第六話 ラムネ
金中京の住人は風呂が好きだ。
周りを山に囲まれ乾燥しやすく、石畳舗装されていない道も多い金中京では土埃が舞いやすいため1日に何度も湯に浸かる者も少なくない。
水符・温符が普及し火事の心配が少なくなった現在においても家庭風呂が普及せず、大商人においても銭湯に通うのは料金の手頃さと江戸の頃の名残もあろうが、それ以上に広い湯と湯屋というものを多くの者が愛しているということだろう。
町内に2、3軒はあり、それぞれが工夫を凝らすため、湯屋を巡ることもまた日々の楽しみとされている。
なお、月桂国には〔湯屋〕と〔風呂〕の2種類の公衆浴場が存在する。
〔湯屋〕と呼ばれる浴槽(湯船)があるものと、〔風呂〕とよばれる湯着を着て混浴ではいる蒸し風呂のようなもの。
日本だと〔湯屋〕は銭湯、〔風呂〕は水着で利用するサウナのようなもの、と言えばわかりやすいだろうか。
湯への入り方と楽しみ方、料金の支払い、また湯屋と風呂の違いをコウに教えてくれたのは同じ長屋の住人たちだった。
いつもよりも遅くなってしまった仕事終わり、家に帰ると右隣の角部屋の住人である八之助が部屋を出るところであった。
「おかえり、コウちゃん。ちょうどいい、湯屋行こうぜ。」
「ただいま。俺もちょうど行こうと思ってたんだ。一緒に行こ。」
ふさふさとした赤毛にぴんと立った丸みのある耳、黒いつぶらな瞳。
コウよりも頭一つ分大きな八之助は、ほぼほぼ二足歩行の巨大な秋田犬である。
「もうずいぶん日が長くなったなあ。ついこの前まではこの時間もう暗かったのによう。」
「今年はずいぶんあったかいしね。もうすぐハイボールが美味しい季節だ。」
「カツオモイイヨナ」
「鰹いいな!今度長屋の連中で1尾買うか。」
連れだって歩く夕暮れ時。
道沿いの飯屋は明かりが灯り、にぎやかな笑い声がてくる。
並んで男湯の暖簾をくぐると夕飯時の湯屋は空いており、先客は3組しかいなかった。
「そういや七常る筋のほうに超湯風呂ってあるだろ。あのいろんな湯やら風呂やらが同じ建物にあって飯と酒も飲めるやつ。あれ地球人の提案物らしいぜ。」
「ああ、スーパー銭湯のことかな。」
「コウちゃんも行ったことあんのかい。本物はどんなところだったんだ?」
「そうだね、だいたい同じだと思うよ。泡湯とか露店湯とかあって、飯屋と居酒屋も中に入ってて。ああ、変わったところだと舞台があるって聞いたことはあるかな。歌とか踊りとか。俺は見たことないけどね。」
「へええ!湯屋でそんなことまでやんのかい!ああ、けど湯に浸かった後に冷でも一杯飲みながら謡いを聞くのもまた一興かもしんねえなあ。」
「そうだね、北の山向こうの温泉街ならそんな店もあるのかもしれないね。」
「ただなあ、あっこのあたりは硫黄の匂いがなあ。」
「そっか、八之助さん鼻がいいもんね。」
汚れを落とし髪を洗う。
そろそろぬか袋も買いなおさなければいけない。
毛落とし湯から上がった八之助さんと共に石榴口に手をかけると、湯舟から湯気と一緒にさわやかな香りが漂ってくる。
「ああ、いいな。今日は菖蒲湯かい。」
「そっか、あと7日で端午の節句か。節句湯は今日からだったんだ。」
「おう、当日はおひねり持ってこにゃあな。」
広く、澄んだ熱い湯によもぎとまっすぐな菖蒲の葉。
すっきとした爽快感。
湯船の淵にもたれかかると今日1日の疲労が汗と一緒に湯に溶けていくような気がした。
疲れは水溶性だと思う。
より一層疲れを追い出すよう、コウはゆっくりと目を閉じ湯に身を沈ませた。
「コウちゃん、1本奢ったる。」
「いいの?ありがとう!ラムネがいい!」
さっきハイボールを思い出した時から飲みたかった炭酸。
あのぱちぱちとした感覚が暑い体にはたまらないのだ。
脱衣所にある冷符箱から取り出すわずかに緑がっかた明るい青色の、ビー玉が入った独特な形は子供のころの夏休みを思い出させる。
夏祭りの屋台で氷水の中から1つ選んだ。
駄菓子屋の入り入り口横にある冷蔵庫から涼みながら取り出した。
数代前の月桂国にドリンク革命を起こした人間がいる。
コウよりも700年前にこの世界に来て炭酸飲料にカクテル等主に甘い飲み物を数多くもたらしたこの人間が、特にこだわったらしいラムネ瓶は日本と全く変わらない。
驚くことにラムネ自体は幕末にはすでに日本に存在したそうだが、現在コウがノスタルジーに浸りつつラムネを楽しめるのは顔も知らぬその人間のおかげである。
火照った体に冷たいラムネによく似た味。
甘くてしっかりとした炭酸と仄かな柑橘の酸味。
ぐぅは八之助さんの果物牛乳を一口もらって洗ったばかりの口の周りを真っ白にして満足げな息をついていた。
「ありがとう、八之助さん。美味しい。」
「アリガト」
「おう。じゃあコウちゃん、お先。俺ぁこれから夜回りだからな。気ぃ付けて帰れよ。」
「うん、お仕事頑張って。」
温まった体をさましながら、少し炭酸の抜けてきた最後の一口を流し込む。
手の中の瓶を弄ぶとカラカラとなるビー玉の音は、かつてこのラムネを愛してこの世界にもたらした人の
郷愁を表すかのようだった。