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女装ほりでー 多華子さんとぼくの秘密

作者: 槙村まき

 ぼくの休日は、彼女の家の呼び鈴を鳴らすところからはじまる。


 彼女は、ぼくの一学年上の先輩で、ぼくが中学三年生の頃に近所に引っ越してきた。身長が高く、いつも凛々しい眼差しで前を見据えている彼女は、「かっこいい」と主に女子から人気を得ている。そんな彼女と出会ったのは、ある日の休日。食パンを口に銜えて慌てていないのにも関わらず曲がり角でぶつかってから、なんやかんやで仲良くなった友人である。少なくともぼくは友人だと思うことにしているし、彼女もそう思って接してくれるのだろう。いや、彼女の場合、ぼくのことを友人ではなく、単なる玩具(オモチャ)ぐらいの認識しかないのかもしれないけど。そう思うとぼくの中の何かが唸り声を上げそうなので、噛み殺すことにしている。


 呼び鈴を押してから約二分。

 玄関の扉が慌ただしく開いて、彼女が顔を出した。


「五分待って!」


 ぼくが頷くよりも早く、玄関の扉は閉じる。

 いつものことだ。休日の彼女は、ぼくのチャイムを目覚まし代わりにして目を覚ます。そして手入れされていないボサボサの髪と、寝間着姿のまま玄関を開けると、返答などわかり切っているとばかりに扉を閉めるのだ。

 いつもの休日の光景だ。

 ただ今日は少し違った。いつもはのんびりと時間をかけて玄関まで出てくるのに、今日は少し慌てているように見えた。

 些細な違いだ。ぼくは気にするのをやめて、五分待つ。



「さあ、入りたまえー」


 おちゃらけたように言いながら玄関の扉を開ける彼女――高見多華子(たかみたかこ)さんに誘われるがまま、ぼくは部屋の中に入る。多華子さんは母親と二人暮らしなのだけど、休日はいつも仕事に行っているらしく一度も会ったことはない。てか親がいたら、ぼくみたいな年齢の近い男子を家の中に上げたりはしないだろう。うん。別にぼくが男に見られているのかどうかはこの際おいておこう。


 2LDKの標準的なマンションの一室。

 台所のある通りを抜けると、ぼくは多華子さんの部屋に向かう。

 多華子さんが横開きの襖を開いて、自分の部屋に入って行く。ぼくはその跡に続いた。


「……」


 うん。いつ来ても、多華子さんの部屋の光景には驚いてしまう。

 ピンク。それと、白と赤。水色や黄色もあるけど、濃紺色は極力使わないようにしているかのように、眩いほどのピンク色の部屋。どうしてこんなにピンクが好きなのかはわからないけど、僕はどちらかと言うと濃紺色のほうが好きなので、居心地の悪さを感じてしまう。

 さて。

 と、ぼくは多華子さんが意気揚々と取り出した服に目を向けると、ため息を吐いた。


「えー。ため息を吐くだなんて、そんなにもあたしの作った服、かわいくない?」

「そ、そんなことないです、よ」


 思わずため息を吐いてしまったのは、別の理由だ。多華子さんの服がかわいくないわけではない。というより、多華子さんの部屋の小物もそうだけど、多華子さんの作るものは男のぼくから見てもかわいいと思うし。

 見かけと言動に似合わず、繊細で、洗礼されたかわいさを感じる。


 けど。

 そう、けど違うのだ。


 ぼくは、彼女が見せびらかしてきたできたばかりの服を見て、「またか」と思っただけなんだ。

 だって彼女の作った服は、真っ先にぼくが試着することになっているのだから。

 男のぼくが、彼女の作ったかわいい服を、着なければいけないのだから。

 屈辱だと、並大抵の男なら言うだろう。いやぼくだって並大抵の男のつもりだから、屈辱だと喚き散らしたくなる。

 けど、ぼくはそんなことをしたくはない。

 せっかく彼女と二人っきりになれる、学校の友人には秘密な彼女との時間を共有できるのだから、それを守りたいとさえ思っている。

 だから、ぼくは渡された服を受け取ると、多華子さんに部屋から出るように促す。

 大人しく多華子さんが部屋の外に出て、扉もきっちり閉まっていることを確認すると、ぼくは着ている半袖と短パンを脱ぎ、多華子さんが仕上げたばかりの「かわいい服」の袖に腕を通す。

 なんか、足元がスースーする。


 ぼくは姿見の前に立ち、自分の着ている服を隅々まで眺める。

 ワンピースだった。夏らしく黄色い柄のフレアワンピース。裾が膝までないのが気になって仕方ないけど、いまは我慢だ。ぼくはワンピースと一緒に渡された、白いカーディガンを羽織ってから、一度くるりとターンをすると、多華子さんを呼ぶ。


「いいですよ」


 扉が勢いよく開く。

 多華子さんの長身が姿を現した。


「かわいい!」


 ずいっと近づいてくると、キラキラとした瞳でぼくを見下ろして、多華子さんはぼくの頭を撫ではじめた。

 くっ、恥ずかしい……。

 ぼくは俯く。


「こーた、それに合うように黒髪ロングのカツラ被って」


 多華子さんはそう言うと、ぼくの頭にカツラを被せてきた。

 こーたとはぼくのあだ名だ。本名は提島虎太郎(つつしまこたろう)。虎太郎は長いからと、多華子さんはぼくのことを「こーた」と呼ぶ。


 カツラを櫛で梳いて整えると、多華子さんはよしっと満足そうな顔をした。ぼくは、彼女のそんな顔を見るのが好きだ。多華子さんが喜んでくれると、ぼくまで嬉しくなってくる。

 屈んでいた多華子さんは背筋を伸ばすと、大きく伸びをした。

 多華子さんの身長は、女子の中では高い方だ。前に身長を訊ねたら、百七十一センチだといっていた。

 対してぼくは、男子の中でも身長が低く、背の順では絶対といってもいいほど一番前になる。というよりぼくより前に誰かが並んだことはないし、前倣(まえなら)えで腕を伸ばした思い出もない。腕を腰に当てていた覚えしかない。悲しい思い出だ。


 昨日の夜、ぼくは身長を図ったのだけど、これもまた悲しいことに、一年前から変わらず百五十六センチのままだった。ちょうど多華子さんと十五センチも差があることになる。もしぼくが女子なのであれば、平均値となるだろう。そして多華子さんが男子であったらば、とても理想的な男女になることができるに違いない。

 けれどやっぱり、現実は非情だ。多華子さんは女の子で、ぼくは男の子。これは一生変わることのない、性別の壁だ。


 ぼくはこの身長でいままで散々な嫌な思いをしてきた。

 まだ小学生の頃はよかった。でも中学に上がって、周りは成長期がきてすくすく育っていくのにもかかわらず、ぼくの身長はほんの六センチしか伸びることなく、高校一年生になってしまった。去年のぼくは、まだ望みがあると思っていたけど、今年度健康診断の結果で、ぼくの身長はもう伸びないのだと悟った。悲しくなったけど、伸びないものは仕方ないし、その頃にはもう多華子さんに出会って半年ぐらいが経っていて、多華子さんの仕立てた服を着るのが休日の楽しみになっていたこともあり、ぼくは自分の身長の低さが役に立てるのだと思うことができていた。


 きっともしぼくがもっと身長のある男子で、多華子さんを見下ろせるほど高かったのであれば、多華子さんが作ったかわいい服の着せ替えに巻き込まれることもなかったのだろう。けど、ぼくはこの身長のおかげで、多華子さんと仲良くなることができたのだ。

 すらりと身長が高く、凛々しい眼差しが魅力的なかっこいい多華子さんは、ぼくの憧れだった。

 たとえ休日の楽しみの中でとても屈辱的である女装をしなければいけないのだとしても、多華子さんと一緒にいられるのであれば、ぼくはいくらでもそれを受け入れることができるだろう。


 多華子さんは、高身長と凛々しい顔立ちと少しかけ離れた、とてもかわいらしい趣味を持っている。

 裁縫。かわいい服を作るのが彼女の趣味だった。

 彼女は小学生の頃に裁縫の楽しさに目覚めてからいままで、趣味でたくさんの作品を仕上げてきたらしい。最初は小さな小物から。次第に人形の服、鞄、それから中学三年生の頃から女の子向けのかわいい服に夢中になっている。

 けど多華子さんの作る女の子向けの服は、すべて彼女のサイズではなく、女子の平均的だと言われている身長――たとえば、ぼくみたいな百五十六センチぐらいのサイズのものばかりだった。

 それで多華子さんは悩んだのだという。

 なぜなら多華子さんは、自分の趣味を母親にはおろか友人にも言っていなかったたからだ。彼女は昔から女子の中でも身長が高い方で、凛々しい眼差しから「かっこいい人」として定着してしまった。多華子さんは、友人や家族の前ではかっこいい小物や服が好きな「イケメン系女子」として、見えを張り続けている。いまさら自分がかわいいものが大好きで、かわいい小物や服を作っていると、周囲に知られたくなかったのだという。


 そんな悩み多き高校一年生の春。ぼくと多華子さんは、食パンを口に銜えていなかったのにも関わらず、近所の曲がり角でぶつかるという運命の出会いを果たした。

 それからぼくは、多華子さんの玩具(オモチャ)もとい着せ替え人形もとい趣味を共有しあえる友人になった。

 うん。女装は別にぼくの趣味ではないけど、彼女と一緒にいられる貴重な時間だから、その時間だけでも楽しまないとね。



「え? 出かけるんですか?」


 間の抜けたぼくの声に、多華子さんが楽しそうに言う。


「うん。ちょっとこれから『ツクヤ』に行ってこようと思ってね。いま作ってるやつの材料が足りないんだ」


 『ツクヤ』というのは、手芸用品などを正門に扱っている、街角の小さな店だ。小さい店内の割には、多種多様な素材が手に入ると、いつも多華子さんが絶賛している。まだぼくは一度も行ったことがない。


「じゃあ、ぼくはもう帰ってもいいですか?」


 まだ昼前だ。いつものようにぼくの写真撮影も無事に終えて、いつものように多華子さんがミシンをカタカタさせているのを眺めながら、趣味の読書にでも勤しもうと思ったのだけど。集中すると飲まず食わずでお昼を抜きかねない多華子さんのために、コンビニでおにぎりを買ってきているのだけど。

 部屋の隅にあるコンビニ袋にぼくは目をやる。すると、多華子さんが「うーん」という唸り声を上げた。


「じゃあ、ご飯食べてから出かけようね」

「ん?」


 ぼくは首を傾げた

 出かけようね? 

 ということは、ぼくもついて行ってもいいってこと?


「こーた、もしかしてこれから用事でもあるの? それなら、一人で行くけど……。困ったなぁ。こーたに相談して買おうと思ってたんだけど」


 あれ? もしかしてぼくは勘違いしていたんじゃ。


「でも用事があるならしょうがないよね。あたし一人で行ってくるから、こーた、また来週もこれるよね?」

「用事、ありませんよ」


 てっきりぼくは多華子さんが一人で『ツクヤ』に行くと思っていた。これまで休日は、多華子さんが作った服をぼくが試着して、多華子さんがその姿を気がすむまで写真撮影をして、昼に買ってきたおにぎりを食べて、多華子さんが集中しているのをぼくがこっそり眺めて、そして午後五時。多華子さんのお母さんが帰ってくる前に、ぼくは自分の家に帰る。

 それがこれまでの休日の流れだった。

 多華子さんと出かけたことは、これまで一度もない。だから、ぼくは勝手に多華子さんが一人で『ツクヤ』に行くものだと思っていたのだけど。

 どうやら違ったみたいだ。

 高い声をなるべく低くするために、ぼそぼそとぼくが答えると、多華子さんは満面に嬉しそうな笑みを浮かべた。


「よかった! じゃあ、さっさっとおにぎり食べて出かけよっか!」



「……」

「ちょっと、こーた。そんなに顔を顰めていたら、せっかくのあたしの服が台無しじゃない」

「……」


 凛々しい眼差しで言い放つ多華子さんに、ぼくはジト目を送る。

 もう七月で、世間ではもうすぐ夏休みになるという時期。ぼくたちが通っている高校も、来週末から夏休みに突入する。

 夏だ。特に今日は気温が高く、雲がほとんどなく空気もカラッとしている。夏本番と断言してもいい空模様だ。

 そんな天気のいい日に外を歩けば、じんわりと汗がこれでもかと溢れ出してくる。

 それだというのに。

 ぼくはとてもひんやりしていた。というかスースーしている。額に汗が滲んでいるけど、足元だけは慣れることのない風が入り込んできているからか、とても涼しく快適だ。いまのぼくの心境と違い。


「……」


 もう一度ジト目を送ると、やれやれと多華子さんが困ったように肩をすくめた。

 ぼくは多華子さんから視線を逸らし、自分の素足に目を落とす。

 なるほど。スカートって、こんなにも涼しいものだったのか。夏には最適だけど、冬は寒そうだな。

 そんな悠長なことを考えているわけではない。いや、少しはそう思ったけど、それはまたべつの話だ。


 なんで。どうして。ぼくは、女装姿で外を出歩いているのか。


 ぼくと多華子さんの通う高校は、それぞれの自宅から歩いていける距離にある。

 つまり、この地域を歩くということは、少なくとも知り合いに遭う可能性があるということだ。

 もし、ぼくの趣味が女装だなんてそんな風評被害が広まってしまえば、ぼくは明日から学校に行けなくなってしまう。

 いままで休日に多華子さんの家で女装をするのが当たり前になっていたけど、女装姿で外に出たのは今日が初めてだった。いつもは写真撮影を済ませたら、すぐに自分の服に着替えることにしている。間違って女装姿で外に出ようものなら、並々ならぬ羞恥心が湧き上がってくるのが目に見えていたからだ。


 それなのに。

 カツラを被って、女の子の恰好をしているからといっても、ぼくは男だ。たとえ身長が女子の平均的で、筋肉がなく体格がやんわりしているとしても、ぼくは男だ。性別は産まれたときから決まっている。ぼくが男なのは、産まれてこれまで、死ぬ時まで変わらないことなのだ。


 つまり、どうしてぼくが黄色いフレアワンピースに白いカーディガンを併せて、その上黒髪ロングのカツラを被って外を出歩いているのか。

 ――それは、おにぎりという名のお昼ご飯を食べ終えると、間髪入れずに多華子さんに腕を引かれて、外まで連れ出されたからだ。咄嗟のことで反応できなかったぼくにも非があるかもしれないけど、でもやっぱり外に出るのは――ちょっと、恥ずかしい。

 口をむっつりとして、俯きがちに歩いていると、前を歩いていた多華子さんがいきなり足を止めた。思わずぶつかりそうになったけど、ぼくは寸前のところで踏みとどまる。


「ついたよ、こーた」


 その口調と、凛々しい眼差しにぼくは吸い寄せられていく視線を自然にずらした。

 そして、目前に立っている、小さななお店を見る。

 ファンシーに見えるそのお店は、もしぼくが男の恰好をしていたのなら浮いていたかもしれない。そう思うと、ぼくは多華子さんへの冷たい態度を少し改めようと思った。きっと彼女は、男のぼくが浮かないように、女の子の恰好をさせて連れてきたのだ。それならそうと最初に言ってくれればいいのに。


「ごめんね、こーた。こーたなら女装しなくても通用する店だと思ったけど、かわいい女の子と一緒に買い物するのがあたしの夢だったから、つい」


 前言撤回。

 ぼくは、口を真一文字に結ぶと、多華子さんの傍から少し離れた。


 『ツクヤ』から出るころには、ぼくはぐったりとしていた。

 原因である多華子さんは、ぼくとは正反対にとても元気がよく、笑顔ではしゃいでいる。大きな買い物袋を、一つ掲げていた。


「いっぱい買えたね。こーたがいてくれて助かったよ。あたし一人じゃ迷っちゃって」

「……いえ」


 なんというか女子の買い物って、本当に長いんだなと思った。

 最初は多華子さんに「これとこれの生地どちらがいい?」と相談されて、悩みながらも選ぶのが楽しかったのだけど……。その数があまりにも多すぎて、ぼくは途中でげんなりしながらも、楽しそうな多華子さんの笑顔に救われて買い物を済ませた。店内は空いていて、多華子さんと二人きりという状況も良かった。レジで雑誌を読んでいる店員が微笑ましそうに時折ぼくらを見ているのが気にならないぐらい、ぼくらは夢中になって材料を選んでいた。


 でも、疲れた。

 もしいまぼくがワンピースを着ていなかったのであれば、名残惜しいけど多華子さんと別れて、自分の家に戻ってベッドにダイブしたいぐらいだ。けどぼくの服は多華子さんの部屋に置いてあるし、まだ午後五時まで時間があるから、もう少し多華子さんと一緒にいたい。多華子さんと二人きりになれる貴重な時間を、大切にしたい。


「本当にこーたがいてくれて助かるよ」


 少しトーンが落ちた多華子さんの声に、ぼくは顔を上げる。

 多華子さんは目を細めて、ぼくを見下ろしていた。


「こーたがいるから、こんなにも楽しいんだもんね」

「……そう、ですか」

「そーに決まっているじゃない。だって、もしあの日こーたと曲がり角でぶつかっていなければ、こーたに会うこともなく、誰かに着てもらうでもないかわいい服をただ黙々と作るだけだったんだよ? 自分で着るわけでもなく、誰かに着てもらうわけでもない服を作り続けるのは、しんどかったんだ。もうやめようかなと、思っていたときに、こーたと出会ったわけ」


 フッ、とかっこよく笑うと、多華子さんは無邪気な子供のような笑みになった。


「正直、こーたと出会えたのは、運命だと思ってるよ。こーたがいたから、自分の大好きな服を作り続けられる。あたしはそれがとても嬉しいんだ」


 ニコニコ笑う多華子さんの笑顔が眩しくって、ぼくは思わず目を逸らした。

 だって――。

 ぼくの変化に気づいた多華子さんが、ちょっと意地悪く言ってくる。


「どうしたの? こーた、耳まで赤くなってるよ?」

「……な、何でもない、です」

「そう?」

「……そう、です」


 ぼそぼそと、声変わりしていない高い声を隠すため、ぼくは低い声で答える。

 「ふーん」と多華子さんが鼻歌を歌うように声を上げる。

 ぼくは、そんな困ったように首を傾げる多華子さんの顔を横から眺めた。そして改めて思う。


 ――多華子さんの笑み、かわいいな。


 いつも凛々しい眼差しに不敵な笑みを浮かべている多華子さんだけど、ミシンで服を縫っているとき、たまに無邪気な子供のような笑みを見せることがある。どこかあどけなく、無防備な笑み。きっとその笑みは集中しているときか、彼女が自分の趣味を語る時ぐらいにしか見せることはないのだろう。実際、高校で多華子さんをよく見掛けるけど、その時の多華子さんは「かっこいい人」を意識しているからいつも以上に凛々しく感じる。笑顔も一々かっこよく、ぼくにはできない表情を軽くやってのける多華子さんに、嫉妬心と憧れと、それから少し物足りなさを感じることがある。


 かっこいい多華子さん。彼女が、こんなにも無防備で解放的な笑みを浮かべるのは、趣味に没頭している時ぐらいだろう。

 きっとそんな彼女の笑みを知っているのはぼくだけなのだと思う。

 多華子さんの友人も、多華子さんを慕う後輩も、多華子さんを相手にすると自信を無くすと言っていたぼくの友人も、多華子さんのお母さんだって知らない、多華子さんの笑顔。ぼくは、そんな彼女の笑みを見るのが好きだ。だから休日はいつも、多華子さんの家に訪れる。

 へにゃりと、目を細めて笑う多華子さんを見るために。



「そういえば、来週の土曜日って、こーたの誕生日だったよね?」


 突然の問いに、ぼくは頷く。

 来週の土曜日。七月十七日。そして、夏休みの初日。約四十五日間、ぼくたち学生は学校を休むことができる。つまり、来週の土曜日からはほとんど毎日が休日になる。

 そんな長い長い夏休みの初日。その日は、ぼくの十六歳の誕生日だった。

 といっても、歳をとるだけで特に感慨もないけど。敢えていうなら、その日はお母さんがぼくのためにケーキを焼いてくれるぐらいだ。毎年ほとんど夏休みと重なることもあり、友人からプレゼントをもらうことをあまりない。まあ付き合いの長い友人からは、毎年メールを貰うけど。

 うきうきとした様子で、多華子さんは言った。


「こーたのために、プレゼント用意しているから、楽しみにしていてね。とっておきの服だよ」

「……あ、はい。ありがとう、ございます」


 ――服。服、かぁ。

 どうせ女の子ものなんだろうなぁ。

 嬉しいような、そうでもないような複雑な気持ちに、ぼくはため息を吐いた。


「じゃあ、また来週も来てね」

「はい。もちろんです」


 そういえば、今年の誕生日は去年とは違う。今年は、多華子さんがいる。誕生日に、多華子さんと一緒にいられる。

 それだけでも満足だけど。でもやっぱり、女装はぼくの趣味じゃないんだよなぁ。



 ◇



 待ちに待った、七月十七日、土曜日。夏休み初日。

 学校がある日よりも早い時間に、ぼくは目を覚ました。自分が思っているよりも、楽しみにしていたのだろう。

 いつもより早い朝ご飯を食べ終えると、ぼくはいつもよりも早く家を出る。

 ぼくの家から十分も距離の離れていないマンションの一室。そこが、多華子さんの家だ。

 インターホンを押そうとして、指が止まった。

 今日はいつもより早く起きて、いつもよりも早く朝ご飯を食べて、いつもよりも早く家を出てきてしまった。いまチャイムを押したら、多華子さんはいつもよりも早く目を覚ますことになるだろう。休日の彼女は、ぼくのチャイムを目覚まし代わりに使っている。


 躊躇い、少し時間を潰すことにした。

 汗が頬を伝って行く。頬を撫でるぐらい涼しい風が吹いている。

 五分経ち、十分経ち、二十分経った。

 よし、とぼくは決意すると、インターホンを押す。

 バタバタ、と扉越しに慌ただしい音がした。

 目の前の扉が開く。


「こーた。早いよー。五分待って!」


 扉が閉まる。

 ぼくは思わず目を見張った。

 いつものんびりと扉を開ける多華子さんが、先週に引き続き慌ただしく扉を開いたからではない。扉を開けた多華子さんの目元に、大きな黒墨があるようにあるように見えたからだ。

 気のせいだろうか。一瞬だったから、その可能性もある。

 悶々と考えていると、いつの間にか五分経っていた。扉が開き、普段着に着替えて髪の毛を軽くブラッシングした多華子さんが姿を現す。その目元には、やっぱり黒い隈がくっきりとできていた。


「……徹夜、ですか?」

「うん。一昨日の夜から寝てないんだよねー。どうしても今日に間に合わせたかったからさ」

「それは、ぼくのために?」

「ん? ま、立ち話もなんだから、入りたまえー」


 笑顔で腕を引っ張られる。ぼくは玄関で靴を脱ぐと、腕が引かれるまま多華子さんの部屋の中に入った。


「あ」


 部屋の隅に視線が向く。

 隠すことなく、ぼくへのプレゼントは置いてあった。

 けどそれは――。


「あ、あの。多華子さん」

「ん?」

「あれ」

「ああ、あれ? あれはねー」

「も、もしかして、ぼくへのプレゼントですか!」


 高い声を隠すために普段ぼそぼそと喋っているぼくだけど、予想外のプレゼントに、ぼくは興奮して捲し立てるように口にする。

 多華子さんが驚いたように目を見開いた。


 ――多華子さん。ぼくは、ずっとあなたからかわいい服を着せるための着せ替え人形だとしか思われていないと思っていた。だから今日ぼくのために作ってくれていると言っていた服も、女物なのだとばかり考えていたのだけど。少し気持ちを改めた方がいいのかもしれない。


 ピンク色の部屋の壁側。ハンガーに揺れる服は、紛れもなく紳士服だった。

 タキシード、といえばいいのだろうか。黒いコートはおへその前でボタンが止められて、そこから後ろ裾に長くなっている。それに合わせた白いシャツ。それから先週にぼくが選んだ臙脂色の生地のネクタイ。

 ぼくは思わず近づくと、惚れ惚れとした顔でそれを眺める。かっこいい。


「こーた、それは」

「ありがとうございます!」


 満面の笑みで振り向けば、多華子さんは困ったように頬を掻いていた。


「こーた、よく見てみ。そのタキシードのサイズ」


 多華子さんの言葉に、ぼくは再びタキシードに目を向ける。

 そしてその袖の長さと、ぼくの腕の長さを見比べて――いや、その前にその服の大きさを今一度確かめて――ぼくはあ然と呟いた。


「でかい」


 ぼくより一回りか、二回りぐらい大きい。これをぼくが着たら、ダボダボで、かっこよく決まらない。

 なんで、だろうか。どうして多華子さんは、これをぼくに作ってくれたのだろうか。もしかして、これを着られるだけの身長を伸ばせということなのだろうか。……それは、ほとんど不可能に近い。なぜなら、ぼくはこの一年間、一ミリも身長が伸びていない。ぼくの身長は、多華子さんよりも十五センチ低い。

 ぼくは、多華子さんが作ってくれたこの服を、着ることができない。


「あのね。それ、こーたのじゃないんだ」

「え?」


 ぼくのじゃない? なら、これは一体誰が着るんだ?

 ぼく以外の誰が多華子さんの服を着るんだ?


「あたしの服」

「え?」


 すっとんきょんな声が出る。

 多華子さんが着る? タキシードを?

 それは、さも似合うに違いない。多華子さんがこのタキシードを着たら映えるだろう。多華子さんは身長が高いし、凛々しい眼差しは男子に負けることのない輝きを誇っている。

 でも、どうしていきなり自分のためにタキシードを作ったのだろうか。

 多華子さんが押し入れの扉を開く。

 すると、中から一着の服を取り出した。


「こーたへのプレゼントは、これだよ」

「へ?」


 目を見張る。

 多華子さんが押し入れから取り出した服は、一言で言うのなら「メイド服」だった。

 水色のギンガムチェックの生地に、白いフリルをあしらえた、派手すぎるわけではないけれど可憐なメイド服。この生地も、先週ぼくが選んだものだった。


「多華子さん……」

「どう? こーたの誕生日だから、あたし頑張っちゃった。これを作るのに、結構苦労したんだよー。ここ二日間徹夜して、なんとか完成したの」


 つまり、多華子さんの目の下の隈は、このメイド服を作っていたからということか。

 そう思うと複雑な気持ちになる。多華子さんは、きっとぼくが喜んでくれると思って、作ったのだ。その上徹夜までして、仕上げてくれた。

 それを無下にできるほど、ぼくは冷酷ではない。

 一生懸命に多華子さんが作ってくれた服を、着ないのは勿体ない。

 きっと多華子さんは、これを結構前から作っていたに違いない。先週も多華子さんはこれを作っていたのだろう。ぼくを驚かすために、隠していたのだ。

 ぼくが先週に選んだ生地がふんだんに使われた、手作りとは思えない水色のギンガムチェックのメイド服。

 下唇を軽く噛むと、ぼくは手を伸ばした。


「着替えるから外に出ていてください」

「本当に着てくれるの!」


 嬉しそうな多華子さんの顔。

 ぼくは頷くと、メイド服を受け取った。多華子さんが部屋の外に出て、襖を締め切るのを確認すると、メイド服に腕を通す。




「こーた。かわいい! かわいいよ、こーた!」


 スマホのレンズをこちらに向けて、シャッターを切りまくる多華子さん。

 ぼくは引き攣った笑みで、それを受ける。


 多華子さんはタキシードを着ていた。どうやら、ぼくの誕生日のためにメイド服を作る片手間に、自分用に作ったものらしい。多華子さん曰く、メイド服に合わせて自分も何か着たかったんだとか。いつもかわいいものばかり作ってきたらか、タキシードを作るのは苦労したんだとか。

 予想通り、多華子さんのタキシード姿は、彼女によく似合っていた。肩の下まで伸ばしている髪の毛を一つに結び、後ろに垂らしているのだけど、彼女の凛々しい眼差しが彼女の「男らしさ(かっこよさ)」を際立たせていた。

 ふと、姿見に映る自分の姿に視線が向く。

 今日のぼくは、水色のギンガムチェックのメイド服に合わせて、茶髪のカツラを被っていた。肩の上で切り揃えられたそれが、時々ぼくの首筋を触りこそばゆい。

 三十分で写真撮影を終えると、うっとりとした顔で自分が撮った写真を眺めていた多華子さんが、「ふぅ」と声に出してため息を吐く。


「いやぁ、こーたはいつもかわいいねぇ」

「……そうですか」


 別に、かわいいと言われても嬉しくないのだけど。多華子さんからの言葉は、素直に受け取ることにしている。

 それに、いまの多華子さんは――ぼくにだけしか見せない笑顔をしている。へにゃりと目を細めて笑う姿は、あどけない子供のようで、無邪気でかわいい。

 横目でそれを見ていると、なんだか胸の奥にわだかまっていたものが、すぅっと退いていく感覚がする。


「多華子さん」

「ん?」

「ありがとうございます」


 心の底からの感謝を口にする。

 誕生日に多華子さんと二人きりで過ごせるなんて、最高のプレゼントだ。いくらでもかわいい服を着てあげてもいいと思えるほどに。

 ぼくは今日で十六歳になる。成長期も声変わりもどこかに置いてきてしまったけど、これから身長が伸びるかどうか疑わしいけど、でも多華子さんに会えた。

 身長差が十五センチもある多華子さん。

 彼女を見上げることしかできないのは悔しいけど、でも彼女と一緒にいられる休日を大切にしたいとぼくは思っている。


「こーた」


 多華子さんの目が大きくなる。


「抱きしめてもいい!?」

「……遠慮しておきます」


 なんだか感極まっている多華子さんが腕を広げたので、ぼくは後退った。いまのこの状態で抱きしめられるのは、男として何とも言えない。いくらぼくが多華子さんのことを好きなんだとしても。

 それになんというか、やっぱり多華子さんはぼくのことを、ちゃんと男だと思ってくれてないんだろうなぁって改めて思ってしまった。

 多華子さんの中で、ぼくは「かわいい着せ替え人形」でしかないのだろう。そうとしか思われていないのは、やっぱり悔しい。でも、ぼくにはその状態を覆せるほどの度胸がない。ないのだけど。だけどいつか、多華子さんにぼくの男らしさを見せてやりたいと思った。


 いつか。必ず。どこかで。


「そういえば、こーた。あたしはね、ほとんど自分のためにかわいい服を作ってるんだよ」

「……そうですか」


 そうだと、思っていたけど。


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