アーモンドボール
信じられなかった。
でも、信じたくないわけではなかった。
突然の事だった。
テレビの天気予報のコーナーが、今日は突然切り替わって、慌てふためいた様子のアナウンサーが映し出された。しかしやはりプロのお仕事。アナウンサーはカメラが切り替わったのを理解した途端落ち着きを取り戻し、冷静に、沈着に、このニュースを見ている人に向けて事実を伝え始めた。
「えー、先程、NASAから全世界へ緊急連絡がありました。本日の日本時間午後五時頃、火星付近を通過するはずだったハレー彗星が太陽系の磁場の影響で軌道が大幅に逸れ、現段階での計算上、地球に直撃するとのことです。もし直撃した場合、直径10kmの彗星は下部マントルを破壊し、たいへん大きな衝撃波と推定高さ50m程の津波を発生させ、最悪、惑星が四散するとのことです。えー、落下する大まかな位置としては日本海沿岸の---」
「は?まじ?」
驚いた。
それは、世界が終わるからでは無い。
その落下する場所と言うのが、あまりにも自分の住んでいる場所に近かったからだ。
しかし、たかが直径10kmの隕石だか彗星だかで地球が終わってしまうなんて信じられなかった。いや待てよ、2kmの持久走5回分の大きさってことか。あの地獄を5回も…そりゃ地球なんて簡単に木っ端微塵になるだろう。会得がいった。
ずっと、ずっと、このまま何も変わらず年老いていくものだと思っていた。死因は老衰だと、そう思っていた。
大学も2年目になって、授業の要領やこの知らない土地にもだんだん慣れてきたところだった。
友達もでき、バイトもアタリを引いて、何もかも順調だった。大学生って楽しいと思っていた。自分の好きなテーマの部屋にして、好きな本を買って、好きな時にコンビニに買い物に行って。
不足はなかった。不満もなかった。
ただひとつを除いては。
それが崩れ去るのか。こんなにあっけなく。
この街ぐるみのドッキリか何かだと考え、ベランダから外を眺める。
子供が走っていた。
その親も走っていた。
親がこけた。
何か刃物のような物を持った人が走り回っていた。
誰を刺すでもなく、きっとそんな勇気などないのだろうが、来たる終わりに対する感情を、爆発させていた。
犬が吠えていた。
海の方向に向かって大きな声で吠えていた。
飼い主がリードを引っ張り、逃げようとしていた。
犬は抵抗していた。
飼い主は泣き叫んでいた。
車が渋滞を起こしていた。
途中で間に合わないと悟り、車から降りて逃げる人がいた。その車がまた渋滞を引き起こし、道路はどうしようもない状態になっていた。
雑多な感情や方法に溢れかえってはいたが、人々はみな、海から逃げようとしていた。
今テレビで流れている、誰がどんな気持ちで作ったか分からない再現映像を見たら、きっと何をしても無駄だとわかるだろう。
様々な波が押し寄せて、ひびが入って砕け散って、逆らいようもなくこの星はなくなってしまうのだ。さながら歯に押しつぶされる、丸っこいおしゃれな洋菓子みたいに。
「あーゴミ出さなくて済むってことか。ラッキー。」
あれだけ必死に生きようとする人々を見ても、考えることはその程度だった。
生きることに執着は不思議となかった。
ただ、非日常だけが、好奇心をくすぐっていた。
夢見がちな俺は今まで、何とかファンタジーに手を伸ばそうと努力してきた。
胡散臭そうな魔導書も買ったし、占いも独学で学んだし、陰謀論もカルト的暴論も降霊術も都市伝説も、非現実に入り込めそうなものは全てかき集めた。しかし、知れば知るほど、それは裏で薄汚い金や思想が蠢いていることに気づいて、どうしても没入できなかった。
何より、非現実を実感したことがなかった。
いつも手が届きそうで、でもそれは科学の域を決して出なかった。リアルしかそこにはなかった。
だけど、今回は、いや、今回も、科学の域は出ていない。判然としたリアルでもある。
しかし、非日常でファンタジーだった。
大きな石が落っこちて、俺は死んでしまう。
その光景に背を向けて逃げることなんて、俺にはできない。
絶対この目で見たい。
世界を終わらせるものの正体を見届けたい。
しかしながら、1人でそれを成し遂げるには、少しだけ勇気が足らない。
俺はおもむろに携帯を取り出した。
トークアプリをひらく。
ピン留めしてあるトーク画面。
文字を入力している途中に、あの人は俺にメッセージを送ってきた。
-ねえ、今から暇?-
-って、既読はやw-
そんな予感はしていた。でも、本当に来るとは。
先輩とは本当に気が合うようだ。
-うるせいやい笑-
-暇ですとも。多分ですけど、きっと同じこと考えてると思いますよ-
大事な部分を言わなくても会話が成立するのは、俺が生きてきた中で先輩だけだ。
-そかそか-
-んじゃ、あの公園集合で。気をつけてな。-
-はーい-
いつもの調子のやり取りを済ませて、さっそく身支度をする。
タンスの奥にある、ちょっといい靴下をはいて、寝癖なおしのためのワックスをつけて、放送休止状態になったカラフルなテレビを消して、家を出る前にもう一度鏡の前に立つ。
おっけい。いい感じ。
鏡の自分に下手な指パッチンをして、家を出た。
鍵は掛けなかった。
公園に向かう道。少し寄り道をして、懐かしい道を通る。
今、菜の花が綺麗なこの道で、少し前にあの人に告白をした。
先輩は首を横に振った。いや、それは比喩的な表現で、実際は頭を縦に下げていた。
「ごめんね。君のこと、嫌いじゃないんだけど、いや、好きだと思うんだけど。でも、恋人とか、そういうのじゃない気がして。」
そう、それが、ずっと俺を悩ませていた。
興味がないとか、君が嫌いだとか、いいなずけがいるとか、そう言ってくれればまだ簡単に割り切ることが出来た。
いつも思い出す。あの綺麗な茶色い髪と、あのきらきらした瞳と、あの何ものにも変え難い笑顔を。
それだけが、俺の学生生活の不足と不満だった。
諦めきれない。
先輩もまた、ファンタジーに生きていて、俺と同じようで、全く違う世界観を持っていた。それはなんとも非現実的で、非の打ち所がないくらいうつくしかった。先輩の顔も声も好きだが、1番好きなのはそこだった。
その感性を、人間性を、俺は独り占めしたかった。
他の誰でもだめだった。
いつも俺の欲しい言葉をくれる。あなたを。
段差が絶妙にツラい階段を上る。
上りながら、そういえば両親と兄弟に連絡をしてないことを思い出した。別に仲が悪い訳でもないし、たまに連絡はしているのだが、もう時既に遅し。
トークアプリは回線がパンクし、使い物にならなくなっている。
それにきっと今懸命に逃げているところだろう。
賢明な判断だと思う。
実家はここからそんなに遠くないから、呼んだら来てくれたかもしれない。でも、呼ばなくて良かったと思っている。家族のためにはならないだろうし、何より、
最高の時間を共有するのは家族でいいかもしれないが、最悪の時間を共有して、きっと楽しくなるのは先輩しかいないと思った。
この公園は、先輩と初めて会った場所。海が綺麗に見えて、滅多に人も来ないから、暇な日はここで朝日と夕日を眺めていた。あの日も、いつものように海を眺めていた。
「よっ。」
先輩は、あの日とおなじベンチに座って、同じようにこちらを向いて微笑んでいた。
わざとか偶然か。読めない人だ。
「いやーやっぱそのシャツ似合いますね。先輩と言えばそのシャツのイメージですね。」
「えーやっぱ?あたしもおきになんだよねー」
白い歯をみせてにかっと笑う。
そうやってるかっこよくて可愛い先輩以外は、それはもう散々なものだった。
風が強い。天気も悪い。彗星が降ってくる以外には何も変わりはないはずなのに、まるでその予感を地球が感じ取ったかのように、黒い雲が空を覆い尽くしている。が、暴風により雲は蹴飛ばされ、その隙間から綺麗な夕陽が見えていた。
「なんかさ、君も物好きだねえ。死ぬ間際って時に、こんなやつと会おうだなんてさ。」
「こんなやつなんて言わないで下さいよ。人の好きを否定してはいけないのです。」
「だってさ、君を振ったやつだぜ?それなのにまだ仲良くしてるし、かまちょはするし、何を考えてるかなんて自分でもわかっちゃいない。」
「そういうところが好きなんですよ。」
「はー。君はいつも真っ直ぐだね。騙してるみたいで嫌になっちゃうよ。事故物件みたいな人間だぞ?例えるなら、北にベランダがあるみたいな。」
「でも、そのベランダからの景色が、あまりにも綺麗だったもので。」
「…はは。上手いこと返されちまった。あーあーあたしの負けだよ全く。」
両手を上にあげて降参のポーズをとった。顔は全然、負けたような表情ではないのだが。むしろなにか、嬉しそうだった。
「さ!しみったれた話はこれくらいにしておきましょう。もうすぐだと思いますよ。」
「ああ、そうかもね。もうすぐ地球は跡形もなくぐしゃぐしゃになってしまうんでしょうよ。そうだなあーまるで--
「おしゃれな丸い洋菓子みたいに、ですか?」
瞬間。
先輩は目を丸くして、俺の方を向いた。そして、
「あっはっはっはっはっはぁ!」
何かの糸が切れたように、先輩は大きく大きく口をあけて笑った。
「あーはは。さっきのナシにしてよ。もうちょっとしみったれた話しようぜ。」
「えーいいですけど。」
正直嬉しい。
「最後だから言うけど、恥ずかしいけど!あたしはさ、君のことがきっと好きなんだと思う。1番好きなんだと思う。でもさ、あたしにとって恋人ってのは1番じゃないんだ。なんなら友達よりも脆いものだと思ってる。
それが崩れちゃうと、全部元に戻れないような気がしてさ。
恋人にするのはもったいないと思ったんだ。
だからさ、大親友としてさ、あたしと、いっぱいどうでもいい話しようぜ。死ぬまで、ずっと隣にいておくれよ。」
「…へ、へへへ。」
思わず変な笑いが出てしまった。そうか。この人の中では、恋人はその程度のものなんだ。
俺はその程度のものじゃないってことだ。
え、傲慢?自意識過剰?
いいだろ、もうすぐ死ぬんだし。
「死ぬまでって、もうそんなにないでしょうに。」
「別にいいだろー。って、言ったはいいものの、何話すか決めてねーや。あ、昨日の晩御飯なに?」
「いーやもっと話すことあるでしょうよ。なんだったかなー。確か唐揚げだったかなあ。」
そうやって、いつでも出来る話を、いくつかした。
本当に他愛ない、自愛もない、取り留めもない話。これから世界が終わるなんて、到底誰も想像できないような、そんな話。
「…それでさ、その手作りチョコがあまりにもしょっぱくって、って、あーもうそろそろかな。」
黒い黒い雲の隙間から、何やら怪しい光が差し込んできた。まるで意思をもっているかのように、雲が避けてゆき、そこに円形ができる。
風がだいぶ強まる。少し飛ばされそうになる先輩を、俺は手を繋いで押さえた。
先輩の手は、少し震えている。
「せーんぱい!!」
「なんだよ。」
「だーい好き!!!」
「なんだよw」
表情筋の許す限り笑って、声帯の許す限り大きな声でそう言った。風にまけないように。
先輩の手の震えは、止まった。
なんだか、初めて、してやった気がした。
「あたしも好きだよ。」
「ん?なんか言いました?」
「なーんもないよー」
「聞こえてましたけどね!」
「はーうざ!」
笑いあった。
手を繋いだまま、ずっと笑いあっていた。
やっぱな。この人と一緒でよかった。
ファンタジーに生きた人と一緒に、ファンタジーに死ねる。
最高の最後じゃないか。
ついに、持久走5回分の石ころが姿を見せた。空を切り、夕陽を覆い隠すそれは、惑星を終わらせるにはあまりにも美しい物体だった。
見にきてよかった。
ゆっくりゆっくりと着水し、轟音と共にあらゆる衝撃の波が迫ってくる。
覚悟という覚悟はしてないが、恐怖はなかった。
先輩は、最後に、こっちを向いて微笑んだ。
「じゃ、またね。」
「はい、また。」
そのまま、
何もかも丸ごと飲み込まれ、
地球は粉々になって、
2人は幸せなまま、
宇宙に放りだされた。
まるで、
おしゃれな丸い洋菓子みたいに。