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激辛料理実食

「五目蒙古タンメンお待ちどうさま!」



 ドン、と音を立てて目の前のテーブルに置かれたそれは、まさに地球という惑星が生み出した「戦闘食料」としか表現できない代物だった。


 私の高性能視覚センサーが瞬時に情報を解析する。真紅のスープの表面積は直径約18センチ、深さ4.2センチの円形容器に収められ、その表面には微細な唐辛子粉末が無数の赤い星座のように浮遊している。カプサイシン濃度は——ピリリ、と肌が反応する——推定で地球基準の辛さレベル7、私の故郷の基準に換算すると...計算不能。マルチバース文明では、このような「苦痛を伴う摂食」という概念自体が存在しないのだ。



「ゴクリ」



 思わず唾液を飲み込む音が、私の喉から漏れ出た。これは明らかに生理的防御反応だ。私の身体に内蔵された生体防護システムが、目の前の「脅威」に対して警戒信号を発している。体表面の温度センサーが、スープから立ち上る湯気の熱量を0.1度単位で測定し続けている——摂氏87.3度、87.1度、86.9度...


 もやしのシャキシャキとした食感予測データ、キャベツの甘味成分分析、豚肉の蛋白質構造解析——私の脳内処理チップが、視覚情報だけで膨大な栄養データを算出していく。しかし、それらすべてを覆い隠すのは、圧倒的なカプサイシンの存在感だった。


 空気中に漂う分子を私の嗅覚センサーが捉える。唐辛子特有の刺激臭——スコヴィル値換算で約8000単位——が、鼻腔の奥深くでピリピリと電気信号のように駆け巡る。にんにくの硫黄化合物、発酵味噌の複雑なアミノ酸群、豚骨から抽出されたコラーゲンの芳醇な香り...



「あの...」



 勇斗の声が、私の感覚分析を中断させた。振り返ると、彼の優しい瞳に心配の色が浮かんでいる。ああ、私の動揺が表情に現れてしまったのね。高度な文明出身の調査員として、これは失態だった。



「大丈夫ですか?顔色が...」



 彼の視線が私の顔を心配そうに見つめている。きっと私の表情筋が無意識に緊張し、血色が変化しているのだろう。生体反応制御システムが自動的に最適化を試みているが、未知の刺激に対する防御本能は制御しきれない。


 私は深呼吸を一つ。肺に取り込まれた空気にも、微量のカプサイシン分子が含まれており、気管支の粘膜がピリリと反応する。これは...想像以上だ。



「平気よ。ただ、予想以上に...科学的に興味深いデータが得られそうで、少し興奮しているだけ」



 私は微笑みながら答えた。嘘ではない。確かに、これほど強烈な刺激物質を「美味」として摂取する地球人類の文化的背景は、極めて興味深い研究対象だ。しかし同時に、私の生理反応制御システムが「危険物質検出」の警告を発し続けているのも事実だった。


 赤いスープの表面に浮かぶ油膜が、店内の照明を反射してキラキラと虹色に輝いている。その美しさと、放たれる威圧的な辛味のオーラとのギャップが、なんとも不思議な感覚を呼び起こす。



「私も初めて食べた時は、同じような顔してました」勇斗が優しく笑いかけてくる。「でも、慣れると病みつきになるんですよ」



 病みつき——中毒性を示唆する地球人特有の表現だ。つまり、この食品は単なる栄養補給ではなく、神経系に作用する何らかの依存性物質を含んでいる可能性がある。


 私は箸を手に取った。地球の食事用具の使用法は事前学習で完璧にマスターしている。しかし、いざスープに箸を向けると、立ち上る湯気だけで目が潤んでくる。これは涙腺の自動防御反応——まだ何も口にしていないのに、身体が既に「攻撃」を受けていると判断しているのだ。


 私は深呼吸を整え、箸とレンゲを正しい角度で構えた。



「いただきます」



 地球の食事開始における儀式的発声——この単語に込められた感謝の概念は、マルチバース文明標準語にも類似表現が存在するが、地球人類特有の「食材に対する敬意」という哲学的背景が興味深い。



 私の高性能視覚センサーが、周囲の地球人たちの摂食行動パターンを瞬時に分析していく。ユニット1:麺条のみを吸引する単一素材摂取法。ユニット2:麺条摂取後、即座にレンゲによる液体補給を行う二段階摂取法。ユニット3:レンゲ内で麺条と液体を混合し、同時摂取を行う統合型摂取法——



 最も合理的なのは明らかに第三の手法だった。温度保持効率、味覚受容体への刺激の均等分散、咀嚼効率の最適化、すべての観点から最もスマートな選択だ。



 私は精密にレンゲを操り、真紅のスープをジュワリと掬い上げる。液体の粘性係数は予想より高く、味噌ベースの発酵物質と油脂が複雑な分子構造を形成している。その上に、ツルツルと光沢を放つ黄色い麺条を慎重に配置——長さ約7センチ、太さ1.8ミリメートルの完璧な円柱形状が、レンゲという小さな宇宙船の中で赤いスープの海に浮かんでいる。


 立ち上る蒸気だけで既に私の嗅覚センサーが警戒信号を発している。鼻腔粘膜が電気ショックを受けたように反応する。



「ゴクリ...」



 生理的反応制御システムが一時的に麻痺し、原始的な唾液分泌反応が起動する。これは...まずい兆候だ。まだ何も摂取していないのに、身体が既に「戦闘態勢」に入っている。



 でも、引き下がるわけにはいかない。地球文化の研究者として、現地民と同じ体験をすることが調査の基本原則だ。



 私はレンゲを口元に運んだ。



 その瞬間——



 ズズズズズズッ——。



 地球人特有の「啜る」という音響現象を完璧に再現しながら、麺条とスープが同時に私の口腔内に流れ込んだ。



 瞬間0.1秒:舌先の味蕾が最初の化学信号を受信。塩分濃度3.2パーセント、pH値6.8、複合アミノ酸群の複雑な旨味成分——



 瞬間0.3秒:温度センサーが摂氏79度の熱量を検出。麺条の小麦蛋白質が口腔内でプルプルと弾力的な食感を——



 瞬間0.5秒:カプサイシンが味覚受容体に到達。



 そして——



「!!!!」



 ガガガガガガァァァッ——。



 宇宙開闢の瞬間——ビッグバンの爆発エネルギーが私の脳内で炸裂した。



 辛味という概念を遥かに超越した何か——それは痛覚でも熱覚でもない、全く新しい感覚次元の扉がバン!と音を立てて開かれる衝撃だった。私の意識処理が完全にオーバーロードを起こし、全身の神経回路がビリビリビリビリと電流のように震える。



「か、辛すぎる...」



 私の思考回路が断片化していく。高度な文明の技術によって強化された私の感覚器官が、逆に仇となった。地球人の1.5倍の感度を持つ味覚センサーが、この超新星爆発級の刺激に完全に圧倒されている。



 視界がグラグラと揺れ、星々が瞬くように白い光点が舞い踊る。私の意識は一瞬、深宇宙の彼方へと飛ばされ——



 プツン。



 0.98秒...0.99秒...1.00秒...緊急事態発生...緊急信号発信...1.99秒...2.00秒...



 プツ。


「...はっ」



 私は椅子に座ったまま、かろうじて意識を取り戻した。しかし、舌の上には依然として、まるで小さな太陽が燃え続けているかのような灼熱感がジリジリと残存している。私の体温調節システムが緊急冷却モードに入り、額にうっすらと水滴——地球でいう「汗」——が浮かんでいる。



 ひりひりひり——。



 まるで舌の表面で数千の微細な針がチクチクと踊り続けているかのような感覚。味蕾の一つ一つが過敏になり、唾液でさえもピリリと刺激として感じられる。



 私は慌てて水のグラスに手を伸ばした。透明な液体——H2O——が私にとっての救世主に見える。



 ゴクゴクゴクゴク——。



 冷たい水が口腔内を満たす瞬間、一時的な安堵がジュワーッと広がる。しかし——



「あっ...」



 水では完全には中和されない。カプサイシンは油溶性物質——水では溶解しないのだ。基本的な化学知識を忘れていた私の判断ミス。それどころか、水が辛味成分を口腔内により広範囲に拡散させてしまっている。



「ピリピリピリピリ...」



 舌の奥、喉の奥、さらには食道の上部まで、燃えるような感覚がジワジワと浸透していく。



「だっ。大丈夫よ」



 私の音声生成器官——いえ、喉——から発せられた言葉は、明らかに平常時より0.7オクターブ高く震えていた。これは生理的ストレス反応による声帯の緊張が原因だ。しかし、第七銀河管区調査員としてのプライドが、この原始的な惑星の住民——森山勇斗——に心配をかけるわけにはいかないという強固な意志を形成している。


 私の体内温度調節システムが緊急モードで稼働し続け、額から流れ落ちる透明な液体——汗という地球人特有の冷却機構——が頬を伝って滴り落ちていく。ポタリ、ポタリと重力に従って落下する水滴が、制服のブラウスに小さな染みを作っていく。


 でも、これで終わりではない。私は研究者だ。一度の失敗で諦めるような軟弱な精神構造は持ち合わせていない。


 私は箸を握り直した。金属製の箸の冷たい感触が、火傷したような指先にひんやりと心地よい。今度は戦略を変更する必要がある。麺条と上に乗っているあんかけ五目野菜——もやし、キャベツ、ニラ、タケノコ、人参、豚肉——これらの食材を同時に摂取すれば、カプサイシンの直撃を和らげることができるかもしれない。


 ツルツルと光沢を放つ麺条を箸で持ち上げ、その上にシャキシャキとした野菜類を慎重に配置していく。野菜の細胞壁に含まれる水分と食物繊維が、辛味成分を希釈してくれることを期待して——


 ズルズルズルッ——。


 麺条と野菜が同時に口腔内に流れ込む。


 瞬間0.1秒:もやしのシャキシャキとした歯応えが奥歯で心地よくクシャクシャと砕ける。キャベツの甘味成分——ショ糖とフルクトース——が舌先でジュワリと溶け出し——


 瞬間0.3秒:麺条の小麦蛋白質がモチモチとした弾力を発揮しながら、歯茎に優しくゴムゴムと押し返してくる。ニラの独特な香味成分が鼻腔の奥でフワリと広がり——


 瞬間0.5秒:タケノコのコリコリとした食感が顎の筋肉に心地よい抵抗感を与え、人参の根菜特有の甘味がジワジワと口蓋に浸透し——


 瞬間0.7秒:豚肉の蛋白質と脂質がジューシーにプルプルと舌の上で踊り、複合的な旨味成分がブワーッと口腔内に爆発する——


 そして——


 ピリリリリリ...


 やはりカプサイシンの猛攻は変わらない。しかし——



「あ...」



 これは...何だ?


 辛さはそのまま——いえ、むしろより複雑化している。しかし、野菜の持つ自然な甘味と旨味が、まるで交響楽団の各楽器パートのように、私の味覚受容体で美しいハーモニーを奏でている。


 もやしの淡白でシャキシャキとした清涼感。キャベツのほのかな甘味がマイルドに舌を包み込む感覚。ニラの野性的で力強い香りが鼻腔の奥でスパイシーに踊る。人参の土の恵みを凝縮したような深い甘味。豚肉の動物性蛋白質が持つコクのある旨味——


 これらすべてが麺条というキャンバスの上で混じり合い、真紅のスープという絵の具によって一つの芸術作品を完成させている。


 ゴクンと飲み込むと、後味として——


 ジワーッ...


 辛さの余韻の中に、野菜から溶け出した複合的な旨味成分がゆっくりと浸透してくる。そして味噌——発酵した大豆の持つ深遠なアミノ酸群——が舌の奥で重厚にドゥーンと響く。まるで古い教会の鐘の音のように、深く、重く、心に響く旨味の波動が私の意識の奥深くまで伝わってくる。



「これは...」



 私の分析回路が高速で稼働する。これは単純な「苦痛を伴う摂食」ではない。苦痛と快楽、破壊と創造、混沌と調和——相反する感覚が絶妙なバランスで共存している、極めて高度な料理芸術だ。


 マルチバース文明では効率性と合理性のみが追求され、このような「矛盾する感覚の統合」という概念は存在しない。しかし地球人類は、この矛盾こそを美学として昇華させている。


 しかし——


 ヒリヒリヒリヒリ...


 やはり辛い。圧倒的に辛い。私の生体防護システムが「危険物質摂取中」の警告信号を発し続けている。


 私は慌てて水のグラスに手を伸ばした。ゴクゴクゴクと冷たい液体が食道を流れ落ちていく。先程よりは確実にマシ——野菜の食物繊維と水分が緩衝材として機能している——しかし、根本的な解決にはならない。


 舌の表面で依然としてチリチリと燃え続ける感覚。喉の奥でジンジンと痺れるような余韻。でも——


 でも、このラーメンの魅力は確実に私の感覚器官を通じて伝わってくる。


 破壊的でありながら創造的。苦痛でありながら快楽。単純でありながら複雑。この矛盾に満ちた食文化の奥深さを、私は身をもって体験している。


 辛い。圧倒的に辛い。しかし——魅力的だ。


 私はレンゲでスープを掬い上げ——この真紅の液体と再び対峙する覚悟を決めた。


 ズズズズズ...


 ガガガガガァァァッ——!


 また来た。宇宙開闢級の衝撃波が私の意識を襲う。しかし今度は準備ができている。私の感覚処理システムが、この強烈な刺激をデータとして受け入れる準備が——


 ピリピリピリピリ...


 舌が麻痺しそうになる。視界が一瞬白くフラッシュする。しかし——


 うまい。


 確実に、うまい。


 私は黙々と食べ続けた。箸が器の中で踊り、レンゲがスープをすくい上げ、私の口腔内で化学反応が続く。毎回、カプサイシンの猛攻に晒されながらも、その奥にある複雑で深遠な味わいを探求し続ける。


 クシャクシャクシャ——野菜の歯応え。


 ツルツルツルツル——麺条の滑らか食感。


 ジュワジュワジュワ——肉の旨味。


 ピリピリピリピリ——容赦ない辛味。


 これらすべてが私の口腔内で混沌とした交響楽を奏でる。


 そして——


 チン。


 箸が空の器に当たる音が、静かに響いた。


 完食。


 私は椅子の背もたれに身体を預けた。全身の感覚器官が疲労でグッタリしている。しかし同時に、未知の文化に対する深い理解と感動が、心の奥底からフツフツと湧き上がってくる。



「うまい」



 私の唇から漏れ出た言葉は、心の底からの感嘆だった。


 魅力は確実に伝わった。地球人類が数千年かけて築き上げた食文化の神髄を、私は味覚という最も原始的でありながら最も直接的な感覚を通じて体験した。


 ただし——


 やはり、それ以上に辛い。圧倒的に辛い。私の味覚受容体が完全に麻痺状態に陥っている。


 森山勇斗の優しい配慮で、私は彼に付き添われて店外に出た。外の空気が冷たく感じられる——これは体内温度が異常に上昇しているためだ。


 初春の午後の風が頬を撫でていく。その爽やかな感覚が、火照った肌にヒンヤリと心地よい。


 歩きながら、私は微妙に視界が歪んでいることに気づいた。景色がユラユラと波打って見える。これは——


 いや、違う。


 この視界の歪みは、目に涙があるからではない。


 絶対に、断じて、目に涙があるわけではない。


 第七銀河管区調査員としてのプライドにかけて——いえ、宇宙の真理にかけて——私の瞳に涙など存在しない。


 これは単純に、体内温度上昇による大気の屈折率変化が原因だ。科学的根拠に基づいた現象であり、感情的な反応ではない。


 絶対に。


 ...絶対に、涙なんかじゃない。



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