Prologue.雨の幽霊
赤司れこ@
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ともくんは幽霊が見えるんだって。幽霊っていうのはどのレベルの存在を言うのか僕にはよくわからないけれど。
「環、お願いがあるんだけどさ」
「うん? ああ、智樹か」
円城環は顔を上げて見知った顔を確認すると、再びタブレットに目を落とす。
ここはクウェス・コンクラーヴェといういわゆるお洒落カフェで、その日もランチも過ぎた時間帯だというのに、ざわざわと混み合っていた。そして環の定位置たるこの席は、店内でも更に奥まった一角にある。日中、環はたいていここで雑誌の原稿を書いている。
「何? 幽霊でも出たの?」
「うん? まあ、出たような、予感?」
「珍しく煮えきらないな」
「見てないから」
環は再びタブレットから顔を上げた。
少しくすんだ明るい金髪をマンバンに結い上げた彫りの深い長身の幼なじみは、憂いを含む妙に色気のある瞳で環を眺め下ろしていた。
この男、公理智樹は幽霊が見える。見えるのに見えないというのなら見えないのだろう。ニホンゴ的におかしいなとは思いながら、環はその意味を考える。
智樹はカリスマ美容師なんてチャラい仕事をしている割には生真面目な奴だ。変な嘘をつかない。酒乱ではあるが、今は酔っ払ってはいなさそうだ。これもまた酒を飲まなければいい奴という駄目な部類だな、と思い直す。
「つまり、透明な幽霊?」
「透明? いや幽霊はいなくってさ、なんていうか音が聞こえるんだよ」
「音? ラップ音とか?」
「いや、水の音。ぽたぽたとかジャーとか」
「配管でも壊れてんじゃないの? あとは……ひょっとして低周波とか?」
智樹は困ったように秀麗な眉根を寄せた。
異音が聞こえるくらいじゃ記事にならない。環の興味は半ば失せていた。
環の仕事の1つは季刊異界という極一部にしか知名度のないサブカル雑誌のライターだ。奇妙奇天烈なオカルト記事を日々クリエイトしているが、真実に幽霊がいるというならまだしも、異音くらいじゃ記事にはならない。
「どうだろ。でも晴れてたんだよ? それにあの音は幽霊な気がする」
「音が、幽霊? 幽霊が音を出している、でもなくて?」
「そうそう、音が幽霊?」
智樹はやはり、わずかに自問自答しながら環を見下ろした。
大抵の幽霊が見える人間というのは、その目の網膜によって幽霊を視覚的に認識する。そして特定の人間にとっては、その触覚によって幽霊に触れることができるとも聞く。とすればその鼓膜の作用によって音の状態の幽霊に触れて聞くことがありうるのか? 音というのは鼓膜を揺らす物理作用だ。
環はラップ音というものの性質について改めて考えた。
「よくわかんないんだけどさ、智樹が言う音は雨の音なんだろ?」
「そうそう」
「それじゃあ人間じゃなくて雨の幽霊なの?」
「えっ? あっ雨の幽霊だから姿が見えないのかな?」
智樹は首をかしげた。
雨が幽霊になったりするのだろうか、と環も首を傾げた。
智樹の言うことは時折よくわからない。けれどもそれはお互い様だと思い返す。他人の知覚し得ない感覚を説明するためには、似た感覚に寄せて説明せざるを得ないのだ。特に智樹は感覚派というのか、なるべくそのままを伝えてくるので、その器官を有さない環にはうまく理解できない。
「ともかくちょっと見て欲しいんだよ。ただの幽霊なのかどうか」
「ただの幽霊かどうか?」
「そう。なんか変な感じがするんだよ。環のやる魔法みたいな」
「智樹は魔法はわかんないだろ」
「うん、だから『みたいな』」
「仕方がないな」
環はふう、と雨のように湿った息をついた。