雨
「気をつけて帰るんだよ。最近、物騒な話が多いんだから。なんでも、隣のコバヤシさんところの娘さんが昨日の夜から行方不明らしいのよ。」
「大丈夫だって。それに、コバヤシさんの娘さん。ずいぶんハデな遊びをしてるらしいじゃない。いつものことなんじゃないの。じゃあね。」
心配性の祖母を軽くあしらい、私はそそくさと祖母の家を出た。今日は、7時までに工場へ行かなければならなかった。祖母の家から工場までは、信号に行く手を阻まれることが無ければ15分で着く。さっき、祖母の家の時計はちょうど6時を指していたから、きっと間に合うはずだ。私は、家の前に置いてあった鍵のかかっていない自転車にまたがり、全力でこぎ進めた。
夏の終わりを告げるように、外はまだ6時だというのに、もう薄暗くなっていた。空は濃い紫色に染まり、分厚い雲が2つ隣の街の方に、唸りながら鎮座していた。
工場の帰りに雨に降られるかもしれないな、そう思いながら妙に人通りの少ない、いつもより少し不気味な路地を通っていた。
路地は一本道で、道幅が狭く、両側には家が並んで建っていた。軒先に咲いてあるダリアやオミナエシを横目に、自転車を走らせた。
花を眺め、良い気持ちでいると後ろから大声が聞こえてきた。
「おい!そこの女!止まれ!」
誰かと思ったが、こんな狭く人通りのない路地にいる美しい女は私一人しかいないと、少し照れながら振り返った。
「なんで・・・」
なんでしょうか、と上品に振り返ろうとしたが、言葉よりも男の様子に気が向いてしまった。その男は、全身黒ずくめ、マスクにサングラス、果てには古典的な緑色の風呂敷を首に巻き、右手に包丁を持って私に向かってきた。
「俺の商売道具を勝手にくすねやがって!この人でなし!」
その様子でそんなことを言うのだから少しおかしかったが、右手に持っているものを見て笑っていられる状況でもないことを認識した。
「か、返します!返しますから落ち着いて!」
「落ち着けるわけないだろ!おかげでこっちは今日の晩飯は抜きなんだぞ!どうしてくれるんだ!」
「わ、わかりました!お金なら渡しますから!だから命だけは・・・!」
「分かればいいんだよ、ほらさっさと出せ。」
私は急いで財布から有り金を全て差し出した。
「ちっ・・・これだけかよ。まあいいや。
あ、そうそう。こんな人通りの少ない路地では気をつけろよ。最近物騒だからな。お前も聞いたことくらいはあるだろ。最近立て続けに女性だけが行方不明になっている。俺の見立てでは・・・その子達はもう、この世にはいないだろうな。
っと、もう行かねえと。じゃあな。くれぐれも気をつけろよ。」
そう怪しい男は私に言いつけると、鍵のついていない自転車に乗って帰って行った。
私は、力が抜けてしまいその場で腰が抜けて動けなくなってしまった。
案外優しそうな泥棒さんで助かった。きっと義賊か何かで、くすねたお金で貧しい人々を養っているのだろう。
警察に通報しようか迷ったが、止めておいた。
しばらく休憩して、また工場を目指した。時刻はもう7時であったが、どうしても行かなければならなかったので、雨が降る前に急いで向かった。
私は遊び疲れたあと、人通りの少なく道幅の狭い路地を一人とぼとぼ帰っていた。
みんなで廃工場に集まって肝試しをしたのだが、特に何も出ず、興醒めして一人雨に降られ帰っていた。
花が雨に打たれ激しく揺れ動いていた。
これだけの雨だ。走っても歩いても家に帰る頃にはずぶ濡れだろう。そんなことを思っている時、後ろの方でズコンッ!と鈍い音がした。鈍い音がした直後、目の前が大きく揺れて私は意識を失ってしまった。
目を覚ました。いや、もっと前に目は覚めていたのかもしれない。辺りは真っ暗で起きているのか眠っているのかさえ区別がつかなかった。体を起こそうとすると頭がすぐに、何かにつっかえて起き上がれなかった。手足もろくに動かせない。私はパニックになり、必死にもがいたが何も起こらなかった。ひとしきり泣いたあと、私はふと最近起こっている失踪事件のことが頭に浮かんだ。
私は事件に巻き込まれてしまったのだ。
後頭部の痛みとこの閉鎖された闇の空間からそう予測した。すると私は死ぬのかと思い絶望したその時、光がさした。
その時間、工場の正面入口には鍵がかかっているので、私は裏にまわり、塀をよじのぼって工場内に入った。工場は塀の中にあり、工場と塀の間には焼却炉や倉庫があり、柔らかい土と松の木や雑草が生えていた。
私は、予めしるしを付けておいた木の下を、倉庫の近くにあったシャベルで掘り始めた。掘り進めていくと、何かがシャベルに当たる音がしたので、その周りを丁寧に掘り、棺桶のような木箱を掘り起こした。
木箱は大体2mほどで、蓋の部分の周りには釘が無数に打ち付けられてあった。
助かった。と私は歓喜し、
「助けて!助けて!」
と暗闇を叩きながら大声で叫んだ。しかし、さっきまであったはずの人の気配は無くなってしまった。
不安が脳裏をよぎった。まさか、今掘り起こしてる人は・・・・・・・・・・・・・・・・。突然、暗闇に油の臭いが漂い始めた。
私は昨日の夜、木箱と一緒に用意していたガソリンを木箱に振り撒き、マッチに火をつけ落とした。
勢いよく燃える木箱から、コバヤシさんの娘さんの声が聞こえる。
「死にたくない!許して!助けて!」
何もしていないのに許してとはこれ如何に、と可笑しくなり失笑してしまった。
燃え上がる炎を見ながら、私はこれまで手にかけてきた女の子のことを思い返した。塾帰りに1人で帰っていた女の子、仕事帰りのOLさん、痴呆で恐らく1人で勝手に出てきたのであろう老婆。色々な方法で事を成しえたが、どれも全て最後は燃やした。あるものを綺麗に残すためだ。男は狙わなかった。反撃されたら抵抗できる自信がなかった。
しばらくして、木箱から声が聞こえなくなり、やがて灰になった。木箱をシャベルで崩し、中を見ると骨が少し黒ずんで佇んでいた。私は、白く美しい足の小指の骨だけ取り、ポケットに丁寧に入れた。
シャベルで木箱を乱暴に崩し、適当に土を被せ、帰路に着いた。
その日は結局、雨は降らなかった。