 今日もずっと隣に……っ!」
涙に濡れた頬を震わせ、嫉妬と怨嗟をにじませる姿。
公爵は険しい眉を曇らせながらも、その訴えを黙って受け止めていた。
彼は知っていた。
幼い頃から娘がどれほど努力を重ねてきたかを。
容姿も礼儀も、舞も剣も――すべては「皇子の隣に立つ」ために磨き上げられてきた。
その甲斐もなく、今日の大広間でレオンハルトの微笑は、エリナという辺境の娘へ注がれていたのだ。
苦々しい記憶が脳裏に焼きついて離れない。
表彰台に進み出たあの娘。
皇帝すら見惚れるほどの凛とした立ち居振る舞い。
そして――万雷の拍手に包まれる彼女を、誇らしげに見つめる皇子の横顔。
「……殿下は、あの娘に心を寄せておいでなのです」
怨嗟をにじませる娘の訴えに、公爵はしばし沈黙し、やがてゆっくりと頷いた。
――武では敵わぬ。
皇子と互角に渡り合った娘だ。
ならば、術を使うまで。
重苦しい沈黙を断ち切り、公爵は決然と立ち上がった。
机上の銀鈴を鳴らすと、すぐに家令が姿を現す。
「……奴を呼べ。例の物を持ってくるように」
低く放たれた命に、家令は一瞬青ざめた顔で立ち尽くし、深く一礼して慌ただしく退室した。
残されたのは、なおも泣き濡れた顔で父の袖を掴むドロテア。
「お父さま……どうか……あの女を……」
声は涙に濁って震えていたが、その奥には狂気の炎が宿りはじめていた。
◇
やがて夜更け。
館の廊下に湿った衣擦れの音が忍び込み、燭火が風もないのに揺れた。
姿を現したのは、年老いた魔道士だった。
背は大きく曲がり、長い外套の裾は床を引きずっている。
痩せ細った指は蝋燭の火に透け、まるで骨だけが動いているかのようだった。
濁った瞳には妖しい光が揺れ、その佇まいは人の世の存在であることすら疑わしい。
「……お呼びでしたかな、公爵閣下」
しゃがれた声が広間に響くと、空気は一気に冷たく澱んだ。
ドロテアは涙に濡れた瞳で老魔導士を見上げた。憎悪の熱が胸を満たし、声にならぬ震えを呼んだ。
公爵は娘の肩に手を置き、静かに言い渡す。
「――ドロテア。お前の無念、必ず晴らしてやる」
重く沈んだ空気を切り裂くように、老魔導士は外套の裾を引きずりながら進み出た。
深紅の瞳孔は濁りきり、しかし底に燃え残る執念の炎がちらついている。
杖の先を床に突くと、乾いた音とともに薄い燐光が広がり、部屋全体が外界から切り離されたように静まった。
「……ご所望のものを」
掠れた声が告げると、魔導士は袖の奥から掌ほどの小箱を取り出した。
漆黒の木で作られ、表面には古い帝国文字の呪符がびっしりと刻まれている。
箱の蓋が軋みながら開く。
そこにあったのは、小さな黒い結晶の種だった。
灯火を受けて赤黒い光を放ち、見ているだけで胸の奥に冷たい圧迫感が広がる。
「これは禁じられし呪種。宿した者の魔力を際限なく増殖させ、やがては肉体も精神も内側から食い破る……まさしく“内よりの破滅”」
老魔導士はうっとりとしたように囁いた。
ドロテアの瞳に、狂気じみた光がちらついた。
その手が吸い寄せられるように種へ伸びかけた瞬間、公爵が鋭く遮った。
「触れるな。お前が使う必要はない」
低い声には冷徹な決意が込められていた。
公爵は結晶を凝視し、眉間の皺を深める。
「……これで、辺境の小娘とやらも終わりだ」
言葉は冷酷でありながら、娘の涙に心を揺らされていることを隠しきれなかった。
ドロテアは父の袖に縋り、嗚咽混じりに訴える。
「お父さま……どうか、お願いします。殿下を……殿下を奪われるくらいなら……」
その必死の声に、公爵は黙って頷いた。
小箱が閉じられると、燭火が大きく揺れ、闇が部屋全体を覆った。
こうして――ドロテアの執念と公爵家の闇が、静かに動き出したのだった。