マルチバース文明第七銀河管区食文化調査員セリュフィア=ル=クラリアン
深宇宙を航行する調査船『アスティラント号』の個人研究室において、セリュフィア=ル=クラリアンは淡い青白い光を放つホログラムディスプレイの前に腰を下ろしていた。
彼女の銀色の髪が、船内の人工重力制御システムによって作り出された微弱な気流に揺れている。
「地球ね」
セリュフィアの唇から漏れた言葉は、マルチバース文明標準語で発せられていたが、その音韻は地球の日本語に酷似していた。これは偶然ではない。第七銀河管区の言語学者たちが数千年前に導き出した「言語収束理論」によれば、知的生命体の音韻体系は文明発展段階に関係なく、一定の法則に従って収束する傾向があるのだ。
【地球のデータをダンロードします】
船載AIの合成音声が研究室内に響く。セリュフィアの眼前で、無数の光点が三次元空間に展開され、地球という惑星の全容が立体映像として構築されていく。青い海、白い雲、茶色い大陸——それは彼女がこれまで調査してきた数百の惑星と比較しても、決して特異な外観を呈してはいなかった。
しかし、セリュフィアの瞳に宿る知的好奇心は別の場所に向けられていた。あらかじめ放っておいたナノマシンから得た情報を回収する——その作業こそが、今回の調査任務の核心だった。直径わずか数ナノメートルの微細な観測装置が、この三ヶ月間にわたって地球上に散布され、現地住民の日常生活を詳細に記録し続けていたのである。
ホログラムディスプレイに映し出される地球の言語分布図を眺めながら、セリュフィアは首を小さく振った。
「これは予想以上に複雑ね」
セリュフィアの指先が空中で軽やかに踊ると、ホログラムが反応して地球上の言語分布が色分けで表示された。赤、青、緑、黄——無数の色彩が大陸を覆い尽くしている。
「船載AI、地球上で現在使用されている言語の総数を教えて」
【回答:現在地球上では約7,000の言語が使用されています。このうち、話者数が1億人を超える言語は12言語、1,000万人を超える言語は約80言語です】
「7,000?」
セリュフィアの瞳が見開かれる。彼女の所属するマルチバース文明第七銀河管区全域——恒星系にして約50,000個——においてさえ、公用語はマルチバース文明標準語ただ一つなのだ。
「信じられない。直径わずか12,742キロメートルの単一惑星で、7,000もの異なる音韻体系が併存しているなんて」
セリュフィアは立ち上がり、研究室の透明アルミニウム製の窓に近づいた。窓の向こうには、無数の星々が瞬く深宇宙の光景が広がっている。アスティラント号の量子エンジンによって歪められた時空の影響で、星々の光は微かに青方偏移を起こしていた。
【補足情報:地球人類は文字体系においても多様性を示しています。表意文字、表音文字、アブジャド、アブギダなど、複数の文字体系が混在しています】
「文字体系まで?」セリュフィアは振り返ると、再びディスプレイに向き合った。「それで彼らはどうやって相互理解を図っているの?翻訳技術は?」
【回答:地球人類の翻訳技術は発展途上段階にあります。機械翻訳の精度は向上していますが、文化的コンテクストや感情的ニュアンスの伝達において限界があります。多くの場合、複数言語を習得した個人による人的翻訳に依存しています】
「人的翻訳?」セリュフィアの声に驚愕が混じる。「つまり、個々の生体脳に多言語処理能力を後天的に獲得させているということ?非効率にも程があるわ」
彼女の脳内多言語処理チップは、マルチバース文明標準技術によって開発されたもので、理論上無限の言語を瞬時に処理できる。一方、生体脳による言語習得は非可逆的な神経結合の形成を伴い、習得可能言語数にも限界がある。
【データ表示:地球人類の平均的な個体が習得する言語数は1.2言語です】
「1.2言語?それでどうやって異なる言語圏の個体と交流するの?」
【回答:多くの場合、共通言語として英語が使用されます。ただし、地球人口の約75パーセントは英語を流暢に話すことができません】
セリュフィアは深いため息をついた。効率性を追求するマルチバース文明の価値観からすれば、これほど非合理的なシステムは理解不能だった。
「待って」
突然、セリュフィアの表情が変わった。彼女の探究心が新たな疑問を見つけ出したのだ。
「もしかして、この非効率性そのものに何らかの意味があるのかしら?」
セリュフィアは細い眉をひそめた。彼女の理解を超える概念——「文化的多様性を保全する意義」——それは、効率性を至上価値とするマルチバース文明では既に失われて久しい価値観だった。
深宇宙の静寂を破って、セリュフィアの個人研究室に突如として通信信号が割り込んできた。量子もつれ通信システムの受信装置が淡い緑色の光を発し、三次元ホログラム投影装置が起動する。
「お姉様!お姉様!ご機嫌麗しゅうございます、アメリアですわ!」
投影された少女の姿は、セリュフィアよりも一回り小さく、同じ銀色の髪を優雅なツインテールに結い上げていた。彼女の瞳は深いエメラルドグリーンに輝き、マルチバース文明第七銀河管区の貴族階級特有の気品を醸し出している。アメリア=ル=クラリアンの声は、100億光年という途方もない距離を超えて、まるで隣室にいるかのように鮮明に響いていた。
セリュフィアは、長く息を吐いた。その姿はまるで、100億光年離れた妹に呆れながらも微笑む姉そのものだった。彼女の表情には疲労と愛情が複雑に入り混じっており、研究に没頭していた緊張感が瞬時に和らいだ。
「アメリアちゃん。どうしたの?また研究予算の件?」
セリュフィアは椅子に深く腰を沈め、ホログラムの中で手をひらひらと振る妹を見つめた。アメリアの背後には、マルチバース文明第七銀河管区首都星系ニューアルカディアの豪華な居住区が見えている。人工太陽の光が贅沢に配置された水晶の装飾品に反射し、虹色のスペクトラムを室内に投げかけていた。
「違いますわっ!」
アメリアの声が一オクターブ上がり、ホログラム投影装置のスピーカーが微かに振動した。
「どうしていつまでもそんな前時代的な食文化なんて研究していらっしゃるのですか!? 次の惑星も非常に原始的で、このアメリア、心配で心配で……お姉様が誘拐されたらどうしようかと」
アメリアの両手が胸の前で組まれ、その表情は本気の心配と軽い怒りが混在していた。彼女の着用している服装は、ニューアルカディア最新流行のナノファイバー製ドレスで、着用者の感情に応じて色彩が微妙に変化する。現在は不安を示す薄紫色に染まっていた。
「心配しないで。この星で私を傷つけられる可能性があるものは原子力爆弾くらいなものだから、しかも、一つで惑星一つも壊せなさそうな旧式のやつよ」
セリュフィアは軽やかに笑いながら答えた。彼女の身体に埋め込まれた生体防護システムは、地球の兵器程度では傷一つ付けることができない。マルチバース文明の個人防護技術は、恒星の核融合エネルギーにも耐えうるレベルまで発達しているのだ。
「確かに、それも心配ですがx染色体の猿どもがその惑星には大量にいるのですよね」
「そんな言い方はよくないよ、アメリアちゃん」
セリュフィアの表情が僅かに曇った。彼女の研究者としての倫理観が、妹の偏見的な発言を受け入れることを拒んでいる。マルチバース文明の高等教育システムでは、異種族に対する尊重と理解が基本理念として教え込まれているはずだった。しかし、アメリアには尊重の意識は低いように見える。いや、アメリアだけではなく宇宙全体が偏見に満ちているのだ。
「そんなことないですわ。x染色体の猿どもがお姉様の美貌を見ればその汚らしい下半身の——」
【着陸用の転移を開始します。通信機器の切断を致します】
船載AIの冷淡な合成音声が、アメリアの言葉を遮った。量子もつれ通信システムが緊急プロトコルに従って自動的に遮断され、ホログラム投影が静かに消失する。研究室内には再び静寂が戻り、只今まで響いていた妹の声の余韻だけが空気中に漂っていた。
「相変わらずね、アメリアちゃんは」
セリュフィアは苦笑いを浮かべながら呟いた。
【アメリアからの着信です】
【アメリアからの着信です】
【アメリアからの着信です】
「切断と7日間のタイムアウトをお願い。」
【かしこまりました】
かわいい妹だが仕事中に邪魔されるのは困るので、申し訳ないがしばらくタイムアウトさせてもらう。
(少し7日間話せないのは可愛そうだけど、調査を邪魔されたくないし。すこし、姉離れしないとね。ごめんねアメリアちゃん)
セリュフィアは、深宇宙の無音の世界を背に、再びホログラムディスプレイへと向き直った。数千の言語、複数の文字体系、そして無限に枝分かれした文化の断片——それらが地球という小さな惑星に凝縮されている。その混沌の中に、彼女は新たな秩序の兆しを探し始めていた。
だが、その秩序とは決して効率や最適解の形ではなかった。むしろ、非効率で、曖昧で、時に衝突すら生むもの——それこそが「文化」の核心ではないのか、と彼女は直感していた。
「やっぱり、食文化の研究よね」
その言葉は呟きというよりも、宣言だった。彼女の中に、マルチバース文明第七銀河管区文化調査員としての使命感が、ゆっくりと、しかし確かに芽生えていた。
マルチバース文明——そこは、科学が物理法則さえねじ曲げるほど進歩した社会。だがその代償として、人と人とのつながりは失われつつあった。情報は過剰に可視化され、個人のプライバシーは完全に解体され、宇宙通信網による絶え間ない刺激が感情を麻痺させていく。アイデンティティはAIによって補正され、対話はテンプレート化され、他者と「共に在る」という本質的な感覚はすでに神話のようなものと化していた。
さらに、情報の匿名性が招いたのは、極端な思想と差別の拡散だった。自己を絶対視するアルゴリズムが選別し、他者を「無意味な変数」として排除する傾向が社会全体に蔓延していた。
だからこそ、マルチバース文明第七銀河管区の一部では、逆説的な解決法として「食文化」に注目する動きが始まっていたのだ。食事とは、本来、異なる者たちが「共に」時間と空間を共有し、言語を越えて理解し合う最古の手段だった。炊きあがる香り、並んだ皿、交わされる視線——それはどんな次元理論よりも深く、文明の本質を支えてきた。
「人々が集まり、同じ鍋を囲む……たったそれだけのことが、私たちが見失ったものを蘇らせるかもしれない」
セリュフィアの声には、確信と微かな熱が宿っていた。
地球の料理——それは単なる栄養摂取の手段ではなかった。各文化が長い時間をかけて積み重ねた記憶、風土、感情、物語の結晶体だった。彼女の研究対象は、もはや言語体系の収束や論理的パターン分析だけでは収まりきらなかった。
文化とは、感じるものだ。味わい、香り、記憶と共に生きるものだ。
セリュフィアはゆっくりと息を吐いた。彼女の表情には、これまでの研究では見せたことのない柔らかさが浮かんでいる。効率を捨てて、少し遠回りしてみる価値が、確かにそこにはあった。
彼女の中に、ひとつの問いが浮かび上がる。
(もし地球の「非効率性」が、人間性を保つ鍵だったとしたら……)
その問いが、彼女の研究に新たな意味を与えていた。数値では測れない「つながり」の本質。思考パターンの多様化がもたらす創造性。そして、文化の真の価値——それは、非合理の中にこそ宿る。
「さて……味わわせてもらうわ。地球の“真髄”を」
セリュフィアの瞳が細く鋭く光り、ホログラム上に浮かぶ地球の小さな列島を見据えた。そこには数多の味と匂いと物語が詰まっている。彼女はそれを、全身で、全精神で、調査しようとしていた。
それが、文化調査員としての、彼女なりの革命だった。
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