とある店内、あの日の呼び出し②
『鍵はポスト入れといて』
大学に行く道すがら、ミサキに連絡を入れた。
『わかったー』
『こっちもこれから仕事』
返信を待っている間に一限の講義が始まってしまったが、講義を終えてスマホを確認すると、大好きの文字が書かれたスタンプと一緒に、ミサキからメッセージが返ってきていた。
『ありがとう』
『頑張って』
俺もミサキのメッセージに対して返信して、次の講義に向かった。そうして午前の講義を終え、昼食をどうするか悩む。急いで出てきてしまったので当然、いつものように弁当も持って来ていないし、昨日のようにコンビニで買ったりもしていない。
となると、学食という選択肢があるが──。
「今日はやめとこう……」
以前、弁当を持ってこずに学食に行って美咲を見かけた時のことを思い出す。もしかしたら今日も美咲は学食で昼飯を摂っているかもしれない。あの時は俺から声をかけたが、今ここで顔を合わせることに対して、ためらいがあった。
俺は一度学外に出て、どこかで昼食を済ますことにした。学生に人気の安くてうまい定食屋や牛丼チェーン店などが並ぶ中、俺はラーメン屋に入った。せっかく珍しく外に出たのだから今日は何か、脂っこい物を食べたくなったのだった。
ただ後で胃荒れで苦しむ可能性も考え、その日は油少なめでスタンダードな豚骨ラーメンを頼んだ。
旨い。久しぶりに学外で食うラーメンは頭の先っぽから爪先まで脳汁が行き渡っていくような心地がするほどに旨かった。他のメニューも気になったが、二杯目を腹に入れる余裕は流石にない。そっちはまた次の機会にしようと決めて、俺は大学に戻った。
午後の授業もなにごともなく進んだ。その間も『今何してる?』『こっちは今大変』などと時折来るミサキのメッセージへ返信しながら過ごした。
そして今日も、部室には寄らなかった。
片桐さんが店に来るように言っていた時間まで、漫画喫茶に行って時間を潰した。以前気になっていた漫画の続きを最新刊まで読み終わったくらいのところで良い時間になり、俺は見学店に向けて足を運んだ。
約束の時間の二十分前に見学店に到着したが、このくらいはスタッフルームで待っていれば良いだろう、と俺はいつものように店の裏手のスタッフルームに通じる扉を開けた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様ー、早いね」
普段はここで聞かない、しかし昨日も聞いた声が俺の耳に届いた。
俺は無意識に俯きながら部屋に入っていた自身の頭をあげる。
「何やってるんすか、古宮さん」
「何って、バイト?」
古宮さんが店の制服コスチュームを着て、脚を組んで椅子に座っていた。古宮さんの豊満な胸元がボタンを外しているせいで下着ごと露わになり、スカートをかなり短めに履いているせいで、中の下着が見えている。髪の毛を巻き気味のロングにしているが、昨夜の時点より毛量が増えており、エクステを使っているのがわかる。爪にはネイルを施して、耳には大きめの丸いピアスをぶら下げていた。
「攻めますね」
俺は思わず感想を溢した。ギャルっぽいというコンセプト的には、ゆりあさんやかのこさんとかにも近いか。彼女たちよりも少し古めのギャル像なのは、むしろ客層を意識してか。だとするとこのキャストの写真を撮るなら、ダブルピースとか指ピースとか、そういうのを織り交ぜても面白いか、などといつものカメラマン目線の思考をぐるぐると頭の中に浮かべた後、違うそうじゃない、と俺は自身の頭を抱えた。
「え、新人って古宮さんのこと?」
「馬鹿言ってんじゃないよ、そいつはあくまで体入だ」
俺の問いに答えたのは古宮さんではなく、店の方に続く扉から入ってきた片桐さんだった。
「奏の奴が久々に荒稼ぎしたいって言ってね」
片桐さんは近くの椅子に座り煙草に火をつけると、ふうっと一息ふかした。
「他の女の子の目もあるから特別扱いはできないよ、って言ったのに我が物顔すんだから困ったもんさ」
「片桐さん、ありがとー! 愛してるー!」
「やかましい。何だいそれは? ロールプレイは客の前だけにしな」
煙草を燻らせていた片桐さんは、そう言いながら、少し吸っただけで口からたばこを離すと、灰皿に火元をグリグリ押し付けた。
「結城、まだあんたの出番までは時間あるから、それまではここで休んでていいよ」
「ホントにありがとね。先輩さんとの時間作らせてくれて」
「さて、何のことやら。あんたがキャストとして入ればこっちの実入りも良いってだけだよ」
まだ来たばかりで煙草をほとんど吸ってもいないのに片桐さんは立ち上がって、店の方に通じる扉の方にまた戻る。
「あんたも色々あると思うけど、ウチに迷惑かけなきゃあたしはそれで良いからね」
片桐さんは扉を開けて外に出ようとしたところで足を止め、俺の方に向けて言う。それから後悔したように自身の頭を掻きむしった。
「いや、これもお節介過ぎるね。ったく奏の馬鹿が」
最後の方、ぶつぶつと呟くようにそう言って、片桐さんは店の方に戻っていった。
扉がバタンという大きな音を立てて閉まる。
「え、何? どういうこと?」
「わたしが片桐さんに頼んだの」
「何を?」
「次に結城くんが来る時に話す時間作れないかー、って。そしたら片桐さんがさっさと君を呼び出してくれた」
急な呼び出しの理由は何かと思ったが、古宮さんが一枚噛んでいたのか。でも何で?
「そんなの普通に塾で話すか、なんなら古宮さん家に行けば」
「んー、それできるか微妙だなーと思ったから」
俺は首を傾げる。古宮さんの意図が正直、俺には全くわからない。
「ユウくん、あの子と付き合って一週間くらいだっけ?」
「えっと、はい」
ミサキと付き合っている、という認識で良いのかも俺は正直よくわかっていない。ただ、昨夜ミサキは古宮さんに自分のことを俺のカノジョと自己紹介したし、あの場で俺もそれを否定しなかった。
「いちゃいちゃざかりだからね、色々あると思うんだ」
「それはまあ……」
「わたしもね、何度恋人ができてもセックスしても、好きな人と付き合いたてのドキドキってのは繰り返し経験する。あれだね、オキシトシンとドーパミンがドパドパで幸せを感じる」
最後の補足は古宮さんらしい。ミサキの押しに俺が強く出られないのは、俺も彼女と一緒にいることに幸せを感じているからだというのは否定しない。
「ただそういう時期だからちゃんと話し合いはしといた方がいいと思って」
「そう、ですね」
「というか君、ぶっちゃけそもそもお互いの関係からはっきりさせてないでしょ」
痛いところを突かれる。それもまたその通りだ。
「なあなあのまま、ってのは良くないよ、ユウくん」
ユウくんやめろ、とはこのタイミングでは言えなかった。
「そうですよね」
「一応、昨日君はあの子のことが好きって言ってたから、まあそれは信じるよ。そのこと彼女に伝えた?」
「えっと」
「んー、これはちゃんと言ってないな……」
ミサキと再会して初めて好きだと彼女に言われた時、俺も好きだったとは返した。けれど、俺はその後は彼女にそういったことを言葉にしていない。
自分の感情を整理しきれないうちから、言葉にしてしまうことが怖いからだった。
「迷いがあるならあるで良いと思うよ」
「はい」
「ごめんね。完全に説教みたいになってるんだけど、君が心配なだけなの。わたしの方が君より経験豊富だし」
「そりゃそうです」
古宮さんの言い分に色々と言いたいことがないではないが、俺より古宮さんの方が男女の関係をたくさん経験してきているのは純然たる事実でしかない。
「多分、君のことだから今は結構相手に合わせちゃってると思うし、それは全然美徳なんだけどさ?」
古宮さんは腕を組んで、一瞬だけ目をぎゅっとつぶった。昨日、ミサキに対しての言葉を探していたのと同じで、俺のために言葉を選んでくれているのだと思う。
「不満があったり、こうしたいってことがあったら喧嘩覚悟でも言わなきゃだよ?」
「それは、はい」
「相手が嫌がるからとそういう理由で飲み込んでばかりいたら、疲れちゃう」
「わかります」
「そういう関係もなしとは言わないよ? ただ、君の気持ちも大事にしてほしいな、私は」
そう言って、古宮さんは顔を伏せる。
古宮さんが美咲と結託して、俺を押し倒してきた時はとんでもない人間だと思ったけれど、本質的に優しい人なのだと思う。
コスチュームを大胆に着崩しているせいで、胸の谷間が強調されてしまっているのだけ何とかしてほしい。
「向こうは仕事してるわけだからデートの時とかは向こうがお金出すことも多いと思うけど、その辺もちゃんと話し合いな、とかアドバイスは色々あるけど」
古宮さんは口から小さくため息を吐いた。
「これが一番言いたいってのが一つあって。というかこれがあったからわざわざこうして時間作ったんだけどさ」
「なんですか?」
古宮さんは何か言おうとして口をつぐみ、それから首を振って自分の膝を叩いた。
「おっけ。オブラートなしで言うけど、昨日のあれは、ライン越えギリギリだと思う」
「昨日の?」
古宮さんは俺の目を見て、大きく頷いた。
「バイト終わり待ち伏せてたあれね。いや、恋人の帰りが待ちきれなくて来ちゃうってのは全然可愛いもんよ?」
ただねえ、と古宮さんは再び腕を組む。
「あの子、わざわざ同僚のわたしのいるところまで寄ってきて君と腕を組んだでしょ。あれはやり過ぎ。だいぶ重さが滲み出てる。ようはあれ、わたしに対しての牽制なわけ。悪い虫が寄らないように」
古宮さんが悪い虫であることもまた否定しきれない気はするのだが、それも黙っておいた。
「君が美咲ちゃんと今後どうするかにも関わってくることだけどさ? 恋人が友達、特に異性との関係をどうするかなんて、よく揉めることだし」
「そうかもしれませんね」
「束縛が強いってのは愛の裏返しでもあるかもしれないけど、付き合い方は考えないとダメだよ」
それはその通りなのだろう。さっき古宮さんが言っていたように、彼女の方が俺なんかよりよほど男女や恋人同士の機微には聡いだろう。
けれど、俺はそんな古宮さんの言葉に対してモヤモヤしたものを感じ、何か言い返したかった。
「話はできたかい」
ガチャリ、とスタッフルームの扉が半開きになり、片桐さんが顔を出した。
「あ、片桐さん」
「大丈夫です。行けます」
俺は片桐さんの問いに、古宮さんの言葉に被せ気味に答えた。
「そうかい。受付の方で待ってるから、準備できたら来な」
片桐さんが顔を引っ込めて、扉が閉まる。
俺は荷物を持って立ち上がる。
「俺は仕事あるので」
「そうだね。わかった。わたしもそろそろ待機室行かなきゃ」
古宮さんが俺のことを心配しているのはわかる。彼女の助言の一つ一つを、俺は心にとめておくべきだろう。そういう人がいてくれるのは感謝だし、古宮さんとの仲だって俺は壊したくない。
「古宮さん、わざわざ俺の為に骨折ってくれてありがとうございます」
「うん、どういたしまして」
俺は扉の前まで来て、古宮さんの方を振り向いた。古宮さんの言うことは正しい。俺のことも、この人はよくわかってくれている。でも、この人はミサキのことを知らないし、俺の気持ちだって知らない。
「古宮さんの言ってくれたこと、タメになりました」
俺は自分の胸を抑えつける。また俺の自分勝手な気持ちが漏れ出ないように。
「でもあいつのこと、あんまり悪く言わないでください」
わかってる。古宮さんにそんなつもりがないことは全然わかってる。けれど、それだけは言葉にせずにいられなかった。
「じゃあ古宮さん、また後で」
俺は古宮さんに頭を下げて、スタッフルームから出た。




