Epilogue.そして日常
それでもなれない運動に悲鳴を上げる体はピクリとも動かず、ハァハァと息をつきながらしばらく横たわっていると、トンネルの奥にゆらりと動く影をみつける。思わずビクリと肩が痙攣する。けれどもそのゆっくりと動く影から聞こえた声にほっと息を撫で下ろす。
「成康、さん、足が、お早い、です、ね」
「環さん、こそ、大丈夫、です、か」
互いに息が切れていた。円城環もあの闇の中に入っていたのだろうか。あの恐ろしい闇の中に。
そういえばずっと持っているように言われた組紐の先は、確かにトンネルの奥、闇の奥に続いていた。
陽の光のあまりの明るさのせいか、環の姿は輪郭すら定かではなかった。そして闇の中から一歩光に踏み出したその左足は赤く染まっていた。
成康は慌てて駆け寄ると、環は大丈夫だから、と一言呟き、一度トンネル内を振り返った後、その場に座り込む。背負ったリュックから消毒液と包帯などを取り出しはじめる。
左のデニムの太もも部分が大きく裂け、皮膚と赤い傷口が除いていた。
「大丈夫ですか!?」
「ええ。思いの外、強かったですね、いや、まあ、想定内か」
「想定内って……」
「まぁ、この位ならすぐ直ります。化け物による傷はそれ用の治療をすれば翌日には白く塞がるものなのです」
「それにしたって」
その傷は長さ10センチ、深さ1センチ半はありそうだ。環は顔をしかめながら、その傷口に膏薬のようなものを無理やり塗り込み、青々しいつややかな何かの葉を載せ、その周りをぐるぐると呪文のようなものが書かれた包帯で巻く。
「関節じゃなくてよかった。歩けなくなる」
「そういう問題じゃないでしょう? それよりあれはどうなったんですか?」
「豆粒にして食べました」
「はぁ?」
成康は鳩に豆鉄砲を食らったような顔をした。
環はそれはそれで仕方がないか、と思う。化け物と人間は住む世界が異なる。つまり世界の理屈ごと異なっている。超常とは超常の理で動く。環はその化け物の理屈、つまり伝承の通りに問答を行い、山姥を始末した。
けれども現実世界で『何かを豆にして食べる』というのは普通ないな、と思い直す。だからとりあえず、説明を試みるがあまり効果の程は期待していなかった。
「三枚のお札というのはもともとそういう話でしょう? こういうのは先例に則るのが一番なのです。初手が遅れて怪我をしてしまいましたが、仕方が有りませんね。ここに辿り着くのは難しいので」
「ここに?」
「ええ。黄泉路というのは現れたい時か、資格を持つ者が求めた時、それから黄泉路の気まぐれでしか現れません。だから櫟井さんがこのトンネルを呼ばなければ、もうおかしな目に会うことはないでしょう」
「俺が? 呼んだ?」
「ええ。だからここに来れたのです。あなたはおそらくここに来れるタイプの人なのでしょう。だからもしここにたどり着いたとしても、決して中に入ってはいけません。入らなければ大丈夫でしょう」
「あの、ありがとうございます、本当に」
環はなんとか起き上がり、リュックから出したロングジレを着込む。
踝丈まである黒のレース素材のジレは前で止めると太股部分を綺麗に隠す。
「これで目立ちませんよね?」
「目立つ? ……ええ、まぁ確かに」
「では契約の成功報酬は着手金と同じ口座にお振込み下さい」
「あの……本当にありがとうございました」
「ああ、それと、私が悩みを解決するという噂は流さないで下さい」
「え、何故ですか?」
環の表情は些かうんざりしていた。
「たいていは思い込みとか痴情のもつれとかのどうでもいい話ですし、私の本業はライターですから」
Fin