呪われし王国へ、手向けの花を
ルシエルにあてがわれた牢獄には、先住人がいた。
人?
かつては人だったに違いない。いまは骨だ。
どこもかしこもツンとカビ臭く、薄暗く淀んだ空気の中、石の壁に穿たれた鉄杭から垂れた鎖。両腕を吊るされ、膝をついた姿勢で、そのひとは襤褸をまとったまま骨になっていた。
跪き、俯いた姿でも、ルシエルより一回り以上大きい。
骨となる前は、さぞや体格に恵まれた男性だったのではないだろうか。
「はじめまして。私の名前はルシエル・ディ・ザルディーニ。四番目の姫です。今日からここに住むことになりました。どうぞよろしくお願いします」
高所の窓から差し込む一筋の光の中で。
ルシエルは、スカートの裾をつまんで、丁寧にお辞儀をする。「王侯貴族の間では、相手によって出方を考え、態度を変えるのを良しとする向きもある。これがいかに上品ぶっただけの浅慮で、実際はひどく下品な考え方だということを、あなたはよくよく知っておきなさい」とルシエルは母に教えられていた。
(相手が誰であるかによって、自分の振る舞いを決めるのは、自分自身をも貶めること――)
一方で、ルシエルの母親違いの兄マウリシオは、明らかに相手を見て態度を変えている。自分がよく見られたい相手に対しては朗らかな笑みを見せ、丁重に振る舞い、折り目正しく接する。身分の低い者に対しては傲慢で冷たく、厳しい言葉遣いでつまらぬことでも叱責をする。「王族たるもの、無闇にいらぬ愛想を振りまき、下々に勘違いをさせるわけにはいかない。豚になつかれても臭いだけだろう? 私は立場というものをわからせているだけだ」マウリシオは、ルシエルに対して冷ややかに言い放った。
ルシエルはこのとき七歳。兄よりも、母を信じた。尊い生まれのマウリシオにとって「立場をわからせる」は呼吸するように当たり前のことのようだったが、ルシエルはただ母を信じた。
だからルシエルは、骸骨に対しても自分の考えるまっとうな言葉で話しかけたのであった。
「私は小さいので、あまりたくさんの場所は使わないと思います。あなたのお邪魔にならないようにしますが、何か気になることがありましたら、なんなりと仰ってくださいませ」
項垂れたままの骸骨は、何も答えない。
何も。
ルシエルは(おとなしい方なのね。そっとしておいて差し上げましょう)と了解し、「前を失礼します」と断ってから忍び足で骸骨の前を通り過ぎた。
汚れた毛布の置かれたベッドの前で振り返り、牢獄の中を見渡す。
かすかに首を傾げて考え込んでから、微笑んでその言葉を口にした。
「うん、良い部屋じゃない」
長くここに住んでいるであろう骸骨の前で、部屋を悪く言ってはいけないと思ったのだ。
* * *
骸骨は、もう長いことその場にひとりで留め置かれていて、自分が何者でなぜそこにいるかも当然の如く忘れ去っていた。
身動きもできないし、そもそもいま考えていることを、体のどの部分で考えているかもわからない。
(肉は全部腐り落ちた。頭髪らしきものは残っているかもしれないが……。骨しか無いのに、心はどこにあるんだ。俺はここに、いつまでいなければいけないんだ)
遠くで人の声や、歩き回る足音のようなものが聞こえることはある(耳も無いのにどこで聞いているのかは、わからない)。
この世界にはまだ生きている人間がいて、時が流れているのだと知る。
しかし、骸骨の元を訪れる者はいない。
誰の姿も、ついぞ見たことはない(目も無いのに以下略)。
(俺はいったい、「何」なんだ?)
声も出ない。
たとえその場に誰かが現れたとしても、結局のところ伝える術はない。
絶望……も、するにはしたが、どれほど練りに練って凝った怨嗟の文言を考えても、ただただ間が抜けている。使うあてが、ないのだから。
そうして日がな一日、かつて吊るされたままの姿勢で跪くだけの毎日。
変化は、唐突に訪れた。
「はじめまして。私の名前はルシエル・ディ・ザルディーニ。四番目の姫です。今日からここに住むことになりました。どうぞよろしくお願いします」
(!!!!!!??????)
丁寧なお辞儀をされ、心の底から驚いた。驚いたなどというものではなかった。口から心臓が飛び出るかと思った(心臓無くて良かった)。変な動悸がした(もちろんイリュージョン)。
(お、俺は……俺は? 名前は思い出せない。自分が誰かもわからない。わからないけど、こちらこそよろしくお願いします)
息くさくないかな? こうなると、体が全部腐って跡形もなくなっていて良かった。中途半端に残っていたら、腐臭がきっと君を苦しめただろうから。それでなくてもここ、空気は全然綺麗じゃないから、君は呼吸をするのも辛いんじゃないか?
綺麗な少女だった。
細かく波打つ金の髪に、真っ青な瞳。白のレースをふんだんに使った、淡いクリーム色のドレス。
薄暗い牢獄に、光が降り立ったのだと思った。
「私は小さいので、あまりたくさんの場所は使わないと思います。あなたのお邪魔にならないようにしますが、何か気になることがありましたら、なんなりと仰ってくださいませ」
ルシエル・ディ・ザルディーニ王女殿下は、子どもらしく高く澄んだ声でそう告げて、「前を失礼します」と骸骨の前を横切った。
そして、可愛らしく言った。
「うん、良い部屋じゃない」
(そんなわけあるかーー!! ここは!! 牢獄!! 王女殿下のような方がお越しになるような場ではありません!! 早々にご退出……)
心の中で盛大につっこんでから、骸骨は不意に、背筋が凍るような冷たい感覚に襲われる。
王女、殿下。
身に着けているものも、品のある振る舞いも、なるほどすべて頷ける。彼女は紛うことなき姫君であらせられるのであろう。
それならば、なぜ。
こんな若い身空で、打ち捨てられた牢獄に現れ、骸骨との同居生活を開始しようとしているのだ?
もちろん、外のことを何も知らない骸骨に、その理由を知ることはできない。
口もなく、声も出ない体に成り果てて、自分で直に問い質すこともできない。
ただ、ときおり視界に入り込んでくる彼女の存在を、やきもきとした気持ちで見守りながら、心配することしかできなかった。
(俺のように、俺のようになる前に、君はここから出て行くんだ……!)
こんなろくに光も差さない部屋では、いずれ病み衰えて大人になる前に死んでしまう。
骸骨仲間が欲しいなんて、思ったことも無い。
この上は骨が増えても、全然嬉しくないのに。
そんな骸骨の心配をよそに、姫君は一日中ベッドに腰掛け、ほとんど身じろぎもしなかった。
顔を動かせない骸骨の位置から、彼女が何をしているか知ることはできなかった。だが、いつもそこから澄みきった風が吹き付けてくるような、清浄な空気が立ち上るのは感じられた。
ルシエル王女は、ただひたすらに祈っていたのだ。
(何を?)
* * *
姫君が牢獄にいるのは、何か非常に悪いことが外で起きたからに他ならず、その証のように彼女の扱いはひどいものだった。
毎日ろくな食べ物を与えられていない。
何故そんなことがわかるかと言えば、ルシエル姫は、毎回必ず骸骨の前にお盆を持ってくるからだ。
固く干からびたパン。具のない、薄く冷めきったスープ。欠けたコップの底に、ほんのすこしの水。
「私の分で申し訳ないんですけど、あなたも何か召し上がりませんか?」
(いいから、食べなよ……! 若い子が一日にそれだけしか口にできないなんてあんまりだ!! 俺に肉が残っていたら食わせてやりたいところだよ、嫌だろうけど!! 俺の肉なんか……俺の肉でも無いよりマシだと思うけどね!?)
骸骨は心の中でむせび泣いていた。
日に日に、姫の服は汚れていく。この牢獄がどこもかしこも汚れているから。
髪は艶を失い、頬もこけていき、指先は骨そのものの細さになってしまった。
それでも、姫は骸骨の前にお盆を持ってきて、淡く微笑みながら言うのだ。「一緒に食事をしませんか?」と。
耐えられない。
見ていることしかできないのが、本当に辛い。
姫が死んでしまう。こんなに優しく清らかな心の持ち主の姫が、あたら若い命を散らしてこんな場所で骨になってしまう。
(そんなこと、許されるのか? 俺はどうなってもいい、もう死んでるし! だけど、姫は、姫はまだ)
申し訳程度の窓から細く差し込む光に、時折冷たい夜を照らす月光に。
骸骨は願い続ける。強く強く。
それはもしかしたら、遠い昔骸骨がこの場に閉じ込められたときに願ったことよりも、ずっと強い思いだったかもしれない。
しかし願いは叶わないまま、ルシエルは痩せ細り、もはやお盆を持つこともできないほどに弱り果てた。
「私と一緒に……食事を……」
かすれた声で言いながら、つまずいて固い石床に転び、お盆をひっくり返す。
投げ出されたスープ皿が骸骨の顔にぶつかり、こぼれたスープが鼻筋を伝って口元に流れ込んだ。
「ああ、こんな味のしないもの。栄養なんて何もない」
骸骨は、喉を滑り落ちたスープを、味わった。
そして、率直な感想を呟いた。
「誰……?」
倒れていたルシエルが顔を上げ、ぼんやりとした目で骸骨を見てくる。目が合った、確かに。
「お、俺は……」
狼狽しながら骸骨はそう口走り、その瞬間電撃を浴びたように悟った。
声が出ている。
「お話が、できるのですね」
「できる……みたいだ」
ふわっと温かい力が体中を駆け巡り、これまでできなかったことができそうな、確かな予感があった。
「や、やっぱり、あなた、おなか空いて……。もっと早く、食べさせていれば……」
起き上がる筋力もないように、ルシエルは冷たい床に倒れ伏したまま呟く。
どうにか助け起こしてあげたいと、もどかしい思いのままに骸骨は前のめりに体を動かした。
ガシャン。
無情に響くは縛めの手枷。どうしても、そばに近づくことができない。
「俺は食べなくても生きていける……ん? いや、生きてないしたぶんもう死んでいるから、気にしないで君が食べてくれればそれで良かったんだ。だけど足りないね、足りなかったと思う……。俺は、いまのままでは君が死んでしまうんじゃないかと心配で……」
「そ、そうですね……。私も、ちょっとだけそんな気がしています……。骸骨仲間になったら、あなたと今より仲良しになれるかと……思っていたんですけど……。なる前にこうしてお話ができて。安心して、骸骨になれます……」
「お姫様! 諦めないで! せっっかく会話できるようになったんだから、もっと楽しい話をしよう! 好きな食べ物とか、いま食べたい物とか、これまで食べて一番美味しかった物の話を!」
「ふふ……聞いているだけでお腹が空いてきました……。お腹空いている……空いていますよね私」
「ああああああ、もう俺は、君に何か食べて欲しいってことしか考えられない! 無花果のパイ! 檸檬クリームのタルト! 杏ジャムのクッッキー! いや、でも君はいま固形物は無理そうだから、ホットチョコレートが良いかもしれない……」
闇雲にまくしたてていると、ルシエルが両肘を床についてなんとか顔を上げながら「もし、骸骨さん……」と呟いた。
「お菓子が」
「ん?」
いつの間にか、いま並べ立てたお菓子がずらりと、ルシエルの目の前に浮いていた。
「食べ……られそう? いや食べて良いのかな。俺も君も見えてるってことは幻覚じゃない、よね? あの、俺動けないんだけど、もしよければひとつ口につっこんでみてもらって良い? 毒見……」
話している間に、ルシエルは緩慢な動作で床に手を付き、膝をついて立ち上がった。浮かんでいたクリームいっぱいのタルトを手にして、よろよろと骸骨の前まで歩いてくると、手で二つに割った。
ひとつは骸骨の口へ、ひとつは自分の口へ。
「やっと、一緒に食事が……」
かすれた声で囁き、控えめに口をつける。
もぐもぐとタルトを咀嚼する骸骨の前で、ルシエルはゆっくりと顔を上げた。鼻先にクリームをつけたまま、にこりと笑って言った。
「美味しいね」
* * *
お腹を空かせたお姫様に美味しくて栄養のあるものを食べて欲しくて。
その一念で、骸骨は干からびた頭蓋骨の奥の、あるかどうかも知れぬ記憶の保管庫から、少しずつ自分のことを思い出し始めた。
名前はナイゼル・ギュスターヴ・クレマン
魔法使い
(牢獄に閉じ込められた罪状は――)
「ナイゼル、今日はおひさまの光が入ってきて、あたたかいわね」
ルシエルは、三日かけてナイゼルの呼び出した食べ物を口にし、元気になりつつあった。
微笑みは初めて会ったときと変わらず輝いていて、頬にも張りが戻っている。
しかし、汚ればかりはどうしようもない。なにしろ、この牢獄には一度も清掃の手が入ったこともない。
時折、ドアの高いところにあるのぞき穴から、何者かがルシエルの様子を確認していることに、ナイゼルは気づいていた。「不審に思われないよう、俺の影に隠れて、顔を上げないで。あいつらはどうも嫌な感じがする。君が元気だと知ったら、何をするかわからない」と、ナイゼルはルシエルに忠告をした。ルシエルは素直に「わかったわ」と頷き、人の気配が近づいてくるとナイゼルの側に近寄ってきて、その隣で膝を抱えて座り込んだ。
「死んでいるのか? 食事を取らなくなってどれくらいになる?」
「それが、ときどき中を歩き回っているようです。幻覚でも見ているのか、話し声も」
「ふん。まあいい。だいぶ弱っていたはずだ。すぐにでも死んで、生贄としての責務を果たすだろう。『稀代の魔道士ナイゼル』に、これ以上この国を呪われてはかなわん」
(何を言っている? 呪い? 俺が?)
ナイゼルは話し声に耳をすませる。まったく、知らない声だ。
身動きできないだけに、視界にいないときのルシエルの様子を目にすることはできないが、いまの話をどう捉えているのか、ふと興味をひかれた。
話し声と足音が遠ざかってから、ナイゼルは「お姫様」とルシエルを呼んだ。
「お姫様はどうしてここに閉じ込められたんだ? 外の世界で何をしたんだ?」
「……」
「いや、答えたくないなら良い。忘れてくれ」
(理由はどうあれ、この子は誰かに死を望まれている。それに気づかぬほど幼くはない……。くそっ、もっと、もっと魔法が自由に使えたら……! 地獄の死神でも、煉獄の悪魔でも良い。俺の意識を死なせずにここに留めた何者かよ、俺の願いを聞け。俺は、俺はこの姫を助けたいんだ……!)
かつてないほど強く、ナイゼルは心の中で叫んだ。
魔法でも呪いでも良い、姫を守り助ける力よ、この身に降り注げ……!!
ジャラリと鎖が鳴る。
ありったけの膂力を込めて手枷のはまった右手を前方に突き出したとき、ゴフリと重い音がして、背後の壁の一部が崩れた。
「ナイゼル……!」
ルシエルの鋭い悲鳴を聞きながら、ナイゼルは何百年とも知れぬ永の日々、折り曲げていた膝を伸ばして立ち上がる。
(ああ、このまま腕の一本引きちぎれても構わない。俺は君を救う力が欲しい)
「我が名はナイゼル・ギュスターヴ・クレマン
この呪われし王国に永久の祈りを捧げし者……」
記憶の蓋が持ち上がる。
ナイゼルの動きに沿って、足元から床を蔓薔薇が覆い、埋め込まれた鉄杭が外れて崩壊しかけた壁を瞬く間に埋め尽くした。
豊かな黒髪が肩を流れ、襤褸は過日の姿を取り戻し、赤いマントが翻る。体のどこもかしこも張りのある筋肉の質量を持って、ナイゼルの歩みを支えた。
ルシエルは、座り込んだまま、大きく青の目を見開いてナイゼルを見上げていた。ナイゼルはいまだジャラジャラと鎖の垂れた手枷を巻き付けたままの手を差し出す。
「お姫様、行こう。ここではない、空気の綺麗なところへ。俺が連れて行ってあげる」
「……ナイゼル……、ありがとう。でも、私は行けないわ。ここから……ここから動いてはいけないの。祈らなければ」
「そうだ、俺はそれを知っている。ここはかつて祈りの塔と呼ばれていて、王国の安寧を祈る魔法使いがひとり、閉じ込められていた。魔法使いは己の命が尽きるまで祈り続けていたよ。この国の平和と、健やかなる未来を」
「魔法使いは……」
壁をつたう蔓草が、左手の鎖の連なる鉄杭を壁から吐き出した。両方の手が自由になったナイゼルは腰に軽く手をあて、ルシエルに微笑みかけた。
「魔法使いはここにいる。そして今から君を、なんとしてでも外の世界へ連れ出そうとしている。何故なら、俺がそうしたいから。抵抗しても無駄だ。俺は本当に強い、大魔法使いなんだよ」
「それならどうして、どうして閉じ込められてしまったんですか? 逃げ出すこともできず、骸骨になどなって……! 私、あなたを見た目で怖がってはいけないと思ってご挨拶もしましたけれど、本当を言えばやっぱり少し怖かったです! 死んでいるように見えたので!」
「ああ~……う~~ん、そうだね……。死んでたよね、俺……」
ガツンと言い返されて、ナイゼルは群青色の目をぱしぱしと瞬いた。
完全なる骸骨であったし、意識はあったが、どう見ても死体であり、実際に死んでいた。
「それについては言い訳ができない……」
「言い訳は結構です。説明をしていただければ、それで」
「同じだよねそれ結局」
情けない声を出して掌で額から目元を覆い、ナイゼルはため息をつく。
目を閉ざせば、目裏で軍馬の蹄が轟き、いななきと怒号が入り乱れ、鋭い金属音が響き渡る。
敗戦。
一方的に攻め込まれ、話し合いは功を奏することなく、人々は踏みにじられ、命が散っていった。
(ひとり戦い続けていた俺もやがて斃れ……、身柄を拘束された。あの国の最後の王族として、見世物として処刑されるのだと思っていたけれど、待っていたのは死ぬまでの幽閉だった。「お前が逃げ出せば、まだ生き長らえている民草も残さず殺し尽くす。お前がおかしなことさえしなければ、彼らにはこの国の隅で生きることを許してやっても良い」と。俺は……どうしてもそれを嘘だと思い切ることができず、外の様子を知ることもできないまま、ここでただ祈り続けた。この国に受け入れられた人々が、やがてはどんな差別されることもなく民のひとりとなり、健やかに生きていけることを……)
この国の平和を、確かに願っていた。彼らが飢えや寒さで苦しまぬよう、豊かに生きていけるよう。
「君に、遠い血の流れを感じる。君をここに閉じ込めた連中は、そこに目をつけたんだろう。きっといまこの国は何かの厄災に見舞われていて、その理由がたぶん、俺なのだと、誰かが言いだした。そして君は俺に捧げられた。馬鹿な奴らだね、本当に。もし俺の呪いがこの国を覆っていたとして、君の犠牲がそれを鎮めるというのであれば、君にはこの世のありとあらゆる贅沢をさせるべきだったんだ。君がもしこの俺の前で非の打ち所のない幸福の中にいたら、俺はきっと未練も何もなくこの世を去り、『呪い』なんてものは跡形もなく消え去っただろうさ。馬鹿だね……」
(ま、俺、呪ってないけどね?)
説明の最後は心の中だけで。
ルシエルが瞳に気丈な色を浮かべて立ち上がったとき、ドアの外から騒ぎが近づいてきた。
「なんだこれは、いったいどうなっているんだ」「まさか本当にナイゼルの呪いが?」「魔女の娘は何をしたんだ!」「おい、ルシエル、ここを開けろ!!」
蔓薔薇がのぞき窓も食事の出し入れをする穴もすべて塞いでしまっていて、ドンドンと鈍い音だけが外から響いてくる。
ルシエルはそちらを見ることもなく、ただナイゼルをじっと見つめて言った。
「あなたはどうして私を助けようとしているんですか?」
「さて。しがない骸骨でも、分け隔てなく挨拶してくれたからかな?」
「そうは言っても、いまのあなたは……。とても若くお美しい、黒髪の」
幼い姫君は、ナイゼルの容姿を飾る語彙を持たず、口をつぐむ。
ナイゼルは薄く笑って、一度引っ込めていた手を、再び差し出した。
「おいで、お姫様。俺は厄災、呪いの魔法使い。俺をこの国から遠ざければ、ルシエル姫は英雄だ。君の祈りが奇跡を呼んで、俺を呼び起こした。これはその仕上げだよ」
「あなたをこの国から遠ざければ……」
「うん。俺はもうこの国にいる必要がない。どこか遠くへ行って、そこで君を育てるよ。なかなか良い計画だと思わないか?」
ルシエルは一歩踏み出して、ナイゼルの手を取った。
真摯なまなざしでナイゼルを見上げて、告げた。
「わかりました。私はあなたをこの国から遠ざけます。お願いします、ナイゼル」
その次の瞬間、ルシエルはナイゼルの腕に抱き寄せられ、赤いマントにすっぽりと包まれた。
びゅうびゅうと激しい風の音が耳元で鳴り響き、やがてふっと静寂が訪れる。
「もう目を開けて良いよ。下を見て。これが君の育った国。今から俺たちは遠くへ行く。誰か別れを告げたい相手はいる?」
優しい声に促され、ルシエルは目を開けた。煌々と輝く月光を浴びて、空に浮かんでいることを知った。そのまま、そうっと足元へと目を向ける。
眼下には、月夜に照らされた城や、森が広がっていた。
ルシエルはじっとその光景を見つめ、ゆるく首を振った。
「母が亡くなっているので、私の会いたいひとは誰もいません。兄弟に挨拶をしても、私は……生贄の仕事に戻れと言われるだけでしょうから。このままあなたとどこまでも行きます」
「そう? 俺はおじさんだから勘違いしないけど、そういうことは無闇と男に対して言わないようにしよう? おじさんと約束して」
ルシエルが成長するまで見守ると言ってしまった手前、ナイゼルは父親気取りでそう忠告した。しかしルシエルはナイゼルの腕の中で顔を上げ、きっぱりと言い切った。
「ナイゼル以外には言いません。私の一生はすでに、あなたに捧げています。私は……、初めて会ったときからあなたを」
「ちょっと待って。そんな美談は信用ならない。俺は初めて会ったとき骸骨だったし、恩義を感じられることがあるとすれば、お菓子をあげたときからだと思っている。君が俺についてくる気になったのは俺がお菓子おじさんだからだ。それは本来、非常に危険な考えだ。君にはまず、世の中ってものを教えなければ」
ぶつぶつと言うナイゼルを見上げて、ルシエルは無言となり、ナイゼルの体に自分のやせ細った腕を巻き付け、胸には頬を押し付けた。
「私はもう何も失うものがありません。だからそばにいるあなたに頼りたくなるんだと思います」
「おっと、ド正論きた」
「だけどもしこの先ずっとあなたと一緒にいて、いろんな人に出会い、いろんなものを見ても、やっぱりあなたが良いって思ったら、そのときは」
「お姫様。古くからあることわざに、『来年のことを言うと悪魔が笑う』っていうのがある。お姫様が言っているのは来年どころか、ずーっと、ずーっと先の未来のことだ。こんな口約束は、きっと小さな子どもの君の方が忘れてしまうさ。賭けても良い」
憎まれ口を叩くナイゼルであったが、ルシエルのまっすぐな瞳に見つめられると、不意に自信がなくなる。
いつの日か遠い未来に、ルシエルはこの日のことを掘り起こして、「ナイゼル、約束」などと言い出すのではないだろうか。
(そのときどうするかは……そのときが来たら考えるとして)
この国は、姫君であるルシエルをして未練もないと言わしめるほど、彼女に優しくはなかったに違いない。
だけどもしこの先、旅立ちのこの日を思い出すことがあったら、その思い出が少しでも美しいものであるように。
ナイゼルは片腕でルシエルを抱き直すと、そっと右手を虚空にかざした。
その掌から、真っ白な花びらがとめどなく溢れ出す。
それは夜風に乗って、はらはらと深い闇に沈んだ王国へと、降り注いだ。
★最後までお読み頂き、ありがとうございましたー!
ブクマや★で応援頂けるとすごく嬉しいです!!
今年一年お疲れ様でした!良いお年を!&
新年にお読みになる方へは、素敵な一年となりますように!
いつもたくさん読んで頂き、誠にありがとうございます。
次の作品でもお目にかかれますように。
(๑•̀ㅂ•́)و✧