それは諦めじゃなく、願いだった。
東京の6月は、まるで湿った毛布をかぶっているような重さだった。
真奈美は、帰宅ラッシュの電車の中でふと窓に映る自分の顔を見て、小さく息を吐いた。34歳。最近、年齢を口に出すたびに喉が詰まる。
「いい加減、ちゃんとしなきゃ」
そう思って婚活アプリに登録したのが3ヶ月前。メッセージをやり取りし、カフェでお茶をして、時には食事もした。
けれど——
「犬の毛が部屋中にあっても平気で寝れるんだよね、俺」
「なんか、元カノがさ、やたら情緒不安定でさ……」
「真奈美さんって、子ども欲しいんですか?」
会うたびに、少しずつ萎れていく。相手の言葉が悪いわけでも、態度がひどいわけでもない。ただ、心が跳ねない。
付き合うって、こんなにも「気持ちが乗らないもの」だったっけ?
それとも、自分の恋愛アンテナがもう壊れてしまったのだろうか。
**
「ねえ、真奈美。また会わない?」
先週の土曜に会った男・裕貴からのLINEに、返信しないまま3日が経っていた。
彼は悪い人ではなかった。むしろちゃんと話を聞いてくれるし、コーヒーの好みも覚えてくれていた。でも、どこかに「無理」がある。なにが?理由は、はっきりしない。ただ、心が「やめとけ」と囁く。
ソファに沈みながら、真奈美はスマホを握ったまま呟いた。
「私、なんで付き合いたいんだっけ……」
一人が寂しい。将来が不安。誰かに必要とされたくて、愛されたい。
でも、「この人じゃない」と思いながらも恋愛に踏み出すことが、余計に自分を孤独にすることを、彼女はうっすら知っていた。
**
日曜の午後、雨。
街を歩いていると、小さなギャラリーの窓から柔らかいピアノの音が漏れていた。吸い込まれるように入ると、そこには地味なシャツを着た青年が、一人で展示の準備をしていた。
「……こんにちは」
青年は驚いたように振り向き、すぐに微笑んだ。
「あ、どうぞ。雨宿りでも」
真奈美は戸惑いながらも、展示されているモノクロの写真に視線を落とす。どれも、どこか懐かしい場所の風景だった。
「全部、自分で撮ったんですか?」
「はい。……あんまり映えないでしょ。でも、記憶の底って、たいてい白黒じゃないですか」
そう言って笑う彼に、真奈美の胸がふっと軽くなった。特別な会話じゃない。ただ、その場に流れる空気が、妙にしっくりきた。
雨はまだ止まない。でも、悪くない午後だった。
「……名前、聞いてもいいですか?」
彼女がそう口にしたとき、自分でも気づいた。
まだ知らない誰かに、心を開こうとしている自分がいることに。
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恋愛がうまくいかない。
相手に幻滅してばかりで、付き合いたくなくなる。
それでも。
それでも真奈美は、恋がしたいと思っていた。
それは諦めじゃなく、願いだった。