第44話 身の上話
日中ずっと引きこもっていた、ぽっちゃり和佳子が、ようやく部屋から出てきた。
どうやらお腹が空いたらしい。
委員長の利恵と姉御の愛衣が作った夕食は、この家の冷蔵庫で見つけた冷凍牛肉と野菜を使ったボルシチもどきの『ごった煮』だった。
それが、和佳子の鼻をくすぐった。
「何この匂い。超美味しそう!」
あんなに落ち込んでいたのが嘘のように和佳子の目が輝く。
それを見てエプロンを着けた愛衣が微笑む。
「和佳子さんもどうぞ。味は、まあまあだと思うわ」
ダイニングのテーブルにはシチュー皿と炙ったばかりのパンが、それぞれ良い香りを発している。
和佳子は席に着くと、猛然と、ごちそうにかぶりついた。
「うひ、熱っ、でも、おいひい」
愛衣が「あらあら和佳子さん。そんなに慌てなくても」と、苦笑する。
愛衣と利恵は和佳子の食べっぷりを見ながら、ゆっくりとスプーンを口に運ぶ。
彼女達が一口食べる間に和佳子は5口ぐらい、それを口に入れた。
愛衣がホッとしたような顔つきで言う。
「和佳子さん。元気が出たみたいで良かったわ」
利恵も眼鏡の下の目を細めながら頷く。
「本当。ずっと部屋から出てこないから凄く心配したのよ」
2人の視線に気付いた和佳子がバツが悪そうに首を竦める。
「ごめん。実は、ずっと寝てた」
それを聞いて利恵が眼鏡に手をやる。
「呆れた。てっきり落ち込んでるものだと思ってたのに。だから、そっとしておこうって」
利恵がそう言って軽く睨む真似をしたので和佳子が焦る。
「あ、テンション落ちてたのはホント。何て言うか……悔しいっていうか、何でこんなことになっちゃったのかとか、頭がゴチャゴチャになっちゃったんだよね」
そう言い訳しながらも和佳子のスプーンは止まらない。
愛衣は母親のような表情で和佳子の食べっぷりを見守っている。
「それにしても良い食べっぷりね。和佳子さんは本当に食べるのが好きなのね」
愛衣は素直にそう感想を述べただけなのだろうが、その言葉で和佳子のスプーンが止まった。
そして皿に視線を落として、急に辛そうな表情を見せる。
利恵が「どうしたの?」と、声を掛ける。
和佳子は俯いて何か考え事をしている。
急に元気が無くなってしまった和佳子を案じて利恵と愛衣が顔を見合わせる。
しばらくして和佳子がポツリと呟いた。
「おばあちゃん……」
想定外の言葉に利恵が「おばあちゃん?」と、確かめようとした。
「うん。私の『食いしんぼう』は、おばあちゃんの影響なの……」
そう前置きしてから和佳子は皿を見つめたまま、身の上話を始めた。
共働きの両親の一人っ子として生まれた和佳子は、近所で独り暮らしをしていた母方の祖母に幼い頃から預けられることが多かった。
キャリア志向の母は事実上、子育てを丸投げしていた為、自然と和佳子は大のおばあちゃん子になっていった。
食べることが大好きだった祖母は、和佳子が望むだけ食べ物を与えた。
しかし、幼い和佳子が、ふくよかになっていくことを気にした母親が「おやつを与えすぎ!」といつも祖母に対して怒っていた。
おばあちゃんが大好きだった和佳子は「わたしが食べると、おばあちゃんが怒られてしまう」と思って、ある時、祖母の前で食べることを止めてしまう。
すると心配した祖母は「わかちゃんが好きな物をいっぱい食べてくれることが、おばあちゃんの幸せ」と言ってくれた。
祖母は「女の子なんだから大きくなって好きな人ができたら自然と体重を調整するはず」という考えの持ち主だったのだ。
その後、和佳子は、おばあちゃんの笑顔を見たくて、良く食べ、良く遊ぶ子になった。
ところが和佳子が小学校2年生だったある日のことだ。
道路を飛び出しそうになった和佳子をかばって、祖母が交通事故に遭い、亡くなってしまった。
大好きな祖母が車に轢かれる現場を目の当たりにしてしまった和佳子は、自分のせいだと心に大きな傷を負ってしまった。
さらに悪いことに、祖母を轢いた車の運転手が最悪な部類の人間だった。
加害者とその妻は連日、和佳子の家に押しかけては「被害届を取り下げろ!」「飛び出してきたお前らが悪い!」と、両親を罵った。
それなのに強く言い返せない両親。
大好きなおばあちゃんを殺したにも関わらず謝罪すらしない加害者達。
和佳子はその両方を憎んだ。
彼等を憎むことでしか心のバランスを保つことが出来なかったのだ。
幼い和佳子にとって、それは防衛本能のようなものだったのかもしれない。
和佳子は言う。
「私、時々、自分でも驚くぐらい残酷な気持ちになる時があるんだよね……」
その言葉は重い。
少なくとも利恵にはそう感じられた。
和佳子が智世やイリアに向けた強い敵意を目の当たりにしてきた利恵にとって、彼女の告白は、ある意味、納得がいくものだった。
言葉を失った利恵と愛衣の様子に気付いた和佳子が「あは、ゴメン」と、作り笑いを浮かべた。
そして、スプーンを動かす。
「ゴメン。暗い話で。さ、食べよ」
和佳子はそう言ってからスプーンを口に運んだ。
しかし、ボルシチはすっかり冷めていた。
利恵も真似をしてスプーンを口に運ぶ。
だが、美味しくない。
熱い時は気にならなかったのだが、冷め切ってしまったボルシチは人参、ジャガイモ、タマネギ、肉の味がバラバラになってしまったように感じられた。
そしてそれは、まるで関係が冷え切ってしまった今の自分達を象徴しているように思われた。
* * *
一足先に起きた乙葉はベッドで眠るモエと詩織を揺り起こした。
「さ、起きて! 昨日の続き、行くよ」
乙葉に促されてモエがベッドで上体を起こす。
そして隣で眠る詩織を見てだるそうに首を振る。
「ちょっと待ってや……まだ疲れてんねん」
昨日のダメージがまだ残っていた。
それは肉体的なものではなく精神的なものだ。
ドラゴンを倒したという実感は無い。
それはあまりに非現実的で、まるで夢の中の出来事のように感じられた。
モエは寝床から起き上がると、水を飲むために料理台のある隣室に移動した。
相変わらず森の隠れ家は薄暗くて時刻の感覚が鈍る。
窓から差し込む曖昧な日光は、朝なのか夕方なのか判別ができなかった。
乙葉はモエの動きを見守っている。
その表情は早く外に出たくてイライラしている。
だが、モエはそれを知っていながら、ゆっくり行動した。
コップ一杯の水を味わって飲み、おかわりをした。
ジャージに着替えるのにもたっぷり時間をかけた。
そうこうしているうちに詩織が目を覚ます。
「あ、あれ? も、もう行くの?」
詩織は、よだれに気付いて口元を手の甲で拭うと、慌てて顔を洗いに行った。
モエがそれを見送りながら笑う。
「どうせなら温泉入ってくればええやん」
しかし、乙葉が、ぴしゃりとダメ出しする。
「ダメよ。早く出ないと昼になっちゃうわ」
その命令口調にモエが反発する。
「なんやねん。もう、勘弁してや。何でそんなに慌ててるんや?」
「早く野乃花を見つけてあげないと。寂しがってるはずだから」
乙葉は表情一つ変えずにそう言った。
モエはわざと大きな溜息をついてみせた。
そして尋ねる。
「野乃花と仲良かったんは分かるけど……執着しすぎなんとちゃうん?」
モエの指摘に乙葉がハッとする。そしてポツリと呟く。
「執着? そうね……そうかもしれない」
そう言って乙葉はフッと寂しそうな笑みを見せた。
乙葉の意外な反応にモエが戸惑う。
乙葉はベッドの端に腰掛けると足をブラブラさせながら語りだした。
「私、田舎育ちなんだよね。おまけに子供の頃から男の子とばかり遊んでて、木登りとかサッカーとか好きで、ゲームも漫画も男の子向けの物が当たり前だった。女っていう自覚がまったく無かったんだよね。親も何も言わなかったし」
突然、乙葉が饒舌に語りだしたのでモエは目を丸くした。
そもそも急に身の上話をはじめるとは思ってもいなかった。
だが、乙葉は以前のような明るい表情で続ける。
「でも4年生ぐらいからかな。女子の中で浮いちゃってたことに気付いたの。『あの子、男子とばっかりツルんでて何なの?』みたいに嫌われちゃってた。でも、反発もあって余計に女っぽくするのを拒否してたんだ。別に、おへそやパンツぐらい見えてもいいやって感じ。それがいけなかったのかな? 変態教師に目を付けられちゃってイタズラされたの」
「な、なんやて!?」
「いや。さすがに学校の中だったし、未遂だったんだけどね。パンツは取られた。なんか下着泥棒の常習だったみたいで、脱ぎたてのが欲しかったんだって」
乙葉は、さばさばした表情でそう言うが、なかなかどうしてそれは深刻な内容だ。
「マジか……ホンマにそんなことあるんやな……」
「まあ、今となってはパンツだけで済んで良かったと思う。ただ、その頃は深く考えてなくって、帰りのホームルームの時に「せんせー、パンツ返して!」って言ってやったの。そしたら大騒ぎになっちゃってさ。小さな町だったから大変。大問題になっちゃった。でもね、なぜかウチの方が引越ししなくちゃならなくなったの。おかしいでしょ? こっちは被害者なのに。偉い人の息子だか何だか知らないけど」
「サイアクやな。酷い話や……」
「でしょ? そのせいで引っ越し先では凄く悲惨だったんだよ。都会の学校だったから。私、元気だけが取り柄なのに誰も相手してくれなくって、それがメチャメチャ堪えた。
お父さんも転職がうまくいかなくてイライラしてたし、お母さんも鬱になっちゃって、家の中が最悪だった。
それを救ってくれたのが同じクラスだった野乃花。野乃花は都会の子らしくて、おしゃれだし、女の子らしいし、とても同い年だと思えなかった。まあ、小学生モデルやってたから、あか抜けてたのは当たり前なんだけど。でも嬉しかったな……」
モエは以前、乙葉が話してくれた野乃花の可哀想な境遇を思い出した。
交通事故で家族を失ったうえに叔父一家に搾取されていたという話を。
「そうか……乙葉は最初から野乃花と知り合いやった訳やないんやな」
「うん。私と知り合った時は野乃花だって辛い時期だったはずなんだよ。なのに、ちっともそんな様子は見せないで、私の事、気にかけてくれて……」
乙葉の目は潤んでいた。
だが、彼女は目を大きく開いて前方を見据えた。
瞬きをしてしまうと涙が零れてしまいそうだったからだ。
「ホントは、この読者モデルの仕事、好きじゃない。でも、野乃花が誘ってくれたから、この企画に参加したんだ。野乃花がいなかったらやってないよ。私みたいな子が……」
「そうか……ホンマ羨ましいわ。そういう友達がおるって……」
それはモエの本心だった。
乙葉と野乃花の仲の良さは小学生の頃からのもので、乙葉は心底、野乃花に感謝していたのだ。
モエと乙葉が並んでベッドに座って、そんな話をしているところに鼻をすする音が聞こえてきた。
「なんや?」と、振り返ったモエが詩織の姿を見つけて驚く。
「詩織? 何しとん?」
いつの間にか戻ってきていた詩織が直立不動で号泣している。
せっかく顔を洗いに行ったのに涙と鼻水でクシャクシャになった詩織の顔を見てモエが苦笑する。
「詩織、そこ、泣くところか?」
「だ、だ、だっでぇ……い、いい話だがら……」
詩織のマジ泣きに乙葉も「ええっと……」と、若干、引き気味だ。
しかし、モエと顔を見合わせながらこの妙な空気に笑ってしまった。
それは、泣きたい気分なのに自分よりも激しく泣く人間が側に居ると涙が引っ込んでしまう現象だった。
そこでモエが膝をパンと叩いて勢いよく立ち上がる。
「よし、分かった! そういうことなら協力するで。絶対に野乃花を見つけて連れて帰ろ!」
復讐に燃える乙葉の焦りで一時期はギクシャクしてしまった3人だが、乙葉の告白は、再び結束を固めるきっかけになった。




