第二話 サクラマスの西京焼き(後)
すっかり日が落ちた頃に縄のれんをくぐると、店内は大いに賑わっていた。ちょうど夕飯時、窓のそばの座敷席は全て埋まっているが、運よくカウンターにはまだ空きがある。
「おやじ、上1合。」
「はいよ。」
空き席に向かいながら大きな一つ目をぎょろりとこちらに向けたの店主に酒の注文をすませておく。
この店は、魚が良い。
鶴川沿いで新鮮な魚が仕入れられる環境もあるが、なにより店主の腕が良い。
4本の手をせわしなく動かし燗の様子を見るお燗番からチロリを受け取り、まずは一口。
ふんわりと立ち上がる酒精と芳しい香り。日が落ちた中を歩いて冷えた体に甘みの強い熱めの燗が染み渡る。
「ご注文は?」
「サクラマスで。」
「塩焼き、西京焼き、幽庵焼きどれにする?」
「西京焼き!」
西京焼き!
聞いた瞬間コウの心は決まる。
京都出身の祖母の得意料理だった西京焼き。幼いころから親しんだあの味を思い出しただけで、思わず口に涎が溢れそうになる。
じんわりと温かい素焼きの猪口で指先をあたため、突き出しの菜の花のお浸しをつまみつつ焼き上がりを待つ。
目の前のグリラーによくに似た火符台で上下からじっくりと焼き上げられていくサクラマスからは油がしたたり、カウンターまで美味しそうな香りが漂ってくる。
ぐぅは待ちきれないように羽をわさわさ体をくねくねとさせているが、コウはこのもどかしい時間も好ましいものだと思っている。
酒を飲みつつ自分のために準備される料理を見守る、カウンターはこれがまた醍醐味だ。
「はい、お待ち。」
ゴト、と音を立てて置かれた黒い素朴な土焼きの器に映えるサクラマスのきれいな色とこんがりとした焼き目が目に嬉しい。
あしらいを何も載せない潔さもまた、この店らしくていい。ぐぅ用に取り分け、手を合わせる。
「いただきます。」
「イタダキマス」
まず舌に乗るのは白味噌の甘み。
そして噛みしめるとじゅわりと染み出るマスの上品な脂の旨み。
ふっくらと焼き上げられた身の柔らかさは職人の妙である。
皮と身の間、これがまたたまらない。パリッとした皮と脂と、酒を進ませる塩気。ああ香ばしい。
「美味イ」
「な、美味いな。」
身、酒、身、酒、皮。
舌に味が残るうちに酒を口に含む。
ぐぅも体の大きさに対してずいぶんと大きなマスの身を両手でつかみ、満足そうに食べ進めている。
箸を進め酒を飲む。
グリルで焼かれた西京焼き、よく食卓のぼったのは鰆だった。あの頃は酒ではなくごはんに乗せて食べるのが何よりだと思っていた、懐かしい思い出の味。
3年前、コウは令和の日本からこの妖怪の世界にやってきた。
コウが生きるこの世界は月桂国という。
月桂国では電気を作られることがない。テレビもスマホも車もない。
明治を迎える前に妖怪のために分けられたこの世界には江戸末期までの日本の生活が色濃く残る。
神がいる。龍がいる。
科学技術は発展せず妖力、霊力を礎として日々を営んでいる。
そしてまれやってくる人間が、農業や政治などその時代の新な技術や知識をもたらした。
そうして現代の日本とは異なる時間の長さと歴史を辿ったこの世界、1300年に及ぶ天下泰平の世で大いに花開いたのは、高度に技術の発達した日本と遜色のないほどの豊かな酒と食文化、そして数多の娯楽であった。
座敷の団体客が席を立ち、川岸よりも高い位置にある透明な硝子窓からは鶴川を行きかう人が見えた。
向こう岸には花見提灯が下げられソメイヨシノの花びらを昼間よりも白く、暗闇に浮かび上がらせている。巨大な上弦の月は東の山々をぼんやりと照らしている。
花ざかり 春の山べをみわたせば 空さへにほふ心地こそすれ
頭に浮かぶこの歌は誰のものだっただろうか。
「もう1合、つぎは上辛ぬる燗で!」
「はいよ。」
夜桜を背景に船頭がゆっくりと棹を操り南下していく。
差し込まれる棹に波立つ水面に揺れる月を肴に、次の注文に悩むぐぅと一緒に今日の品書きをのぞき込む。