第三話 春キャベツの浅漬け
ぺち、ぺちと頬を叩くくすぐったさで目が覚めた。
障子から差す柔らかい光はコウの住む棟長屋のこじんまりとした六畳間の中頃まで入り込み、もうすっかり昼の様相を示している。
昨晩は飲みすぎた。
蛇との酒は楽しいが、すっかりとペースが狂わされてしまう。うわばみとはまさに彼らのことである。
「腹減ッタ」
「ああ、おはようぐぅ。」
布団を畳み、水符に霊力を流し身を清める。冷たい水ですっきりとしたはずなのに少し体が重く、酒の匂いが残っている気がする。
日本にいた頃コウはザルと言われていた。時間、量ともに人並み以上に楽しむことができ、何より二日酔いというものにはとんと縁がなかった。
祖父、祖母ともに非常に酒が好きで大いに嗜む人たちだったので、おそらくは遺伝であろう。大人になり美味しい酒を覚えたときには祖父母に大変感謝したものだ。
それでもコウは所詮は人間であった。
この世界にきて本物の大酒飲みたちの飲み方を見たときには、本当に目が飛び出るほど驚かされた。特に、蛇、天狗、鬼達は心から酒を愛しておりかける情熱がすさまじい。酒を樽の単位で干していく彼等は文字通り人外である。
「納豆売りももう行っちゃってるな、飯どうしようかなあ。ぐぅ何が食べたい?」
畳んだ布団によじよじと枕屏風を寄せるぐぅに声をかけると少し悩んだように動きを止めた。
「米ト味噌汁」
屏風囲いを終え、こちらに向き直って正座をしたぐぅからリクエストが入る。いつもはふてぶてしい物言いをするぐぅが、食事の要望を出すときは妙にしおらしくなるのだが、それがいじらしく可愛くて、気分ではないメニューでもついつい希望を聞いてしまう。
「じゃあ二棟向こうの煮売りに行こうか。まだ朝定食もぎりぎり間に合うかな。」
寝坊のお詫びも込めてぐぅのお気に入りの店を伝えると、嬉しそうに体を上下に揺らした。なんでも残さず食べるぐぅであるが、意外なほどに食の好き嫌いははっきりとしている。
二口女のお両さんが営む馴染みの煮売屋はコウの住む長屋から歩いてすぐの場所にある。手頃な値段で季節の食材をふんだんに使用した惣菜は独り住まいの者にも家庭の菜としても近所からの人気が高く、藩邸勤めの者からも強い支持を得ている。
また朝食から昼食時のみ惣菜にごはんと味噌汁、香の物をつけた日替わり定食を提供しており、その膳がまた良い具合なのだ。
「あらコウさん、いらっしゃい。」
「おはようございます。昼定食お願いします。」
煮売屋の女将らしからぬおっとりとした声に、気持ち背筋を伸ばし、丁寧な口調で注文を伝える。
昼食としては早い時間にも関わらず長椅子は満席、ちょうど1席空いたのですべりこむ。コウのすぐ後の二人連れは店の前で席が空くのを待っている。
ここまでの繁盛は味はもちろんのこと、お両さんの持つ癒しの空気と心配りによるところも大きい。
昭和初期のビールのポスターに登場しそうな容貌。なで肩で柳のような細見の体によく似合う濃い藍の千筋に白い前掛け。
なめらかで透明感のある肌にいつも笑ったような目の穏やかな顔をしたお両さんは一見人間と大差ないが、いつも仕事中は結い上げている髪をほどくと後頭部に2つ目の口があるそうで、なんとその口がこの惣菜の味見役だという話だ。出汁をひいた鰹節の産地まで当てるというのだから恐れ入る。
「おまちどうさま。」
長椅子に置かれた膳から湯気が立ち上っている。今日の日替わりの献立は白いつやつやとした炊きたての白米、筍とわかめの味噌汁、昆布入り煮豆、アジの一夜干し。香の物は春キャベツ。
「はい、これはぐぅちゃんの分。」
「アリガト」
一皿に少しづつ盛られたぐぅ用の朝定食と、お猪口に盛られた味噌汁。
お両さんに礼を伝え、手を合わせてまずは味噌汁をすする。しっかりと出汁の効いた味噌汁は旬の筍とわかめの淡泊な風味をいかすためか、いつもよりも味噌が淡く仕立てられている。
煮豆に入った刻まれた分厚い昆布は味噌汁のだしがらの始末をつけたものだろう。小ぶりなアジの絶妙な塩加減ももちろんだが、この春キャベツの浅漬けが!
酒が残ったからだに嬉しい酢のさっぱりとした味わい。
旬の春キャベツは甘く、食感を生かすよう浅めに浸かっているためしゃっきりとした歯ごたえが心地よい。
漬物を口に残したままごはんをかきこむ。ああ、白いごはんが美味しい。
深酒で疲れた体をキャベツが優しく癒していき、食べ進めるごとに頭がしゃんとしていく心地がしてがつがつと人目も気にせず掻き込んでいく。
「米オカワリ」
「お両さん、僕もお願いします!」
「はあい。」
おかずの半分を残しごはんを頼むと、お代わりと一緒に3口程の白濁した汁が膳に乗せられた。
「これは?」
「しじみのお出汁よ。今日はお味噌汁、筍にしちゃったからね。」
「・・・ありがとうございます。」
心遣いに感謝しつつ、昨日の深酒を見透かされて少し言葉につまる。顔に出さないよう気を付けたつもりだったのだが。
食事を終えたら湯屋へ行こう。
熱い湯を浴びてすっきりとしたら図書館をのぞこうか。貸本屋で漫画本を借りるのもいい。そろそろ損料屋へこたつも返しに行かなければ。
何も予定のない贅沢な休日に思いをはせつつ春キャベツを口に入れ、二膳目のお焦げ付きごはんに箸を伸ばす。