3.大きな桜の木
「信じてもらえないかもしんないんだけどさぁ。俺、幽霊見えるんだよね。それで栄市の霊に伝えろって言われたの。何で霊になってるかは知らない」
「は?」
「栄市から聞いてないかな、幽霊が見える智樹」
すっかり冷めたコーヒーを飲み干してから仕方なく告げた言葉は女を固まらせた。それは智樹にとって間違いのない事実だ。けれども普通は信じない。説得する見込みもない。
それならさっさとこいつは話にならないと切り上げさせて、栄市の部屋の指紋を拭き取りに行く。キーボードと窓だけ拭けば、あとは見つかっても友人だで通る。遅くなると住宅街は人が増える。だから陽が高いうちにその作業を終えなければだめだ。そう考えた智樹が見上げた太陽は既に中天から少しだけ傾き始めていた。
けれども席から腰を上げる智樹にかかった声は予想外のものだった。
「徳川埋蔵金の? いつか一緒に掘り出すって言ってた」
「は? ……まあそうだけど。その話、栄市はギャグじゃなくてマジだったのか」
「マジかはわかんないけど、それじゃ松笠さんはやっぱり死んだの? おかしいと思ったんだ」
「うん?」
「だって幽霊なってるんでしょう?」
智樹は自身が勘違いしている可能性に再び気づく。この女は栄市が『幽霊になっているかどうか』の確証がない。そうすると、この女が栄市を殺したんじゃない? けれどもやっぱり、それがどういう意味か、智樹は思い浮かばなかった。
だから既にやけっぱちになっていた智樹は直接聞いた。
「何がどうなってるの?」
「松笠さんの霊から聞いてるんじゃないの?」
「本人全然覚えてなくてさ。ていうか信じるの?」
「だって普通、そんな荒唐無稽な嘘つかないでしょう? 本当に霊が見えるならともかく」
女の顔を覗き込むと、妙に安心したように微笑んでいた。
智樹は今のどこに安心する要素があるのか、この女はやっぱりおかしいんじゃないかと混乱しながら頭の中を整理する。幽霊が見えることは何故かすんなり信用された。こんな風にフランクに聞き返すくらいなら、やっぱりこの女が殺したんじゃないのか?
そうすると栄市の自殺を目撃したとか。
栄市は自殺するタイプじゃないが、ひょっとしたら直前に何か酷いこととかがあって、本人はすっかりそれを忘れているのかもしれない。
「栄市さ、本当に記憶がないみたいなんだよ。だから何があったのか教えてくんないかな、マジで」
そして女の口から語られたのは、智樹の霊視よりさらに荒唐無稽な事実だった。
女の話から、栄市と女が会う予定にしていたのは実は昨日だったことが判明した。智樹は後ろで栄市の霊が舌を出しているのをこっそり睨む。
そもそも今日伝える必要すらなかったじゃないか。馬鹿馬鹿しい。そう思いつつも、栄市のせいばかりでもないと思い返す。もともと栄市の記憶が曖昧なところを無理やりつなげ合わせたのは自分なのだ。
だからこそ、この女は人と会う格好ではなかった。妙な混乱が生じている。
それで女が問題は語った奇妙な話だ。
昨日、参道を2人で観光して桜の木まで行った。そこまでは栄市の計画通りだったようだが、栄市はその巨木に足を引っ掛けて転んで頭を強打したらしい。
そこからはさらに意味がわからない。
桜の精を名乗る男が突然現れた。
「お嬢さん、頭を打ったなら動かすのはよくない。様子を見るから明日朝にこの人を取りに来てください、って言われて」
「取りに来る?」
「その時はそんなものかと思って帰ったの」
女はおかわりをしたコーヒーをちゅるりとすすった。
「ちょっと待て、何故それで帰るんだ。救急車とかを呼ぶべきじゃないの」
「後から考えるとそう思うけど、その時は何故かそれがいいと思えたの。おかしいと気づいた時は結構時間が経って真夜中で、今更様子を見に行くのも救急車を呼ぶのも気が引けて」
「……それで朝迎えにいったの?」
「それが怖くて。昨日の事が現実に思えなくてどうしていいかわからなくってここで考えてて」
確かに非現実的だが女は決心がつかず朝から昼前までここにいたらしい。優柔不断すぎる気はするが、事態が事態だから仕方がない……のだろうか。それで決めかねて、その男の迎えともとれる智樹が訪れたから何か脅されるのかと警戒したそうだ。
男の得体はしれないが、栄市の死体を確保しているのならこの女に殺人の濡れ衣を被せることはできなくもないのだろう。けれども智樹の頭は全てが女の狂言である可能性も拭えなかった。
ただし狂言にしても荒唐無稽すぎ、結局霊が見えるという智樹の証言の信憑性もどっこいどっこいなのだから、とりあえず一緒に確認しに行くことにした、というかすっかり面倒くさくなっていた。
参道の奥には誰がいるのか。
女は1人では心細いと言う。智樹も鍛えているわけではないが一応長身で男だ。何かがあった時のためにスマホの録音をオンにしながらとぼとぼ上って桜の木に辿り着く。
「本当にあったんだ、桜」
それは本当に巨木だった。何故近くに来るまで見えなかったのかわからないほど巨大で古そうだった。けれども智樹は近づく前からすでに桜の異様な雰囲気を感じ取り、けれどもどちらかというと神々しかったからそこまで嫌なわけでもなく、むしろ隣を歩く女にまとわり付く水子霊のほうが嫌だなぁと思っていた。
「お嬢さん、遅かったですね」
智樹は目を瞬かせる。その男は本当に桜の巨木からスルリと抜け出たように見えた。目を何度かこすった。本当に桜の精というものが存在するのかと一瞬考えたが、化け物の種類なぞ智樹にはわからない。
30ほどに見えるその男は、黒っぽい羽織に角張った黒の外套に中折れ帽子、なんとなく明治の書生と聞くとそんな感じかと思う姿で現代日本人の服装とは異なるが、かといって大昔の神様とかそういう出で立ちでもない。
「すみません、その」
「男の方も一緒にいらして助かりました。時間がたちまして、少し深く沈んでしまいましたもので、お嬢さんには大変かともと思ったのです。ああ、ご本人も戻られたのですね」
男はそう告げて真っ直ぐと栄市を見た。
「あんた、栄市が見えるのか」
「もちろんです。その方はお体を修復をしている間、暇だから彷徨きたいと仰るので魂だけ外に出して差し上げたのです」
「魂だけ?」
智樹が振り返れば、栄市はわけがわからないという顔をしている。それも含めて忘れたのかもしれない。
「ええ。体はこの桜の木の下に埋まってますから。早く引き出してあげてください。体は治ったとは思うのですが、深く埋まるとそれはそれで掘り出せなくなり、亡くなってしまいかねません」
「栄ちゃんはまだ生きてるのか?」
「勿論です。この桜は神木です。もとより神ですから人を癒やすのです。放置すると死体となり、その栄養となってしまうのですが」
「桜の下に、死体?」
「その通り」




