前向きな嘘
彼の名前は柊といった。
あのギャラリーの雨の日から、二人は少しずつ連絡を取るようになった。最初はたわいないやりとり。今日の天気、珈琲豆の話、展示会の準備。
そして、3回目に会った日の帰り道。柊がぽつりと口にした。
「俺、実は一回、仕事辞めて引きこもってた時期があって」
電車の中、真奈美は静かに彼の横顔を見つめた。
「その間、家族とも縁切ってたし……今も、なんていうか、完璧には戻ってないって感じかな」
やっぱり、と思った。
優しさの裏側には、どこか人との距離を測りかねる不器用さがあると感じていた。それが、彼の過去と結びついてしまった瞬間だった。
正直、戸惑った。
結婚を考えられるような相手か?
この人と一緒にいることで、自分の人生は安定するのか?
頭の中に、「やめておけ」という赤いランプがチカチカと点滅しはじめる。
でもその夜、布団の中で思い出すのは、
――雨の日のギャラリーで見た、彼のあの素朴な笑顔。
――コーヒーを選ぶ時、真奈美の好みをそっと覚えていた気遣い。
――口下手な言葉の中に滲む、真面目さと誠実さ。
どうしても、全部を切り捨てることができない。
**
1週間後、ふたりはまた会った。
今度は、神楽坂の小さなレストラン。
彼が注文した料理を見て、また、真奈美は少し冷める。
「えっ……それ、全部ニンニク入ってるやつじゃん」
「うん、俺、ニンニク大好きで。明日もリモートだし、気にせずガッツリ行こうと思ってさ!」
そう言って笑う柊。
悪気はない。でも、彼女の中には小さな違和感が広がっていく。
(私、こういうの気になるんだよね……。空気読めないっていうか……大人としての“引き算”ができない人、ちょっと苦手かも)
だけど、ふと顔を上げると、彼がこっちをじっと見ていた。
「真奈美さん、今ちょっと引いてたでしょ?」
「えっ……」
「うん。いいよ、無理しなくて。俺、そういうの、ちょっと分かるんだよね」
その一言に、真奈美は息を呑んだ。
馬鹿正直で、ちょっと鈍感で、でもどこか鋭い彼の目。
なんでだろう。
“もっといい人がいるかもしれない”って思うくせに、
この人のちぐはぐな優しさを、どこかで手放せない。
**
帰り道。
彼が改札に入る前、ふと立ち止まって言った。
「たぶん俺、完璧な彼氏にはなれないけど……
真奈美さんが笑ってくれると、なんか、生きてていいって思うんだ」
真奈美は、うまく言葉が出なかった。
きっとこの人と付き合っても、またどこかで冷める。
また「いまいちだな」と思う瞬間がくる。
でも、それでも。
心の奥で誰かに触れていたいという気持ちは、まだ消えていなかった。
――たとえ、矛盾だらけでも。
――たとえ、100点じゃなくても。
「……私も、そんな風に思えるようになりたい」
小さな声だったけど、それが真奈美の、初めての“前向きな嘘”だった。
でもきっと、それは未来に向かう最初の一歩になる。
恋は下手でも、
心は、まだ諦めていなかった。