4.匂いの行方
ケイヤの口調は全く変わらなかった。だから内倉はその意味内容を捉えかねていた。
「血って同伴者に?」
「そう。血と胃液の臭いがします。その血の持ち主はカレーを食べた」
「ちょ、ちょっとまって。それはどんな状況? 同伴者がカレー食べて吐血したってこと?」
「おそらく違います。香水の香りが2種類。ジルヴァンティのより強い香りと、ユゲントンの新作の香水。それが血の臭いと混ざっている。それからカレーはヴァミジャーナの特徴的な胡椒の香りがする」
「どういうこと」
「私が感じたことはそれだけです」
ジルヴァンティは辻切ツインタワーにある男性用香水のブランド、ユゲントンは神津スカイツリーにある女性用香水のブランド。ヴァミジャーナは神津にあるスリランカカレー屋だ。
内倉の感覚では茉莉花からもナミからも、そのどの匂いも感じなかった。カレーはともかく身につける香水の香りは職業柄わかる。ナミちゃんでも茉莉花でもない女がいる。女でない可能性もあるけれど。
ケイヤは再び目を瞑る。瞑りながら今度はあわせた中指をとんとんと擦る。少し前のことを思い出している仕草だ。
「茉莉花が初めてカイザーに来たのは3ヶ月前。私がいる時に来たのは多分17回。この男の臭いがしたのはおそらく2回。最初は43日前。それから18日前。今日で3回目。そのうち血の匂いがしたのは2回、43日前と今日。血の臭いの主が今回の臭いの主と同じかどうかはわからない」
「血の匂いがしない時、その男から他の臭いは何かした?」
「わかりません。覚えるほどの特徴的な匂いはなかったように思います」
茉莉花が3ヶ月前からカイザーに来ているとして、17回来ているなら5日に1回程度来ている計算になる。43日前から数えるとカイザーに来ている日数は単純計算8回。そのうち今日を含めて3回男と同伴しているとするなら、出勤回数に直すとその男が茉莉花と同伴している頻度は多い。
「43日前、か。茉莉花のところに最近良く来るようになった客、なのかなぁ」
「そこまではわかりかねます」
「そうだよね。ここにこない日だってあるわけだし」
ユカの息子に女の影があることにユカが気づいた時期と重なる。
ジルヴァンティはユカの家のある辻切のショップだ。ジルヴァンティを身に着けるなら、茉莉花と同伴する男が辻切に住んでるユカの息子さんの可能性はある。
内倉はそもそも茉莉花の情報を金にしようとしただけだった。けれどもわけのわからない展開に自分の引き際の検討を始める。
「その男の手がかりは他にないかなぁ」
「手がかりですか」
ケイヤは目を閉じ、今度は親指をぐにぐにと擦る。内倉はこれを何かを考えている合図と認識している。ケイヤの内心、それは接客中も接客外も表情からはわからない。けれども接客外の時は油断をしているのか、体のちょっとした仕草で考えていることがわかることがある。内倉はこういう合図を読み取るのは得意なのだ。
「失礼します」
ケイヤはふいに内倉の右手を取ってボタンを外し、シャツの袖をめくり、手首に唇を近づける。あたかも中世の騎士がお姫様に何かを誓うようなファンシーな構図で、内倉は困惑すると同時これをケイヤの客に見られれば刺されるかもしれないと思い、それでケイヤから迷惑料を引っ張れるなら4桁万円いかないだろうかと皮算用する。
けれどもケイヤは内倉の手首の赤い痣を嗅いでるだけなことに気づき、落胆した。
「同伴者はあなたの手首と似た匂いがしました」
「朝に風呂入ったんだけどな」
「このくらい近くであればわかることもあります」
内倉は一瞬、もう少し風呂で丁寧に体を洗うべきかと悩んだが、ケイヤが特殊なだけだと思い直す。昨夜内倉はユカの家に泊まった。内倉には全く感じないのだが、内倉からはユカの家の匂いがするのかもしれない。そしてユカの家ということはユカの息子からも同じ匂いがするのだろう。そうすると血の匂いがしたのは息子という結論になる。
内倉は話がヤバい方向に転がっていると認識し、どうしたら一番儲かるかを考え始めた。
一番安全で鉄板なのはユカに茉莉花の情報を流して小金をせしめ、信用という名の将来投資をする。
茉莉花に味方をしてユカの息子さんを落とす算段をして分け前をもらう。茉莉花の他の店での接客態度をバラすと脅せば、良い顔をしたい茉莉花から金は引っ張れるだろう。けれどもこれは茉莉花が引っ張れる金が上限額だ。
新しく浮上した案は血の匂いがする息子を脅して金を巻き上げる。息子は高給取りで、動かせる大金を持っているはずだ。けれども『血の匂い』というリスクは測りかねた。
「その血っていうのは致命傷かな」
「私は医者ではないから正確なところはわかりません。けれども死ぬ程度の濃度に思えます」
「何でそれがわかるの?」
「人が死ぬのはそれなりに嗅いだからです。それから血と胃液とヴァジャミーナの香辛料の匂いは混ざっているように思える。それと、人が腐る匂いがした」
「腐る……?」
内倉は『それなりに嗅いだ』という言葉に慄きつつ、『人の腐る匂い』という言葉に更に混乱を来たした。
腐るというのは死体を放置したということだ。例えばどこかが壊死している、というのならばともかく、他人に付着するほどの匂いを腐臭として発生させる体と血の匂いを発生させる体というのは基本的には相容れない。
「何人分かはわかりません。1人分かもしれないし複数かもしれないが、臭いは一つだから同じ場所だと思う」
「えっ待って、その腐る匂いって俺からもする?」
「しません」
内倉はホッと胸を撫で下ろした。
ケイヤの話は神津のどこかで人が死んでおり、そこは特定の場所であることを示す。
ユカはおそらくこの死と腐臭には無関係だ。何故なら腐臭というものは強烈だからだ。ユカの家に腐乱死体があるのなら、ケイヤは内倉からそれを嗅ぎ取ったはずで、そうするとその腐乱死体はユカの息子に関連する事情だ。
次に考えるべきは、その死体が息子に直接関連するものか、偶発的なものかだ。死体が発生しているのが同じ場所であるのなら、単に息子がその近くをよく通るだけ、という可能性もあるのかもしれない。
一方で、内倉の頭は前者の場合、つまり息子がその死体に積極的に関連している可能性を考えた。その場合は危険性は高いだろう。死体というのは秘匿すべきもので、しかも大量にあるとすれば死体に慣れているということだ。下手に手をだせば自身が死体になりかねない。
内倉の頭の中では、殺されたら金が増えないという考えと、ハイリスクならハイリターンで実入りがいいのではという考えが逡巡していた。
「困っているんですか?」
「え、別に……『困ってる』」
「何に困っていますか」
「血の匂いの発生源、まではわからないよね」
「そうですね、明日の昼なら」
「えっわかるの?」
「辿ればおそらく」
「辿るって……それなら早い方が良くない? 今からは無理?」
「一度家に帰らなければいけません」
内倉の頭にケイヤの噂が浮かぶ。
ケイヤには色々噂がある。不治の病の弟が一緒に住んでいるという噂や、ゲイで彼氏と住んでいるという噂。だから家を離れられず、アフターも同伴も当然ながら恋愛も枕もしないという噂。
そもそもケイヤの営業スタイルはおかしい。お客から1を聞いて匂い嗅いで好きなモノを割り出して喋りまくるという度し難い営業をしている。ホストなら多少盛って自分の話をするものだけど自語りも一切ない。だからケイヤの情報はまるでないのだ。
内倉はケイヤの弱みでも握れないかと後をつけようか考えたこともあるが、その圧倒的な嗅覚で秒でバレると思いやめた。
「今晩じゃだめかな」
「駄目です」
臭いを辿るなら恐らく速いほうがいい。臭いというのは時間が立てば立つほど薄まる。
しかし取り付く島はなかった。
「明日なら俺も同行していい?」
「明日の昼ならかまいません。神津駅の北口で待っています」
「わかった。時間は? 改札とかにいればいい?」
「正午をすぎればいつでも構いません。見つけます」
『見つけます』というのは臭いで見つけるという意味で、内倉は犬みたいだと思ったが、実際に可能であるのだから何も言えない。
内倉は何故そんなことをするのか考え、ケイヤはプライベート知られたくないのだろうという考えに落ち着く。予め時間を決めればどちらから来るかで家の方向がわかるかもしれない。けれども迂回してくれば同じことだ。
ケイヤは一方的に相手の匂いを辿ることができる。内倉はこの攻撃は最大の防御のような能力はずるいのではないかと思った。




