揺れる金天秤:帝国領 第五幕 聖女召喚 4 「告白」
夏の社交シーズン。 夜会で、御茶会で話される話題は、アナトリーとアルフレッドの婚約についての話が飛び交っていた。 ハンネもピンガノも当然の様に受け止めている。 アナトリーには彼らの気持ちについては痛いほどわかるが、今では無いと心が叫んでいる。
去年の社交シーズンから続く流れの中に、アナトリーは不可解な力が働いていると感じていた。 やっと北での戦いが収束し、続々と兵士たちが帰還している事実は変わりない。 戦線の崩壊に繋がったセルシオの行動は王太子の身分を剥奪され、一庶民に落とされた事で決着していた。 彼の仲間達も十分な制裁を受けている。
合従連合軍に参加していた各種族に対して蟠りもあるが、人族が主導し、人族が成した行為の為、弾劾するには至っていない。 それどころか、彼らの国力を大きく低下させている現状から、人族への風当たりも強い。外交的には非常にマズイと言ってよかった。 キノドンダス家が治めるノルトガルズ公国は西の獣人族の国々と国境を接し、交易も行っている。 内務大臣が獣人族との交渉に危機感を覚えていると、父エドアルド王の話にもあった。
帝国は危機的状態にある
アナトリーの心の内に憔悴感が募る。 さらに、不可解な動きが其処に加わる。 「教会」が聖堂騎士を増強しているのだ。 第二軍はほぼ反応していないが、第一軍のかなりの騎士がその話に乗っていると云うのだ。乗り気なのは、帝都防衛の任に当たっていた皇帝の直属近衛騎士達と、その係累。 教会は戦闘が収束した今こそ、魔人族が疲弊しきっていると主張し、聖堂騎士団を主力として北へ再侵攻しようとしていた。
「なんと無益な・・・」
アナトリーの心はその一言に尽きている。 辺境とも云える国で生まれ育った彼女には魔人族との間にある種の呼吸と言うべき感覚があった。 ミトロージア大陸に生まれし者であるならば、誰しも持っていると思っていた感覚。
魔人族との間合いを見つつ、深い峡谷に渡された細いラインの上を踊るダンスのような、何時バランスを崩し細いラインから落ちてしまうかもしれない恐怖感。 彼女は生まれながらにその感覚だけは確かだった。十二歳に成るまで、父王と話し合った時間の中で培ったこの感覚は、彼女の第二の本能ともいえる。
しかし、この帝都では全く違った。 この感覚を共有できるものは居なかった。 唯一マニューエだけが判っている感じがしていた。 しかし、立場上彼女との頻繁な交流は出来なかった。 とても、悔しかった。ルルの軽やかな動きが羨ましかった。自分が動けば波風が立つ。 その思いが彼女の動きを重いものにしていた。 其処にこの婚約話である。
”これ以上、私に錘をつけてどうするつもりでしょうか?”
偽らざる彼女の気持ちだった。 そして、夜会や御茶会で話される話題で、マニューエが聖女候補に選定され、聖女召喚の依代にされると云う話。 この話を聞いた瞬間に、彼女の頭の中のパズルが組みあがった。 今次大戦を陰から糸を引き、周辺国からの不審を受けさせたもの。 何もかも投げ捨てるような動き。 人族を道具の様に扱う様 ・・・森のエルフ族 そして、彼らの信奉する「神」とその教義。
動き始めている事態に恐怖が乗る。 あまりにも無力な自分。 判っていても止められない。 深く長い策謀が動き始め、奔流となる一歩手前。 もう、なりふりは構っていられなくなった。 アナトリーは一つの結論に達した。 ”止めなければ帝国は滅ぶと”
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夜半、 月の光がぼんやりと差す中、学園寮の端の端。 マニューエの部屋の扉が開いて、静かに閉じた。
「こんばんは、お久しぶりですね、アナトリー様。 お珍しいですね。 アナトリー様がこの部屋においでに成るなんて」
月の光の中に立つマニューエを見たアナトリーは、其処に別人を見た思いだった。 凛とした表情、白磁の肌、なにより、真っ直ぐに見つめて来る視線。
「ごきげんよう。マニューエ、あなたに”お話”が有ります・・・」
「お話は大体想像が付きます。 聖女召喚の件ですよね」
マニューエはたっぷりと入るコップに一杯の良い香りを放つお茶を差し出しながら切り出した。
「ええ、その通り。 貴方が聖女になると、帝国は滅びます。 だから、私は止めに来ました」
「・・・」
マニューエはアナトリーに椅子を勧め、自分もまたテーブルに付いた。 静かな時間が流れる。
「アナトリー様・・・私はココで止まるわけにはいかないのです。 確かにアナトリー様の御懸念は判りますが、事態はそれよりも深刻です」
「???」
「私が聖女召喚の儀に出なければ、新たな聖女候補がたてられ、力なき聖女が生み出されます。 それは・・・多分、二年から三年後ですね。そして、世界は崩壊する」
「???」
「人族の中に”神”を信奉する者達が増大し、精霊が軽んじられます。 そうなればもう、誰も止められません。 帝国が、人族がと云う話では無く、世界が混沌に飲み込まれていくでしょう。 この世界に生きとし生けるものが住まう場所を失い、同族で殺し合い、魂は汚され天にも地にも帰れず、混沌に飲み込まれて、無に帰します」
「あ、貴女は・・・」
「お話出来ませんでした。 私のマスターから極力秘匿するようにと言われておりましたので。 ただ、一つ、その誓約の適用がされない状況・・・私の歩みを止める者が居れば伝えるようにと言われた事が有ります」
「な、何でしょうか・・・」
超然とアナトリーを見るマニューエ。 其れまで見知っていた彼女とは全く異質の、威厳に満ちたその姿。 月の光がマニューエを浮かび上がらせている。すっと息を吸い、愛らしい口元から流れ出て来るマニューエの言葉。 アナトリーが圧倒されながらも彼女の言葉に耳を傾けた。
「私の師の一人は、ファオシュニーオ=プロショポル 龍族の片王にして、最高魔術師 そして、もう一方は荷運び人”ポーター” 精霊魔法導師 です。 私は、ポーター様をマスターと仰ぐあの方の奴隷ですよ」
そう言って、マニューエは襟を寛げ、左胸にある奴隷印を少しアナトリーに見せた。 息をのむアナトリー。 彼女は奴隷の存在を書物の中でしか知らない。その存在がどれ程不潔で汚濁に満ちた物か、知らぬわけでも無い。 自分がそんな境遇に落ちるならば、その前に死を選ぶ。 しかし、マニューエは誇らしげにその証と言うべき奴隷印をアナトリーに見せた。 驚愕が彼女を包む。そんな彼女を見ながら、マニューエは続ける。
「師匠たちの元で学び、導いて貰えたのは、私に使命が下されたから。 私は”光の精霊神様”の、御意思の運び手。 この世界の均衡を護る為の光の分銅です」
「ま、マニューエ・・・貴女は・・・」
「最後に一つ。 本来は言うべきでは無い事です。 ですが、もう戻れなくなってしまうかもしれませんから・・・この奴隷印に封印した父から頂いた名前を貴方にお返しします」
「・・・」
「我が名は、フェガリ=アポストル=キノドンダス。 ノルドガルズ公国第二王女にして、光亡き月の王女ネアセリニ。 この名はもう必要のない名前です。 アナトリー、貴女から父上にお返しください。 フェガリは月の光に成ったと。以降忘れてもらって構わないと。宜しいですね」
「フェ・・・フェガリ? その名前は・・・北の静謐からいなくなった・・・」
「ええ、レテの砦に行くように言われて、三日目に野党に襲われて、奴隷に落ちた貴女の姉妹の名前です」
「そ、そんな・・・な、なんで・・・」
「すべては、教会の方の審問から。 私が精霊の加護無き者と審判を下されたあの時にすべてが決まりました。 王族として精霊の加護無き者は必要ありません。 さらに、父上は帝国の牙剣と呼ばれる程の方・・・力無き者はたとえ身内でも必要ではございませんもの。 その判断に間違いは御座いませんが、審問された方が、力無き者だったとは、思われなかったでしょうね。 ・・・アナトリー。 貴女は、私の分も幸せになるべきです。 任せなさい。 フェガリの名は返しました。 マニューエを、私を信じなさい。私は、貴女とは同じ時を歩めなくなっています。 忘れてとは言いません。 貴方が覚えて居たければいつまでも覚えていてください。 しかし、私の道を塞ぐ事は許しません。 良いですね、アナトリー、我が血肉を分けし姉妹」
「フェガリ・・・貴女の覚悟は何処まで深く・・・」
「私は光の分銅。 金の分銅と共にありし者。 金天秤の均衡を計る者。 世界の均衡を護る為、この世界を護る為に私は存在します。 貴方と、貴女の子孫の為に私はこの世界を護りましょう。 だから、私の行く先を塞がないでね」
「・・・」
滂沱の涙がアナトリーの頬を伝って落ちる。 四歳の頃までは一緒に育った彼女。 審問に訪れたエセラオエ上級大司教が彼女に云った何の精霊の加護も受けていないという言葉。 その時、悄然と項垂れる彼女を見た自分の優越感に満ちた眼つき。 北の静謐に連れていかれ、それ以来全く姿を見せなくなった思い出。 少しでも彼女の事を知りたくて、彼女の世話をしていた侍女を帝都に連れて来て、今では自分の侍女頭をしている事。侍女頭のクラシエが語った、フェガリの儚い姿。 全てを思い出した。 慟哭と悲嘆と怒りと自責が綯交ぜになったかの様に、アナトリーの口から意味の無い声が漏れ出した。頭を抱え蹲る彼女をマニューエはそっと抱き締め、耳元で囁く。
「アナトリー、我が姉妹。 何も嘆くことはありません。 貴方は十分にキノドンダスの家名を輝きに満たしています。 光の王女よ、貴女は貴女らしくすればよいのです。そして、人族を助けてあげてください。楽しい一時でした。学園で学んだこの期間は私を強くしてくれました。 本当に感謝しています。 貴女も優しくしてくれました。 本当にありがとう。 ごめんね、知らない方がよかったよね。 でも、これは私の我儘なの。 一度でいいから、貴女に我儘を言ってみたかったの」
「フェガリ!」
アナトリーは、マニューエを強く強く抱き締めた。




