イセイの街
目が覚めると満天の青空が広がっていた。夏の日差しが痛いくらいに目に突き刺さる。自分が砂利交じりのコンクリートの上にあおむけに寝転がっていることに気づく。
どうしてこんなところに?
上体を起こすと頭がぐわんと痛み、視界がぼやける。鈍った思考の中でも二日酔いであることを思い出す。そうだ昨日は飲み会で遅くまで何軒かはしごしたのだ。靴もどこかにやってしまったようで薄汚れた靴下だけになっている。
まずいな。ここはどこだ?
くそっ、今まで記憶を失うほど飲んだことなんてなかったのに。
「ウェッ」急な吐き気に見舞われコンクリートの上に戻してしまった。青く染まった不気味吐しゃ物を見て一体何を喰ったのか不安になる。
見回すと3mほど先にフェンスがあり、辺りを取り囲んでいることがわかる。
何となく空を見上げると太陽がかなり高い。
その瞬間電流が走り、冷や汗が噴き出た。
まずい、完全に遅刻だ。
とっさにスマホを取り出す。7月25日時刻は午後1時を示している。不思議なことに通知画面には何の表示もなかった。連絡もなくこの時間まで出社していないのだ。何か来ていてもおかしくはないはずなのに。
とにかく会社に連絡しようと通話ボタンを押し、耳に当てながら立ち上がった。
ボケた頭で何と言おうかあれこれと考えながら、ここがどこなのかを知ろうとフェンスの方に歩み寄る。一歩進むごとにそれまで灰色と青と白だけだった視界に少しずつ街の風景が広がっていく。薄々そんな気はしていたが自分がビルの屋上にいることがわかった。外の様子は田舎過ぎず都会過ぎず、どこかの地方都市にありそうなよくある街並みだ。近くには雑居ビルが立ち並び、遠くには住宅地、さらにその奥には山々が連なっていた。駅前の雑踏からほんの少し離れたようなそんな街並みだった。だが見覚えのある場所ではなかった。
いつまでたっても呼び出し音すら鳴らないスマホを耳から離し、画面を見ると圏外だとの表示が出ていた。そんなバカな。今どき過疎地でも電波くらい入る。こんな街中で入らないなんてことがあるのか? 設定を一通り確認し、スマホを再起動させたがやはりつながらない。大規模な通信障害でも起こっているのかと思いブラウザを立ち上げようとするがページが読み込めない。よく見ると4Gどころか3G回線すら入ってこない。
半ばあきらめ気味にフェンスにもたれかかり街ゆく人々をなんとなしに眺める。みんないたって普通だ。俺みたいに慌てている人なんて誰もいない。
目の前の大きな公園を横切る女子高生が歩きスマホをしている。もしかしたら自分がいるこの建物にある何かの機械が電波に干渉しているのかもしれない。そんなことを考えたがだからといってどうしようもない。
とにかくここがどこなのかを調べて下に降りなければ。気を取り直してマップアプリを開く、GPS情報も入ってこない。画面には自宅近くの地図が表示されているだけだった。
ダメだ。もう下に降りるしかない。振り返りカギが開いていることを祈りながらドアに進む。俺は酔いながらもここまで来たんだ、鍵は開いているはずだ。ドアノブをガチャガチャと回すもカギは閉まっていた。こちらから開けられるタイプでもないらしい。
こうなってくると事態は深刻だ。酔った自分がどんなにバカで遠い地方に来てしまっていたとしても“日本の街中”にいるのだ。始末書ものにはなっても家には帰れる。そう高を括っていた。
照りつける太陽がジリジリと肌を焼く。持ち物はスマホと財布だけ。屋上に閉じ込められ、外と連絡も取れない。万が一にも死にかねない状況だ。何か策はないかあれこれ考えたが結局外に向かって叫ぶことしか思いつかなかった。大声を張り上げる。だが街ゆく誰もがその声を無視した。明らかに聞こえる距離のはずなのに。まるで俺が存在しないかのように人々は無反応だった。
どうなってるんだまったく。
まさか俺は死んだのか?……。
ヤバいな、暑さと酔いで思考がまともじゃなくなってる。冷静になれ。
この蒸し暑さによる息苦しさは確かに俺が生きていることを思い知らせてくれた。
落ち着いて街の様子をよく観察しよう、何か糸口がつかめるかもしれない。標識や看板からせめてここがどこかわかるのではないか。雑居ビルの屋上を含め街中にはいくつも看板があった。消費者金融、コンビニ、銀行、ファストフード店、服屋等々、知っている会社もあったが大手企業のロゴやイメージカラーをパクった少し悪質なものも多かった。最たる例はフライドチキン店で、白いスーツを着た白髪の女性像が店頭に据えられている。きっとジョークの類なのだろうが笑える余裕などない。
車道の青い案内標識は遠すぎてよく見えない。スマホのカメラを最大ズームにして何とか読み取れたのは直進すると新浜市というところに通じる道であることだけだった。
新浜市…知らない地名だ
街中の人々の様子を眺める。公園でランチをとるOL達、集団で歩道を占有する女子高生、高級ブランドの紙袋を下げて歩く二十歳くらいの女の子……。
ん?何かおかしい、というより不自然だ。どうして今まで気づかなかったんだろう。
この街にはどこを見渡しても男がいないのだ。視界に入る限りこの街に男は自分と居酒屋の看板に描かれたねじり鉢巻きの親父しかいない。
さらに言えば、年齢も限られている。見た限り40歳くらいの主婦らしき人が最高齢でそれ以上の年寄りはいない。また、時間帯の問題かもしれないが子供の姿もなかった。
おかしい…明らかにおかしい。なぜ男が一人もいない?
俺以外の男性がみな死に絶えた?
バカな、エロゲやマンガじゃあるまいし。第一そんなことが起きたら彼女たちだってこんなに平然とはしてないだろう。
このデジャヴを感じるほどの普通の街が急に不気味なものに見えてきた。
観察を続ける。だが何の変哲もない。男がいないこと以外は。彼女たちは何の疑問も持たずに日常を送っているようだった。優に30分は観察を続け、何の糸口も見つけられずに諦めかけていた頃にソイツは現れた。
身長は2メートル近く。老人のようにしわの寄った肌、体毛はなく、色は青と灰色の中間だった。目には白目がなく、人間の倍は大きかった。首と胴と手はひょろ長く、三本しかない指の先端は丸く膨らみゴルフボールくらいの大きさがあった。
白く光沢のあるエナメル質の服?を着ており、円錐形に広がるスカートは地面すれすれまで伸びている。隠れていて見えないが足もひょろ長そうな印象を受けた。
俺は悲鳴を上げた。自分の目で見たものが信じられなかった。だが俺はソイツが異星人であることを瞬時に理解した。明らかに宇宙人っぽい恰好をしていたからだけではない。俺は以前にソイツを見たことがあったからだ。
一目見た瞬間に全て思い出した。昨日の夜の出来事だ。
飲み会からの帰路につき、家の近くまで来ていた俺に一本の電話がかかってきた。それは中学卒業以来長らく会っていない幼なじみの美咲からだった。仕事の都合で今度こちらに引っ越してきたらしい。同級生を通じてたまたま俺が近くに住んでいることを知り、連絡をよこしたのだという。そして7月25日は俺の誕生日だ。再会を祝してこれから一緒にタコ焼きパーティーでもやろうと誘われた。美咲は昔から異常なほどタコ焼きが好物だったし、深夜だとか10年近いブランクだとかを気にするような奴ではなかったので何も疑わなかった。すでにかなり酔っていた俺は嬉しくなって二つ返事でokした。美咲は俺にとって友人であると同時に恩人なのだ。小さいころから女顔で気が弱く、いじめられやすかった俺を何度もかばってくれた。
駅前で美咲と落ち合い、スーパーによってから彼女の家に向かった。
街頭の明かりだけの夜道を二人で並んで歩いているとソイツは路地の暗がりから突然現れた。美咲は短い悲鳴をあげたが俺は驚いて声も出せなかった。明らかに人間ではないソイツは俺たちを指さし、口をパクパクさせながらゆっくりと滑るように近づいてきた。俺は美咲の手を引いて一目散に走りだした。
深夜とはいえ住宅街だというのに不自然なほど人気がなかった。無我夢中で走っていると大通りに出た。そのころにはもうソイツの姿は見えなくなっていた。通り沿いに明かりのついた交番があり、そこに駆け込むことにした。交番は無人だったが備え付けの電話があり用事の際はそれで連絡するようにと案内書きがあった。
受話器を取りボタンを押すと落ち着いた声の男性が応答した。俺は今あったことをありのまま話した。かなり平静を欠いていたし警官が信じてくれたとも思えないが、とにかく人をよこしてくれることになった。前面がガラス張りで明るい交番にいては外から丸見えで逆に暗い外の様子は見えにくい。奴がまだ追ってきているかもしれない。鍵が開いていたため俺たちは交番の奥の部屋に隠れて警官の到着を待った。その部屋は畳敷きで水道とコンロがあり休憩室のようだった。
「ねぇ、律」美咲が深刻な顔で俺の名前を呼んだ。
「何から話せばいいかわからないんだけど……」
その瞬間強烈な光が窓から差し込み、俺は急に平衡感覚を失い立っていられなくなった。同時に真夏の日光の何倍もの熱で皮膚全体を焼かれるような感覚に襲われ俺は畳の上でのたうち回った。
その後、扉からソイツが入ってきて美咲ともみ合っていたのを覚えている。
それが最後の記憶だ。美咲は無事なのだろうか。
あの異星人が地球を征服し女性たちを洗脳でもしたのだろうか?
可能性はいくらでも考えられた。
何がたこ焼きパーティーだ!タコ型宇宙人の方がまだかわいげがあるぞ!
こんな状況でもまだ冗談を思いつく余裕があることに我ながら驚いた。
俺は少し先の公園にいるソイツに万が一にも見つからないように、さながら狙撃手のように寝そべり、スマホだけをフェンスの外に突き出し動画を撮り始めた。モニター越しに姿をとらえる。街ゆく人々のほとんどはソイツがまるで存在しないかのようにふるまっているがただ一人、主婦のような人だけはソイツと短く会話を交わしていた。ソイツはどこかへ行ったかと思うと5分もしないうちに10人ほどの20代前半のスーツ姿の女性の集団を引き連れてきた。彼女たちはこの暑い中平然とジャケットを着ており、髪型を除けば就活生にも見える。ソイツは彼女たちに何かを説明しているかのような様子だった。しばらくするとその集団はどこかへ行ってしまった。
あの女たちは何者だ?明らかに街の人々とは違い宇宙人と直接接触していた。間違いなくアチラ側の人間だ。いやそもそも人間なのか?宇宙人が変装している可能性もある。それを言ったらこの街の誰もが……。そこまで考えたところでこの街のもう一つの違和感に気づいた。この街は静かすぎるのだ。人の声や車の音、機械の駆動音は確かにする。だが、鳥の声やこの時期には必ずあるセミの鳴き声が一切してこないのだ。この街は作り物なのではないか。疑念が沸き上がってきた。
ここが奴らに連れてこられた場所だとしたら、一緒に拉致された美咲もここにいる可能性がある。街中の人々が奴らの擬態なのか俺と同じく連れ去られた人々が洗脳されているのかはわからない。だが、地球ですらないとすれば電話やGPSが機能しないことにも合点がいく。もしそうなら楽観的に考えれば地球はまだ征服されていない可能性があり、それはつまり困難ではあっても元の生活に戻れる希望があるということだ。逆に考えれば地下に潜っていた人類の抵抗軍が俺を助けてくれるなんて奇跡は起こらないということになる。一人ぼっちの宇宙戦争をやらなくていい代わりに俺は一人でこの局面を切り抜けなくてはならない。或いは二人で。
俺はこの街に美咲がいる事、彼女が洗脳されていないことを願って街中を探した。だが、美咲はいない。諦めかけていた頃1㎞ほど先のビルの屋上に人影を見つけた。スマホのカメラを最大望遠にして覗くと顔まではわからなかったが昨日の美咲と同じ服を着ていることが分かった。どうやら双眼鏡か何かで街の様子を観察しているようだ。ここからサインを送る方法はない。彼女の元へ直接赴くしかない。あの女性達の街へ降りることになる。どちみち籠城はすぐに限界を迎えるのだやるしかない。目標を見失わないように入念に写真を撮る。地図はなくGPSも方位磁石もあてにはならない。
俺は屋上に置いてあったパイプ椅子と灰皿を思いっきりドアに叩きつけた。ドアは少しゆがんだだけでとても開きそうにない。その後も蹴りを入れたり鍵穴に針金を通してみたりいろいろ試したが開かず、結局2時間近くかけてドアを破壊した。美咲はまだビルの屋上にいた。階段で下に降りていく。どうやらここはオフィスビルのようだ。だが、空きテナントのように何もないフロアがほとんどで、2階の1フロアだけ、デスクやpc、電話、コピー機などオフィスとしての体裁が整えられていた。だがネットは通じていなさそうだ。オフィスには生活感がまるでなくめったに使われてはいなさそうだ。どうやら化粧品関係の商社のようで机には商品カタログや売り上げのファイル、表計算ソフトのテキスト、カレンダーなどがあった。内容自体に素人目に気になるところはなかったがやはりどれも小奇麗なままで使用感がなかった。
見本としてマネキンにかぶせてある女性用ウィッグを手に取り考える。理由はわからないがこの街には女性しかいない。こそこそと隠れながら美咲のいるビルまでたどり着くことは困難だ。奴らがどうやって仲間同士或いは男女を識別しているのかわからないが、男の恰好のまま外に出るよりはいくらかましに思えた。近くには女子更衣室がありロッカーが並んでいた。こんな状況でも女子更衣室に入るというのは妙な気分だ。ロッカーの中にはOLの制服が吊るされている。服の構造にいささか戸惑いつつもそれを着る。手櫛でウィッグをなじませると姿見に映る自分の姿は辛うじて女に見えなくもない。だが、ストッキングはなく晒された生足にはすね毛が鬱蒼と茂っていた。試供品の化粧品などもいくつかあった。使うたびに段々化け物じみた顔になっていく気がしたが顔が判りづらくなるのは好都合だろう。悪目立ちしない程度には使わせてもらおう。ファンデーションやコンシーラー?を厚塗りしても伸びてきた無精ひげはついに隠しきれなかった。
トイレの前で一瞬逡巡したが当然男子トイレに入った。幸い水道は生きている。出てくる液体が本当に飲める水なのか不安だったが脱水も限界だ。飲めるだけ飲み、オフィスで見つけた適当な空き容器に水を入れ、ロッカーに入っていたハンドバッグの中に入れた。空腹の問題はあるが水は当面持ちそうだし、使えるトイレがあることが分かったのも大きい。
スース―する足を気にしながら、ビルの外に出る。外に出た瞬間ここは地球ではないと確信した。太陽が目を覚ました時から全く動いていないのだ。最初は信じたくなかったが、時計の針はすでに午後五時を回っている。にもかかわらず太陽はいまだほぼ直上に位置している。覚悟はしていたはずだったが嫌な冷や汗が止まらない。太陽が動かないということはこの大地が自転をしていないか、太陽自体が偽物であることを意味する。
路地をコソコソと移動する。大通りに出れば彼女たちがいる。電柱の陰に隠れて大通りを見る。誰もこちらには気づいていない。少しでも見つかりにくいように隠れながら移動するか、それとも開き直って堂々と街を歩くか。悩んでいたせいで、迂闊にも後ろから接近してくる人影に気づかなかった。気付いた時にはもう手遅れだった。彼女たちは俺を視界に入れていた。だが、一瞥しただけで何事もなかったかのように大通りに進んでいった。
バレなかった……のか?
俺は思い切って大通りに出た。少しでも普通に、周囲に溶け込めるように平静を装って歩き続けた。街ゆく女たちは誰一人として俺のことなど気にも留めていないようだった。上手くいった。
だがこのアウェーな感覚は尋常ではない。
男ばかりの職場にいて周りが女性だらけというの自体慣れないのだ。仕事で女子大のキャンパスに行った時でさえ居心地の悪さを感じた。女性専用車に誤って乗ってしまったようなそんな場違い感がある。そして何よりここにいる女性たちは皆敵かもしれないのだ。もしかしたら人間ですらないかもしれない。おまけに自分は女装をしている。こんなに奇妙な状況がほかにあるだろうか。ゾンビの闊歩する街をゾンビの振りをしてやり過ごす映画を思い出した。いつあの青い奴に出くわすかもわからない。
道中で市内の地図を見つける。どうやらこの街は大和市というらしい。自分のたどってきた道と美咲のいた方向を考えると目的の建物は市庁舎のようだ。併設された観光案内板には観光名所ともっともらしい歴史が記されている。戦国時代の城跡がどこにあるとか、江戸時代の宿場町がどこだとか、姉妹都市提携の記念樹がどこにあるなどだ。選挙ポスターも掲示してあり、それにはしっかりと老若男女がそろっていた。だが一枚だけ例の青い奴が力強くこぶしを握り締めて写っているポスターが掲示されていた。党の名前は銀河共栄党、候補者名にはウヌポケ剛と書かれている。これが異星人の遊び心というやつなのだろうか、とても笑えるジョークではなかった。街道には人がそれなりにいるのだが、建物にはどれも人気がなく不気味さを漂わせていた。ファストフード店一店舗を除きコンビニも服屋も商品が陳列してあるだけで閉まっていた。
美咲のいるビルまでは直線距離で1㎞ほど、普通に歩けば10分ちょっとだろうか。だが、俺にはこの時間が30分にも一時間にも感じられた。目的地に着いたところでついに俺は決定的な場面を目にした。市役所前の広場にいた公務員風の女がポケットの中に手を入れたかと思うと見る見るうちに女は膨張していった。高さは2mほど、腹囲も風船のように膨らんでいる。そして急にそれがしぼんだかと思うと、垂れ下がった皮を破り捨てるようにして中から青いアイツが現れた。これではっきりした。街の全員がそうかは不明だが、少なくとも奴らは擬態できる。俺は思わず悲鳴をあげていた。ハッとして口を閉じ辺りを見回す。あれだけ大きな悲鳴を上げたのに誰にも気づかれていないようだ。そう思って安心した瞬間、他の青い奴らが二人組でこちらにやってきた。先ほどの声の主を探しに来ているようだ。
まずい。俺が逃げることもできずにその場に硬直していると誰かにいきなり手をグイっと引かれた。
「ごめーん。待った?」美咲だった。
「ほら、早くしないと売り切れちゃうよ」美咲は呆然とする俺をしり目に強引に手を引いてその場から離れた。
「なぁ。美咲」
「黙って!」
美咲は俺を公園の女子トイレに連れ込んだ。
「ほとんどの奴には人間の声は聞こえないの。可聴域が違うから。あなたには街の人々が普通に世間話でもしているように聞こえただろうけど、あれは機械がその場その場で違和感のない言葉を繋いでいるだけ。意味なんてない、ただの擬態。でも補聴器みたいな機械をつけている奴だけは人の声が聞き取れるし意味も理解できる。ほとんどは保安員と監督官だけど……」
「ちょっと待って、何の話だ?」俺は美咲を遮った。
「とにかくあなたは追われている。サイレンが聞こえない?高い音。」
耳を澄ますとモスキート音とでもいうのだろうか聴覚検査で聞くようなキーンという音がわずかに聞こえた。
「もうすぐこの区画もロックダウンされる。あなたを危険な目に合わせたくないの。無理な話なのは分かってるけど、私を信じて黙ってついてきて。幼なじみとしての一生のお願い」
美咲の目は真剣だった。彼女が俺を守ろうとしていることだけは確かなようだ。
トイレから出ると一転して辺りは夜になっていた。次の瞬間に月が消えた。ビルにほとんど明かりはついておらず、おそらく作り物であろう星々と街頭だけが町を照らしていた。
美咲の後について路上駐車されている車に近づく、美咲がスマホでどこかと通話したかと思うとキーが開きエンジンがかかった。助手席に乗り込む。車を走らせる。街には人っ子一人いなくなっていた。だが、数百m走ったところで女性たちの集団と出くわした。彼女たちは人間の鎖を作り、ゆっくりとこちらに歩いてきている。方向転換し別の方に逃げるもしばらく走るとまた同じような集団にぶつかった。きっとああやって包囲網を狭めながら俺たちを探しているのだろう。
「まるでトゥルーマンショーだな」
「黙って!」美咲は人が必死に振り絞ったジョークを一蹴した。
しばらく逃げ回った挙句ついに観念したのか美咲は大通りで車を止めて降りた。通りの先には女性達の鎖とそれを先導する青い奴らが5体見える。
「これは武器なの。形は槍だけど先端を相手に向けてスイッチを押せば遠くにいる相手にも使える。」美咲はグローブボックスから20cmほどの銀色の棒を取り出した。
「こっちのボタンを押すと伸縮する。普段は杖みたいに持って撃つとき以外は絶対に相手に向けないで、絶対にね」美咲は念を押した。
「これを持ってて。私が戻ってくるまでは絶対に車を降りないで」
美咲はゆっくりと青い奴らの方に歩き出した。
美咲は向こうで青い奴らと何かを話しているようだった。議論が白熱しているのか青い奴ともみ合っている様子も見えた。俺は不安の中武器をぎゅっと握りしめる。体格差的に青い奴が本気を出せば一瞬で美咲は組み伏せられるだろう。いや、美咲の中身があの青い奴だったら……嫌な想像だが否定はできない。10分ほどかかり美咲は戻ってきた。時計の針は午後7時を回っていた。
「武器を置いて、車を降りて」
俺は言われるがまま彼女についていった。青い奴の目の前までくる。こんなに近くで見るのは昨晩ぶりだ。2mという長身はかなりの威圧感がある。
「何もしないでじっとしてて」彼女は俺を青い奴らの前に突き出し、少し後ろに控えた。青い奴らは俺のことをまじまじと見つめた。気まずい沈黙の後、女たちが俺の周りを取り囲み半径1.5mほどの円を作った。俺は硬直したまま動けない。女たちは手をつなぎながらこの世のものとは思えない奇妙な声で何かを話し合っている。
いきなり背中に刺されたような激痛が走り、俺は地面に倒れうずくまったまま動けなくなった。まさにビリビリという表現が適切な痛みだ。全身の筋肉が痙攣して動けない。
辛うじて後ろを振り返ると美咲が先ほどの銀色の棒を持って立っていた。
「ごめんなさい。あなたを巻き込むつもりはなかったの」美咲はしゃがみ込み悲しそうな目で俺を見ていた。
ぐにゅりとした異様な感触が全身を押さえつけてきた。奴らの手だ。そして俺の口にホースが突っ込まれ、気体とも液体ともつかないものが流れ込んできた。
俺は薄れゆく意識の中で以前にもこの感触に押さえつけられたことを思い出した。あの交番で俺は同じように何かを吸わされUFO?に連れ去られた。奴らの変な機械に入れられたところで意識を取り戻し運よく拘束が外れた。俺は脱走し見たこともない無機質な通路を逃げ回った。奴らに見つかりそうになり、壁に空いていた穴に隠れていたらいきなり下に落っこちて……。その先は覚えていない。だがおそらく落ちた先があの屋上だったのだろう。
美咲は最後まで俺を見つめていた。それが彼女を見た最後だった。
目が覚めると無機質な天井が広がっていた。俺はどうやら牢に閉じ込められているようだ。牢と言っても刑務所みたいなものではない。床は多少柔らかいがベッドどころか水道もトイレも無い。全体が白一色に染められていた。透明なアクリル?の板が通路側の壁になっておりドアはなかった。換気用のダクトもない。通路の反対側にも同じような牢が見えたがそちらは無人だ。俺は検査着のようなものを着せられ、持ち物は何一つなかった。しかし、トイレがないのは問題だった。数時間は我慢したがついには限界を迎え、牢の隅で用を足すしかなかった。カメラは見えないがどこからか監視されているのかすぐに清掃員のようなつなぎを着たアジア系の屈強そうなおばさんがやってきて糞便を片付けていった。彼女はラテン系らしき言葉で何かをまくしたてたが通じないとわかると、こちらを見つめアクリル?の板をどんどんと叩いた。すぐに刑務官風の白人の女が飛んできて、アクリル?の壁の一部が人間大の穴をあけた。清掃員は糞便があった場所を指さしたりや変なジェスチャーを繰り返した。おそらくトイレをするときには人を呼べということなのだろう。俺はそう解釈した。それからはノックをするとすぐに刑務官風の女が飛んできて洋式便所に連れて行ってくれた。だが、用を足している最中ずっと目の前で見られているのは気まずくて仕方がなかった。食事は壁に突然穴が開きそこから差し出された。出てくるものはかつ丼、ハンバーガー、蕎麦など見知ったものばかりだ。初めは食べる気がしなかったが空腹には勝てない。
時計がないため正確な時間はわからないが12回目の食事が終わってしばらくすると、刑務官風の女に連れられて灰色のスーツ姿で恰幅の良い黒人の女性がやってきた。俺はついに牢から出されて、取調室のような部屋まで連れてこられた。黒人女性と二人きりになった。彼女は驚くほど流暢な日本語でにこやかに落ち着いた声色で話しはじめた。
「私はマーサ・ガルシア。あなたは?」
「河村律希です」
彼女はいくつか個人的な質問を繰り返した後、あの街であったことを聞いてきた。俺は極力正直にそれに答えた。この証言が自らに有利に働くのか不利に働くのかは検討がつかなかった。
俺の頭の中は疑問でいっぱいだったし、彼女に聞きたいことは山のようにあった。あの街はいったい何なのか?なんのためにあんなものが作られたのか?あの青い奴は?なぜ俺たちは連れ去られた?これからどうなる?美咲はどこにいる?彼女はどうこの件に関わっている?彼女も異星人なのか?だとしたらいつから?あんたは何者なんだ?あんたは本当に人間なのか?
彼女は一通り質問が終わると話し始めた。
「今回の“事故”に関してはこちらとしても不本意なことでした。あなたには非常に申し訳ないことをしたと思っています。一番気になっているであろうあなたの今後の処遇についてですが、まず元の生活には戻っていただけます。問題が起きないようこちらで手配いたします。ただ、しばらくの間監視をつけさせていただきます。これはあなたの身に薬の副作用やショックの後遺症が起こらないかを確認するためで、行動の制限はありません。あなたが見聞きしたものは全て誰かに話していただいても、文章として公開していただいてもかまいません。」
意外な言葉だったが、俺は相手を下手に刺激しないよう従順に相槌を打った。
「今回のことでいろいろと聞きたいこともあるでしょう。ですが申し訳ないけれど何も説明することはできないんです。」
「もし何か要望があれば、できる限りお答えいたしますが」
俺は一つだけ要望を出した。
「トイレに行くときに恥ずかしいので、せめて係を男性の方にしていただきたいんですが」
彼女は「わかりました。伝えておきます」とだけ言って部屋を後にした。俺は刑務官風の女に連れられて牢に戻った。
俺の中には一つの仮説があった。異星人は何らかの理由で女性にしか擬態できないのではないか?もしそれが正しければ、そしてここがまだ異星人たちのテリトリーだとすれば要望を出したところで男が出てくることはない。出てきたとしたら俺のように捕らわれた人間だ。もし普通に男が出てきたとすればここは人間の施設である。今まで女にしか会わなかったのは偶然で、マーサや美咲もまたメンインブラックのような組織にいる普通の人間かもしれない。
だが答え合わせの前に、三十分と経たずに俺は釈放されることになった。変な機械に入れられ口にホースを突っ込まれる。
目が覚めると今度は病院のベッドにいた。医者の説明では俺はひき逃げに合って一週間意識不明だったらしい。身元を特定できるものを持っておらず家族にも連絡できていないそうだ。病室に一人の時に不意に着信音が鳴った。音はベッド脇の台の引き出しから出ており、中にはスマホと財布が入っていた。スマホにはあの街で撮った写真や動画は一枚も残っていなかった。退院後ほかの病院で精密検査も受けてみたが、この手の話によくある脳にインプラントが…なんてこともなく異常は見られなかった。
もしかしたら全て悪い夢だったのかもしれない。そう思わないでもない。
だが美咲は消えた。その日以来失踪したのだ。警察は俺をひき逃げした奴が誘拐したのではないかと疑って事情聴取に来た。最初は適当にごまかそうかと考えたが余計に疑われそうだったのでありのままを話した。確かに交番からの通報が警察の記録に残っていたらしい。だが警官たちが到着したころには交番は無人だったそうだ。刑事たちは俺を疑っていたが釈然としない表情のまま帰っていった。
ここからはただの妄想に過ぎない。最も、今までの考えもほとんどはただの憶測だったが。
人間の場合、架空の町を作る理由は主に三つだ。ジオラマや住宅展示場のような自らの理想を形にするとき、あるいはドラマのセットを作るとき、そして訓練の場を作るとき。かつてソ連にはスパイを養成するためにアメリカの田舎町を再現したセットがあったそうだ。現代でも米軍は中東の街を基地内に作り、大量のエキストラを用いて訓練を行うらしい。核爆弾の効果を測定するために街を作ったこともあったそうだ。あの街が何のために作られたのか本当のところはわからない。地球侵攻の訓練場なのか、スパイを養成する為なのか、あるいはただのドラマのセットなのか。
あの街にいた女性たちもはたして全員が擬態だったのか。北朝鮮ではスパイの教育に拉致した韓国人や日本人を使っていたらしい。同じような役割の人間がいたかもしれないし、美咲も協力させられているだけかもしれない。
また、あの街には子供も老人もいなかった。擬態できる年齢に制限があるなら、少なくとも俺の知っている子供の頃の美咲は本物ということになる。異星人に入れ替わったとすればその後だ。だが、あの夜会った彼女が偽物であったとは信じられない。もし偽物だったとしたら本物の彼女は何処に行ってしまったのだろう?もし、奴らのスパイが既に地球に大量に潜伏していて、新たな人間としてではなく既にいる人間にどこかの段階で成り代わって、記憶までも引き継ぐことができるとしたら……想像するだけでも身震いする。
あれ以来青い異星人は見ていない。
だがあの日以来、俺は女性をよく観察するようになった。
街ゆく女の誰もが奴らの仲間かもしれない。すれ違う主婦が、取引先の営業が、電車で隣に立つ高校生が、誰もが怪しく見えこちらを監視しているようにさえ感じられる。
もはやどこにいてもあの街にいたときのような居心地の悪さを感じる。
真実を話しても誰も信じてはくれないだろう。だが吐き出さずにはいられなかった。オカルト掲示板に書き込み、オカルト雑誌に投書をした。だが河童と恋愛したとか前世がアトランティス人だとかいったほかの投稿者の話を信じる気にはなれなかった。奇妙な体験をしたと語る人が精神的に追い詰められて本当に狂人になってしまうというのも今では信じられる。
最近よくあの街の夢を見る。美咲と別れた最後の時の夢だ。
朦朧とする意識の中青い奴に抱えられて美咲から離されていく。彼女はこちらを見つめたままポケットに手を突っ込み、そしてブクブクと風船のように膨らんでいくのだ……。