アネット
たつ―まき【竜巻】(その形が、想像上の動物の竜が天空に昇る様に似ているのでいう)空気の細長い強い 渦巻きの一種。積乱雲の底から漏斗状の雲が下垂し、海面または地上に達する。風速は毎秒百メートルをこえることもあり、海水・漁船・砂塵・家畜。人畜などを空中に巻き上げ、被害を与える。
広辞苑 第三版
約3時間のドライブ。
渋滞もなく、急な工事もなく、事故もなければ、目的地に着くのは、午前9時頃になるだろうと、彼は言った。
僕は、朝5時に起き、集合場所のコンビニに向かった。空は目覚めたばかりで、すこし機嫌が悪そうだ。コンビニで、愛想の悪い店員から、缶コーヒーを買い、外で彼が来るのを待つ。
春が近づいてきたとはいえ、早朝はまだ肌寒い。駐車場には、一台も車は止まっておらず、ガランとしていて、静かだ。
ネコが我が物顔で車のいない駐車場を横切っていく。僕の方をチラッと見て、けだるそうにニャーと鳴いた。そして、急に機敏に走り出した。
彼の車が、やってきたのだ。
彼の車は、親から譲り受けたという渋いエンジのスカイラインだ。車を前向きに止め、彼は降りてきて、指でコンビニの方を指さした。僕は、了解とうなずく。彼は、なぜか車を後ろ向きに止めることを嫌った。
後ろ向きに止めないといけない駐車場があると、わざわざ違う駐車場を探して、そこに前向きに止めた。僕は、その理由を聞いたことはない。
しばらくして、彼がコンビニから出てきた。彼がいつも飲むブラックコーヒーといつも吸うたばこを持って。
助手席に僕は乗り込み、ドリンクホルダーにさっき買った缶コーヒーを入れる。彼は、グローブボックスを探り、一枚のCDを取り出し、プレーヤーに入れた。
静かな朝にはふさわしくない激しいギターのソロが始まる。そのCDは1980年代にデビューしたアメリカのとあるバンドで、当時、このアルバムは全く売れなかったらしい。それが彼のお気に入りだった。僕は、このアルバムを彼の車の中で飽きるほど聞いた。
彼はこのバンドを「綺麗じゃないが綺麗なんだ」と独特の表現で褒めた。
車は、順調に、朝の空いている道路を走っていく。もう少しすると、通勤・通学の車やバスで混むらしい。
都会が慌ただしさを取り戻す前に、僕らは海へと向かう計画だった。
このまま行けば計画通り、うまくいきそうだ。僕は助手席で、人の少ない通りをぼっーと見ていた。
カラスにゴミが荒らされた歩道を、サラリーマンや女子高生が眠そうに歩いている。灰色のビルの群れが、さびしそうに佇み、その下を自転車が通っていく。
いつもは見ることのない風景を僕は、ずっと見ていられると思った。
「何か珍しいことでもあったか」
彼は、聞いた。
「珍しくはないけど、ほとんどの人は朝に起きてどこかに行くんだなと思って」
「確かに。そんなことはあまり意識しないし、俺らには関係ないことだしな」
「そうそう。みんな偉いね」
「偉い、偉い」
彼は、笑った。
「僕らは、彼らから見たら、怠け者かな」
「彼らって、つまりちゃんと働いている人のことか?」
「そう」
「だろうな。常識的にはそうだろうな」
「やっぱ、そうか」
「なんだ、嫌になったか?」
「いや、そんなことはないよ。ただ、どう思うか気になっただけ」
1時間も走ると、徐々に車の数も増えてきて、歩道も通勤、通学の人が多くなった。でも、朝、いちばん混むと言われている道路は、抜けていたので、僕らは気が楽だった。
「あの橋を越えれば、もう海だ」
「これだと、三十分ぐらい早めに着きそうだね」
「あぁ」
車内は、アルバムの曲を1度、全部流し終え、2周目に入っていた。僕らは、彼らの曲を、この地球上で一番聞いているに人間に違いない。それもアメリカではなく、遠い日本で。
橋の上で車は、前の車が減速して止まったのに次いで、止まった。
「なんだ、あれ」
彼が、驚きの声を上げた。
「何?」
彼は驚きの表情で、僕が座っている助手席の窓の向こうを見ていた。僕は彼の目線を追った。
土手にある野球場の真ん中に、竜巻が起こっていた。
僕らは、初めて見た竜巻にしばらく興奮して、見惚れていた。野球場には、人はおらず、竜巻は砂埃をあげながら、僕らがいる橋の方へ向かってきていた。
橋の向こうから自転車を乗って来た大学生らしき男が、自転車を欄干に立て掛け、スマホを取り出し、動画を取り始めた。
僕がその大学生に気を取られていると、急に、後ろからクラクションが2回鳴らされた。僕らはそのときようやく、前の車がずいぶん先に進んでいることに気付いた。
彼は、急いでアクセルを踏み、視線を前へ向けた。僕は、竜巻が見えなくなるまで目で追った。
「すごかったな」
彼は、興奮気味に言った。
「すごかった」
「竜巻なんて、目撃する確率結構低いんじゃないか?」
「どうなんだろう?低そうではあるよね」
「宝くじで、一等を取るぐらい低いかな」
「それよりは、高いんじゃない?いや、わかんないけど」
「竜巻って、急にできて、すぐになくなるんだよな」
「うん。存在している時間は短い」
「どんなものでも巻き上げるんだよな」
「やつにできないことはない」
「もしさ、この車が巻き上げられたら、どうなってたかな」
「やばいことになってたよ」
「うまい具合に、どっかに飛ばしてくれないかな」
「どこに?」
「例えば、アメリカとかに」
「なんでアメリカ?」
「どこでもいいんだけど。ここ以外のどこか」
「でも、そうなったら、すごいね。一躍、僕ら時の人だ」
「時の人か・・・」
「どうした?」
「うん?どうもしないよ」
彼は、遠くを見るような目つきだった。
「名前を付けない?」
僕は言った。
「名前?」
「そう。ほら、アメリカってさ、ハリケーンに名前をつけるじゃん」
「カトリーヌとか」
「それ。僕らもあの竜巻に名前をつけよう」
「いいかもな」
「どういう名前にしようか。日本名だとなんか違うよね」
「かおりとかあきこ」
「感じが出ないね」
「アネットは?」
「アネット?」
「俺がいつも聞いているこのアルバムあるだろう。そのボーカルの奥さんの名前」
「そうなんだ」
「これは、そのアネットに捧げたアルバムなんだ」
「へぇ、初耳」
「売れなかったけどな。でも、次の作品はものすごいヒットを飛ばしたんだ」
僕は、洋楽に疎く、その情報は初めて聞いた。まったく売れないバンドかと思っていたが、そうではないらしい。
「つまり、これは彼女のためだけに作られたといっても過言ではない。俺は、勝手にそう思っている。最初からヒットを狙っていなかったかもしれないとも思ったよ」
彼は、熱を込めて語った。
「いろんな人を巻き込んで、ヒットを狙わないって、相当怒られたろうね、周りに」
「かもな。けど、すごいと思わないか。壮大というか、痛快というか。俺、実際、会ったら友達になれる自信がある」
「そういうところが好きなんだ?」
「まぁな。売れる、売れないに関わらず、誰かの心にずっと残るって・・・きれいごとかもしれないけど、俺はそっちの方がいいと思うんだよな。だからアネット」
「アネットにしよう。それがいい。」
僕は、賛成した。断る理由もなかった。
窓を開けると、海のにおいがしてくる。海に続く道には、僕らの車しか走っていない。
日差しが厚い雲のすき間から、差してきた。僕らは、まぶしくて目を細めた。