真相
板切れのような頼りない扉が目一杯開かれたため、魔法陣は真裏を向いて見えなくなった。しかし、滲んだ光がまだ魔法が散らずに保たれたままであることを示していた。
「グニーエェ……」
復讐鬼と化したゼクテが入ってきた。月明かりに照らされて全身が陰になっているが、目から放たれる光は、水面に映る篝火の如く怪しく揺らめいていた。
グニーエは心底慄いた。
とっさに銃を取り出した。これまで幾度となく魔法を使用してきたが、弾丸に定着させた魔法は滅多に使わず、発砲した経験もほとんどない。ましてや人に向けたことなど皆無だった。 息子を抱きしめているにも関わらず、ガタガタと身体が震えた。父親としてみっともない姿を見せられないとか、威厳を保たなければならないといった考えなど、微塵も浮かべられなかった。
「なぜだ。なぜ、あんなことをしたぁ?」
悪魔に尋問されている心地だった。グニーエは喉が詰まり、歯が噛み合わず、上手く喋ることもままならなかった。それでも、生き物の持つ防衛本能が、自らを守るべく必死の弁護を始めた。
「あ、あ、あんなことになるとは思わなかった。す、すまない。あれは……、事故だった。事故だったんだ」
ゼクテはいきなり一撃弾いた。
「ひいっ!」
弾丸はグニーエの背後の壁を貫き、瞬時に氷を張った。
狙いをつけて撃ったわけではないようだが、当たってそのまま死んでも構わないといった射撃だった。
「事故だと? どんな魔法を使えば、あれほどの大惨事を引き起こすというのだっ!」
「ゼクテ……。ワタシは、自分の世界に帰りたかったんだ。ただそれだけだったんだ」
「っ?」
ゼクテの声が詰まった。追い打ちの怒号を浴びせようとしたが、いきなり意味の分からないことを言われて、言葉が迷子になってしまった。
「ワタシはずっと考えていた。この世界に飛ばされた意味を。ずっと探していた。帰る手段を。それを可能にする魔法を見つけたんだ」
「……さっきからなにを言っているのだ? うやむやにして罪を逃れようとでも言うのか?」
「ここでの生活は充実していた。おまえと出会い、妻を娶り、息子までもうけた。しかし、それでも、ここはワタシの世界ではないんだ」
「きさまっ! わけの分からないことを言うなっ! おまえは妻を、街の人たちを殺したんだぞっ!」
「ワタシも妻を失ったっ! すべてはワタシの望郷の思いが招いたことだ。取り返しのつかないことをした……。罰は受ける。だが、この子は、息子には手を出さないでくれ」
グニーエは、目を真っ赤に腫らした息子を、力いっぱい抱きしめた。
ゼクテは、そんな必死のグニーエの姿にすら憎悪を燃やした。フロイはもう、リムを抱いてやることさえできない……。
「黙れっ! おまえの戯言はたくさんだっ! 罰を受けると言ったな。俺が下してやる。おまえら親子は極刑だっ!」
「やめろ……」
ゼクテは銃口を向けた。グニーエを狙っているのか、それとも息子の方なのか、判断ができない角度だった。
ゼクテの形相が歪み、指先に力が込められた。
「やめろおおぉぉっ‼」
グニーエの絶叫と共に、扉が黄金に輝いた。
「なにっ?」
ゼクテは肩越しに背後の様子を窺った。その時にはすでに、扉の光は眩いばかりにまで拡大していた。
「これは……」
ゼクテは驚愕したが、それはグニーエも同様だった。不発と思われた魔法が『彼の者』の力を得て、発動し始めたのだ。
「この魔法は?」
ゼクテは、初めて見る魔法陣の模様に戸惑った。どんな効果を発揮するのか分からなければ、対処のしようがない。
しかし、その眩しい輝きはけっして神々しくはなく、精神を掻き乱す不吉さをまとっていた。
「まさかっ⁉ この魔法はっ! グニーエッ! まさか、きさまっ」
魔法の正体を知る術などなかったが、その効果を想像することはできた。
ゼクテは、グニーエのあまりにも無謀な行動を呪い叫んだ。
「きさまはこの世に生まれるべきではなかったっ! 地獄に堕ちろっ‼」
「うわああああっ!」
グニーエは無我夢中で引鉄を引いた。
恐怖。混乱。焦燥。後悔。そして、この魔法という力が存在する世界。あらゆる束縛から逃れたいがための発砲であり、それ以外の目的は一切含まれていなかった。
「がぶっ!」
「あ?」
盲撃ちの一発が、ゼクテの喉を切り裂いた。シュナイデンの刃が発動し、ゼクテの動脈をスッパリと切り裂いたのだ。普段は、調査に赴く際に森林の枝葉を切り落とすために込めていた弾丸だった。
「おおお……」
ゼクテは鮮血を撒き散らし、その場に崩れ落ちた。
「ゼクテ……。ゼクテッ!」
グニーエは、息子を抱いたままゼクテに駆け寄ろうとした。その時、拡がり続けていた黄金の魔法陣が一気に拡大した。
「お父さんっ!」
「ツバサッ! 離すなっ! ツバサァッ!」
増し続けた輝きは色彩を失くし、ついには室内全体を真っ白く染めた。
グニーエとその息子は、白い光に飲み込まれた。
夜の森は、ただそれだけで不安な感覚に襲われる。いきなり野生の獣に襲われるとか、迷い込んでしまうとかではない。森そのものが巨大な魔物と化して、立ち入った者を飲み込んでしまう錯覚に陥らせるのだ。
バナースタ・ハンスは息を切らしながら、ランタンの頼りない炎と月明かりだけを頼りに、森の中を進んでいた。
夜の森の行進は、老境に差し掛かった者にはきつかった。すでに身体が重たく感じて、呼吸も口を開けっ放しにして酸素を取り込んでいる。まるで陸に上げられた魚だ。
ゼクテには馬車で待っていろと言われた。話をつけるだけだから、ここで待機していろと。
しかし、あれは話だけで済む雰囲気ではなかった。
ゼクテの姿が森に消えてから、バナースタの落ち着きも森に吸い込まれてしまった。忙しなく身体を揺すったり、意味もなく耳や鼻を擦ったり、品のない動作で時間を潰した。
いてもたってもいられなくなり、ついに馬車を降りてゼクテの後を追った。老婆心が働いたわけではないが、ただじっとしているなどできなかった。
不吉な予感は脳内をはみ出し、身体まで蝕み始めている。普段なら絶対に足を踏み入れない夜の森に、自らを飲み込まれた。
しばらく足を絡め取る暗闇に悪戦苦闘していると、遠くから銃声が聞こえた。森の中を駆け抜けてバナースタの耳に届いたのでくぐもって聞こえたが、間違いなく銃声だった。
「あれはっ」
森を抜け岩肌が剥き出しになった高台に、子供を抱えた男が見えた。月明かりに照らされてぼやけて見える。
青白く浮かんだ姿は、疲労困憊を無理やり捻じ伏せて進んでいるのが離れていても分かり、追い詰められていることを物語っていた。しかも、グニーエはケガをしているようだ。
「ゼクテさんは、子供と一緒の男を追っているのか?」
グニーエ親子は、半分ほどが岩盤に埋め込まれた小屋に逃げ込んだ。視線を巡らせると、グニーエが逃げてきた方向にゼクテの姿が確認できた。
その姿に、バナースタは背筋を凍らされた。ゼクテは血塗れで、拳銃をしっかりと握っていた。その凄まじい形相と相まって、バナースタには地獄から這い上がってきた悪鬼に映った。
ゼクテは、二人が逃げ込んだ小屋の近くまで迫っていた。
バナースタは、嫌な予感が的中してしまったと思った。ゼクテが馬車を降りた時の形相。あれはすでに人間のものではなかった。話し合いだけで決着するはずなどなかったのだ。なにしろ、ゼクテが追っていったのは、先日の大惨事に関係している者らしい。名前はたしか、グニーエ・ハルトといった。一介の人間がどのように関係しているのかなど、バナースタには知りようもなかったが、ゼクテを単身で行かせたことを、今更ながらに後悔した。
あれは天災によるもので、避けようのない運命だった……。いったい、なにをどう考えたら、一人の男を追い詰める結論に至るのだ? まさか、ゼクテさんはあの親子を殺すつもりじゃ……。
バナースタは、漠然と浮かんだ自分の考えに戦慄し、ゼクテが小屋に入り込んだのを見届けた時には、グニーエ親子の無事を祈った。
痛む脚、苦しい呼吸を押さえつけて、バナースタは森の中を急いだ。
なんの前ぶれもなく、視野の端に光を捉えた。
「む、なんだ?」
枝葉に遮られて分断されているが、闇夜を裂く強烈な光だった。思わず立ち止まり、手をかざして目を細めなければならなかった。これほど凄まじい光は、太陽以外に見たことがない。
光はどんどん拡がり、森の中にも木々な草葉の複雑な影を落とした。
「う、うおぁぁ」
バナースタは、なにが起きてるのか分からない不安と、際限なく拡がる光に対する恐怖で呻き声を上げた。
光そのものに物質的な力が含まれているかの如く、風が巻き起こり、土塊や葉が雨のように横から降り注いだ。森は静かな眠りから強引に起こされ、狂い鳴いた。
もしかして、この世の終わりなのか?
そう観念してしまうほど、 バナースタにとっては凄まじい体験だった。
目は見ることを諦め、耳は聞くことを放棄した。なにもかもが混ざり合い濁って、もう死ぬのかとうずくまった。
「…………」
ほんの数秒の出来事だった。しかし、バナースタにはその何倍もの時間が経過したように感じられた。
身体を突き刺し通り過ぎていった風が治まっていることに気づいた。
固く結んでいた目を、恐る恐る開いた。
森の中は、ハリケーンが通り過ぎたみたく静寂に満たされていた。先程まで喧しく喚いていた木々は再び眠りに就き、虫や動物は一帯から姿をくらましたようだ。
バナースタは立ち上がり、小屋へと急いだ。
いったい、今の現象はなんだったのか。グニーエ親子は無事なのか。そして、ゼクテはどうなったのかを確認しなくてはならない。
あっという間に息が切れたが、真相を見届けなければならないという義務感にも似た感情が、バナースタを動かした。
やっとのことで小屋の前まで来たものの、入るのに躊躇した。小屋の中は不気味なほど静まり返っており、微かな気配すら感じ取れなかった。
いったい、なにが……?
肝試しで次の角が曲がれない子供のような心境で、バナースタは首だけを伸ばして内部を伺った。
「ああ……、なんてこった」
バナースタの両目に飛び込んできたのは、血塗れで壁を背に座っているゼクテだった。
寄り掛かっているうちに眠ってしまったような姿勢だったが、すでに事切れているのは一目瞭然だった。
しばらく呆然とゼクテの亡骸を凝視して、はっと我に返った。
「グニーエは? 彼と彼が抱いていた子供はどこに行った?」
自分のような初老の男に無茶な真似はしないと思うが、ゼクテに追い詰められた彼らがパニックに陥って、いきなり襲い掛かってくる可能性は否めなかった。
バナースタは、用心深く小屋の奥へと身を滑り込ませた。
外見からも察することができたが、広さはそれほどでもない、というよりも狭かった。
奥の方は岸壁を利用した壁となっており、スペースの半分は、岩盤をくり抜いた空間をそのまま使っている格好だった。
床も硬い地面が露出しており、地下室の存在など皆無であることは明白だった。つまり、この小屋に出入りするには、自分がたった今潜った扉以外にはないということだ。グニーエ親子が室内にいないなんて、絶対におかしい。
光が溢れた時に、素早く脱出したのだろうか。しかし、バナースタは頭に浮かんだ推測を即座に打ち消した。あれほど離れていた自分でさえ、目が眩み動けなかったのだ。ましてや光源にいた彼らに、そんな離れ業ができたとは到底思えない。
バナースタは、青ざめて背後を振り返った。何者かに誘導されるかのように、開けっ放しの扉を閉じた。
「これは……」
扉には、魔法陣が焼き付いていた。魔法に縁のない人生を送ってきたバナースタには分からなかったが、それは手練の魔法使いでも見たことがないであろう紋様だった。
「……いったい、ここでなにが起こったんだ?」
ゼクテの、無念が刻み込まれた死に顔を見下ろして、バナースタはつぶやいた。