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「なぁ、いつまでいるんだっけ?」と、床に寝っころがって、漫画を読み始めて久しい彼女に俺は言った。
「後、二時間二十二分十四秒です」と、彼女は時計に目をやって答えた。どうやら、後七時間、彼女は俺の家に居座るつもりなのだろうか。
「未来を変えるために、他にやることってないの? 結構、切羽詰ってたんだろ?」と俺は聞いた。人類の滅亡を賭けたタイム・トラベルという割に、彼女は既に、漫画の第二巻に入っていた。
「特にありません。もう栫さんに伝えるべきことはお伝えしたので。それに、私が現在に干渉をし過ぎると、未来が変わり過ぎてしまう可能性があるので」と、視線は漫画のままで彼女は言った。早く何処かへ行ってほしいという空気を出していたのだか、それを感じてくれた気配はない。
「その時間が来るまで、この部屋にいるつもり?」と俺は切り出す。
「もしかして、栫さんはシャワーを浴びたいのですか? 私、これを読んでいるので、お気遣い戴かなくても結構ですよ。もちろん、覗いたりなんかしませんし」と、彼女は俺の頭を見ながら言う。起きてから鏡を見ていないが、寝癖がついているのだろう。
「シャワーもそうなんだけど、俺、外出したいのだけど」と俺は嘘をつく。本当は、サッカーの試合の録画を見るだけだけど。
「外出ですか。栫さんは、これからサッカーの試合を観戦するはずだったのですが、過去が変わったようですね。順調、と言ってよいのかもしれません」と彼女は笑顔で言った。過去を変えられた達成感を味わっているようにも思える。俺からしたらそれは現在か未来なのだけどね。
「俺が外出したら、君はどうするの?」
「私は、この部屋にいることにしまう」
「いや、見知らぬ人を部屋に残していくのもね。失礼だけど、何か盗まれたりしたら嫌だし」と俺は言う。価値のあるものと言ったら、既に型落ちしたパソコンくらいだけれど。
「それは安心してください。時間がくれば私という存在は消えるので、盗む意味がありません」と彼女は言った。
「そっか、そうだよな。あ、そうだ。一緒にどこか出かける? 未来人にとって、この時代の光景って珍しいんじゃない? タイムトラベラーみたいに、観光をするのは?」と俺は言った。とりあえず、彼女をこの家から出させることが先決だろう。彼女と外出をして、隙を見て彼女を撒けばよい。
「え? 外に出るんですか?」と彼女は漫画から顔をあげる。
「駄目なの?」と俺は言う。ここが勝負どころだろう。ここで負けたら、居座り続けてしまう。あと二時間何分で出ていくようなことを言っているけど、そんなの信用できない。
「外出をして、下手に過去に干渉をすると、未来が変わり過ぎる危険があります。それに、私、野外に出たことないですし。過去で、慣れないことをするのは危険です」
「それは絶対に嘘でしょ?」と俺は言った。外出したことがないなんて、絶対に嘘だった。小難しい理論を並べていたが、ついに語るに落ちた、と俺は思った。
「本当です。私は、ドレミで生まれ育ちましたから」
「ドレミ? 音階?」随分と適当なネーミングだと思う。
「いえ、実験施設の愛称です」
「ドは、ドーナツのド」
「ドーナツって何ですか?」
「いや、ドーナツの話はいいからさ。外に出たことないってどういうこと?」と俺は彼女に尋ねる。
「栫さんは、Closed Ecology Sustainable Facilitiesというのをご存知ですか?」
「いや、知らないけど」
「閉鎖型持続可能生態系施設」という意味です。
「それって、ただ直訳しただけじゃん?」
「まぁ、そうですが……えっと、Closed Ecology Sustainable Facilitiesを省略して、CESuFaと最初は呼ばれていました」と彼女は言った。俺は、英語のスペルを頭に思い浮かべながら、彼女の話を聞く。
「それが、ドレミになりました」
「は?」と俺は言った。意味が分からなかった。
「CESuFaを、シ・ソ・ファって読む外国人がいたんです」
「はぁ」
「何か気づきません?」
「いや、何も」と俺は言う。既に俺は話半分に聞いている。
「さっき、栫さんが仰っていたじゃないですか。音階って。シ・ソ・ファも音階です」と彼女は言う。
「だから?」
「同じ音階なら、CESuFaじゃなくて、ドレミでも良いのではないか、ということになって、いつの間にか通称がドレミになったんです」と彼女は言った。
「随分と上手く、こじつけたね」と俺は彼女に感心をした。頭の回転が速い人ということなのだろう。
「こじつけというより、そう呼ぶのが自然と流行して、定着したということなんですが……」と彼女は言った。
「いや、俺が言いたいのは、ドレミって君が思い付きで言ったことでしょ? それを、閉鎖型持続可能生態系施設からCESuFa。そしてドレミって、話の筋を強引にだけど通したってことだよ」と俺は言う。未来から来たという妄想も筋金入りで、何が妄想で何が現実かの区別がつかなくなってしまっているのだろう。
「私は事実を言っただけなんですが……。栫さん、何か哀愁漂う目で私を見てません?」
「いや。もう色々と諦めたよ」と俺は言う。
「駄目です。諦めないでください」と、彼女は手に持っていた漫画を乱暴に閉じた。彼女の眼は真剣だった。俺は思わず、唾液を飲み込んだ。
「栫さんが諦めたら、未来は変わりません。お願いします」と彼女は正座になって、頭を下げた。
「あ、いやいや。俺が諦めたのは、君と外出しようということだから」と俺は言った。
「どうか諦めないでください」彼女は、泣いていた。泣かしたのは、どうやら俺らしかった。