30.私は、再び出会う
「随分上達されましたね。10日後、城での夜会への参加も問題ないでしょう」
「ありがとうございます」
私は、お礼の言葉とともに開いていた教本を閉じた。
『貴方は、とても印象に残る生徒でした』
講師の最後の言葉を廊下を歩きながらぼんやり思い返す。
「出来が悪かったという意味なのか。それとも良い意味なのか。笑いもせず上から目線で言われたってわかんないよ」
窓から見える青空とは違い私の心はずっと曇っていた。
意識を失い、目が覚めた場所は、歴史ある格式が高い家の屋敷だった。何故かわからないけど、いままで問題がなかった読み書きは全くできなくなっており会話が成り立たないという現実に私はショックを受けた。
違う、自分がまだしぶとく生きている事にガッカリした。
「私は、なにしてるんだかな」
優秀だという講師達をつけられ、今までにない努力のお陰で会話、所作は合格ラインまで到達し、陛下の誕生日のお祝いついでに私もお披露目参加する事になった。
不自由のない生活。
けれど。
「蝶々さん。私、けっこう頑張ったよ。でも…虚しいのは何でかな?」
与えられた豪華な自室で呟いても、それに答えてくれる黄色い光はない。
命を繋げてもらってから、約一年近く経過した。
だけど、私の心は取り残されたまま。
「あれからずっと私は、私の中は曇り空じゃなくて…濁っている」
* * *
「スノウ嬢」
一瞬間が空いたのは仕方がない。私の名前は柊からこの名前になってまだ数ヵ月だ。
「こんなに美しい花をヴァンフォーレ家で独占するとはね」
返事をする前に目の前の脂ぎった男はべらべらと勝手に話し出した。
「そういえば、ヴィトをお弾きになるとか。今日置かれている物は、歴史ある品ですので是非試されては如何でしょうか?」
手を握られそうになりなんとか逃げれば、そんな事を吐き出してきた。
「ダンノア家が誇る品でしてね」
ダンノア家といえば私がお世話になっている、ハッキリ言ってしまえば養子になったヴァンフォーレ家に劣る成り上がりの家だ。
だけどダンノア家は、経済面、輸入や輸出に長けているお金持ちの家であり、その交渉術は、なかなからしい。ああ、あと欠点は女好きだっけ。
「では、お耳汚しになるかと思いますが、私でよろしければ弾かせて下さい」
頭に叩き込んだ知識を稼働させ、敵に回さないほうがよいと私の脳は判断した。
それに顔は出したのだから一曲弾き慣れない場でとか適当に言って帰ろうと決めた私は、ダンスの為に呼ばれている奏者の方々に近づいた。
「ごめんなさい。少しだけお借りします」
素人がプロの方々の側で弾くなんて辛い。だけど、あのぶ厚い手でセクハラを受けるよりマシだ。
「椅子の高さは大丈夫でしょうか?」
「少し低いですが…ありがとうございます」
奏者の方々は、大声で話すダンノア家の男の声が聞こえてきていたのか、椅子の高さを変えてくれたりと皆さん優しい視線を送ってくれた。
白く色が塗られている鍵盤に驚いた。おしいな。半音部分も黒くしてくれたらピアノなのに。そんな感想を抱きながら手袋を外し鍵盤に触れた。
急に静まり返った室内に響く音。
私の選曲は場違いなものだった。
怒りと絶望の曲。
音はひたすら暗く激しい。
勢いだけで弾ききった私に待っていたのは、罵声でも、もちろん賛辞の言葉でもなく異様な静けさ。
原因は突然、陛下の前に進み出た人物のようだ。
「陛下、発言をお許しください」
「よい。申せ」
「先の褒美を下さるとの件ですが、スノウ・ラン・ヴァンフォーレ様との婚姻の許可を頂きたく」
陛下にとんでもない事を願い出た人物は、鮮やかな緋色のマントを纏った人物。
「よい。許可する」
冷え冷えとした深い水色の目は、いまや私を見ていた。
忘れたくても不可能な存在。
約一年ぶりに目にしたフランネルさんだった。