彼の者
次に自分を意識した時には、真っ白い空間の只中にいた。
気づいた時には別の世界に飛ばされていた。今の世界に飛ばされた時もこんな感じだった。もっとも、あの時は全身に電気が駆け巡るような衝撃があり、真っ白になったのは頭の中だった。今回は夢から覚める緩やかな倦怠感がある。
身に迫る危機感がためか、光来は呑気とも言える回想に気を取られた。
「………………」
不思議な場所だった。最初は目だけを動かし、その次は首を回らせた。前後左右も天地すらも真っ白で、果てが識別できない。
確かに自分の足で立っているのにフワフワと頼りない浮遊感もあり、心まで不安定になる。
自分の顔を手で覆ってみた。たしかにある。手の足も頭も胴体も、自分が自分であると認識するための部位は確実に存在しているのに、心許ない頼りなさも同時に混在し、進むための一歩を出していいのかも迷ってしまう。
モヤの中でさえ、地面に拡がった魔法陣と微かな陽光で方向感覚は失わなかったのに、ここは完全な『白』だ。きっと、自分の世界ともリムの世界とも違う、その狭間に存在するところで、人間が立ち入ってはいけない場所に違いない……。
光来は混乱に陥るまいと、辛うじて自我を保った。おそらく、なんの心構えもなかったら、あっという間に慌てふためき大声で叫んでいたことだろう。
慌てるな。接触したがっているのはむこうの方だ。慌てず待っていれば必ず……。
数分、数時間、もしかしたら数十時間かも知れない。世も界も曖昧なこの場所では、どれくらいの時が流れたのかも判然としない。空腹や便意すら感じないので、それらから割り出すこともできなかった。
今の自分は、精神だけの状態なのか……つまり、肉体は無事ということだ。身体の方はリムとシオンが守ってくれているはずだ。それさえ分かっていれば、恐れることはない。
目を閉じ、ひたすら待った。今できることは、己を見失わないよう自我をしっかり保つことだ。思考を停止した途端に、自分の核をなすものが溶けて流れていってしまう危うさが、ここにはある。
『ここまで来るとは……』
「っ!」
いきなり声が響いた。聞こえたのではない。直接脳内から湧き出たように感じた。
それまで不動心を貫いていたが、自分の精神に何者かに入り込まれた気がして、さすがにゾッとした。しかし、辛うじて冷静な態度を装い、焦る気持ちを気取られないように努めた。
「ああ、来てやったぞ。俺にご執心みたいだったからな」
『稀有な……まったく稀有な存在よ。我の扉を利用して、世界を渡り歩くとは……。いったい、なぜそのように利用しようと思い至ったのか……』
民話を聞かせるような抑揚のない言い方は、聞く者にしてみれば背景音楽同様、いつの間にか引き込まれ眩暈を誘う。だが、内容は眩みを吹き飛ばすほど鮮烈だった。
脳内から湧き出る語り部の言葉に、光来はとんでもない考え違いをしていたことに気づいた。自分だけではない。タバサもグニーエさえも、全然見当外れな思い込みをしていたのだ。
『黄昏に沈んだ街』は、異世界への扉を開く魔法などではない。正体不明のこいつの封印を解く魔法なのだ。別の世界に移れたのは、穿たれた扉に飛び込み違う穴から抜け出した、言わば偶然の結果でしかなかったのだ。
望郷の思いに身を焦がしたグニーエは、考え違いから魔法を発動させ、制御しきれずに街を消滅させた。しかし、不完全であったがゆえ、街一つの被害で治まった……。
「……おまえはいったいなんだ?」
『我は我よ。この世の始まりから存在し、おそらく、この世の終わりまでなくならない存在……』
「おまえは『彼の者』と呼ばれている者か?」
「そのように呼ぶ者もいるようだが、呼び方なぞ我にはなんの意味も為さない」
「おまえの目的はなんだ?」
『分からぬよ。しかし、突き詰めれば、おまえら人だってなにゆえ存在している? なにを目的に生きているのか説明できるか?』
「……人にはそれぞれ掲げているものがある。栄光が欲しいとか、権力がほしいとか、金とか愛とか……」
『我を相手に、ずいぶんと俗物的なことを言う。人間なんて生きてもせいぜい百年にも満たない。しかも、世代交代してもいずれは必ず滅びる。そんな滅びが約束された存在に目的なぞ問うか? 我が言っているのはそういうことよ』
遠大なスケールまで拡大された対話に、光来は言葉が紡げなくなった。
大局的に物事を考えると言っても、十七年しか生きていない少年には限界があるし、そもそも人類滅亡の時までをも視野に入れて生きている者など、どれほどいるというのか……。
『クッ』
正体不明が吐き出した。たった一声。感情などあるのかさえ分からないが、光来には嘲笑が含まれているように聞こえた。
『強いて言うなら、我の目的は存在し続けることよ。そのために、これまで数え切れないほどの世界を喰ろうてきた。我がなんであるのか自分でも説明できぬが、在り続けるためにはエネルギーが必要なのでな。人間は、いや、この世のすべては我が得るべき糧に過ぎない。もっとも、漠然とではあるが我の存在を感知し、我の持つ力を利用してエネルギーに変換する世界もあるがな』
それが魔法……。リムたちの世界ではそれを扱う技術が発達し、俺の世界にはそれがなかった。いや、世界各国に残る伝説や伝承から推察すると、かつては俺の世界にも魔法は実在したのかも知れない。しかし、あまりにも微弱な力だったので、発達した科学に駆逐され、いつしかおとぎ話の中だけの存在になったのか。
『さて、お喋りはここまでとしよう。おまえがこんな場所にまで来たのには、それこそ目的とやらがあるからではないか?』
どのように話を持っていこうかと考えあぐねていたところに、むこうから水を差し向けてきた。こいつに遠回しな言い方など通用しない。
光来は正面突破を試みた。
「……食事、と言えばいいのか? エネルギーの摂取をやめてもらいたい」
自分で言っておきながら、食事というという言葉に嫌悪した。プランクトンを餌とするヒゲクジラが海水ごと他の生物ごと丸飲みにするが如く所業は、される側からすれば生命の蹂躙だ。
『それはできない。言ったであろう。存在することこそ我が目的。エネルギーの摂取は必須よ』
「たくさんの人たちが生命を落としている。跡形もなくなっているんだぞ」
『関係ない。おまえは獣や鳥の命が奪われるから喰うのを止めろと言われて止めるのか? 代わりにお前が飢えろと言われて納得するか?』
「人は獣や鳥とは違うっ」
『違わぬよ。猿に理性と知恵を付けただけの下等な生物だ。いや、その二つを携えながら、いつまでもくだらん争いや腹の探り合いをする愚かしさを考えれば、猿の方がましかも知れぬ』
光来はぐっと詰まった。人間を食用の動物や猿に例えられたのは不愉快だが、こいつからすればその程度の倫理観しか持てない相手ということだ。あまりにも大きすぎる存在で人間の考える善悪の基準など当てはまらないのだ。
『彼の者』……ひょっとして、俺の世界では『神』と呼ばれる者なのか?
「……代わりに俺の魔力をくれてやる。それならどうだ」
『我に取引を持ち掛けるか。しかし、取引とは互いにメリットがあって成立するもの。おまえを取り込むことはすでに決定済みよ。おまえの提案は却下だ』
「きさまっ」
『おまえとの邂逅、なかなか楽しかったぞ』
「うっ?」
光来の全身にツンとした痺れが走った。しかしそれは一瞬のことで、治まると今度は四肢の感覚が徐々に薄れていった。
ゾワッと鳥肌が立つ。
「す、吸い取られているのか?」
指先がなくなり、掌が消え、腕が認識できなくなった。感覚がなくなっていく範囲が徐々に上ってくる。このまま頭まで到達したら、自我を保てなくなるのではないか?
「うおおおおおおっ!」
光来は抗い叫んだ。声が出ているのかどうかさえ分からなかったが、喉が裂けんばかりに声を張り上げた。
『無駄よ。ここは我の世界。ここに入り込んだ時点で、おまえの運命は決まっていたのよ』
「おおおおおおおおっ!」
光来は、それでも抗い続けた。
両親の、リムの、シオンの、ズィービッシュの顔が次々と浮かぶ。
この世界に飛ばされた時のこと、リムとの出会い、シオンとズィービッシュが仲間に加わり続けた旅。そして現れたタバサと旅の目的だったグニーエとの対決。
『ほう。これは素晴らしい。これほどの魔力を持っているとは。なるほど、これなら我の力を強大なエネルギーに変換できるわけだ』
頭が白くなる。意識が飛びそうになる。このままではまずい。
もうあるのかどうかも自覚できない腕を目一杯伸ばし、わずかに残っている意思を掻き集めた。いつも魔法を精製する時のように、集中してイメージした。
浮かぶのは、この世界そのものを破壊するツェアシュテールングだ。
『…がう……』
ふいに光来の集中を邪魔する声が響いた。これまで脳内に湧き出ていた声とは違う。互いに触れられそうな声だ。
なんだ?
『違う。それでは、魔そのものであるこいつには絶対に勝てない』
聞き覚えがある声。しかも、つい最近だ。それなのに胸が切なくなる懐かしさも同居している。 誰だ? この声の主は誰だったか……?
『魔法を……この魔法を完成させるのだ。転移しろ。おまえが今まで暮らしていた世界に帰れ。おまえがくぐり抜ければ、扉は閉じる。こいつを閉じ込めるんだ。おまえにしかできない』
光来は、誰かも分からない声に反論した
「だけど、転移は偶然の結果だ。上手くいくかは運次第だ」
『できる。おまえなら必ずできる。こいつは、『彼の者』はその者の描くイメージに敏感に反応する』
『驚いた。思念だけが留まっているとは。完全に魂が浄化する前に我に取り込まれたからなのか……。まったく、今日は稀なる愉快な日だ』
彼の者が再び光来の中に湧き出た。
『会話の途中で割り込ませてもらう。我を閉じ込めるか。それは不可能な話よ。方法を示しても、実行する術がない。おまえはすでに我に取り込まれているのだ』
やはり、その声には嘲りが混じっていた。絶対的な実力を持つ者だけが出せる余裕だ。しかし、光来にはその嘲りをかわす余裕があった。
「……何百年、いや何千年彷徨っているのか知らないが、人を見る目は養われていないようだな」
『なんだと? どういう意味だ?』
「そのまんまさ。外にいる二人が、死にそうになっている俺を黙って見ているとでも?」
『???』
「たとえこっちの世界に来ていようが、肉体は外に置いてきてるんだ。さっき魔法を精製しようとした時、俺の肉体も反応したはずだ。俺の愛銃もおまえと一緒で俺の魔力が大好物なんだ。それを見ている二人が、なにもしないと思うか?」
体のほとんどの感覚がなくなりかけていたが、自分は今たしかに笑っているということははっきり自覚できた。




