一章……(0)【幼き日の変容】
彼女――【神波鳴 美歌】の受難は、ある日突然に、何の前触れも無く残酷に、それまで彼女が大切にしていた……家族、友達、夢、未来、希望、日常。そんな全てを壊すように始まった。
――いや、或いは、
“始まった”のではなく、初めから、彼女がこの世界に生を受けてしまったその瞬間から、既に“始まっていた”のかも知れない。
やさしい神様が美歌のことを憂いて与えてくれた、ほんの少しの間だけ普通の女の子として過ごせる時間。……そんな、ある意味で残酷な猶予が有っただけで。
――どちらにしろ、今の美歌には全て無意味な事。どんなに運命を嘆いても、呪っても、苦しんでも、逃げ出してしまおうと足掻いたとしても。彼女にとって最悪な現実は何一つ変わらない。変えられない。変わるのは、変わってしまうのは、唯一、彼女自身の姿……身体だけ。なんと皮肉な事だろうか。
――美歌の受難。それは遡ること、約四年前。美歌にとって、少しだけ特別な日の出来事。本来ならば幸せな想い出の一頁となる筈だった、ある日の出来事。
~ ~ ~
「ママ……ちょと、
もう、赤飯ってさぁ。恥ずかしいって!」
と、幼い彼女はもじもじしながら、横に立って共に作業をしている自身の母親に主張する。
「……何言ってんのぅ? 女の子にとって、立派に成長したっていう証でね。特別な日なのよ? だったら、家族みんなで赤飯でも一緒に食べながら祝ってあげるのが当たり前でしょう?」
けれど彼女の主張は、子供の成長を喜び、嬉しそうにしている母親に対しては全くの無力だった。
「……だからってさぁ。それじゃあ、せめてパパにはこの赤飯とかの理由を内緒にしてくれ……ない?」
「わかったわよ……って、約束してあげても良かったけど、ふふ、残念。時すでに遅し! パパにはさっき連絡しちゃったもーん!」
「えぇー……」
「パパ仕事終わったから、ちょと用事済ませて急いで家に帰って来るってさー」
「むー、もう! ママぁ!」
美歌はそう言うと、頬を膨らます。
母親はその様子を見て、変わらずニコニコとしながら作業を進めていく。
――そんな、微笑ましい親子のやり取りをしながら。美歌はキッチンで母親と一緒に、お祝いという理由からやけに豪華になった夕食の準備を進めて行く。何気ない。それまでと変わらない、平凡で幸せに満ちた美歌の日常。その時は確かにそこに存在していた。
「……ほら! 美歌、何時までも風船みたいに膨れてないで。あー、もうこんな時間。パパもうそろそろ帰ってくるから、テーブルの上を綺麗にしておいて!」
そのまま膨れて動かなくなった美歌。母親は、テーブルの上と目の前にある障害物を二重の意味で退かそうと考えたのか。そう目の前にある方の障害物に声を掛ける。
「むー!」
母親の言葉に、自分がぞんざいに扱われているようにでも聞こえたのか。美歌は更に空気を吸い込み、頬をより膨らせた。
「……ほら、お顔がオオカミさんみたい!
私に似て普段は可愛いいお顔なのに、そんな顔してちゃ台無しだぞー! 目が怖いわよー!」
「むー! 別にオオカミでいいもん!」
拗ねて、そんな事を言う美歌。
「もう、美歌。ごめんごめん!
ママが謝るから、人間の私の娘に戻って。それで、さっさとリビングのテーブルの上を綺麗にしてきてくれない?」
「うむー! むー!」
「わかった! ……じゃあ、今日のお祝いも兼ねて、美歌が前から欲しがってた腕時計を買ってあげようかーなー
「――うん、ママ! じゃあ、わたしテーブル片付けてくるねっ!」
美歌は母親の言いかけた言葉を聞いて、直ぐに態度を改めると。ぴょんぴょんと嬉しそうにキッチンから出て行く。
「んもうっ、現金ねぇ」
部屋に残された母親は、呆れを含むニコニコ顔で呟いた。
…………。
……それから、少し経って、
「えーと。コレあっちで、コレそっちで、コレこっちで、コレ……なんだ?」
美歌は母親に言われたように、リビングの普段家族で食事をしているテーブルの上をイスに立って片付けていく。で、ある程度の片付け終わると。
「……こんなもんかな!」
そう言って、美歌は満足そうに頷いた。
「ママー! テーブルの準備おーけー!」
美歌は自分の居るリビングから、扉一枚によって仕切られた先のキッチンにいる母親に声を上げて伝える。
「はーい。最後の料理を焼き上げて、お皿に盛り終わったら持っていくわよー! あと10分くらいかなー?」
返事がきた。大きな声で言った為、リビングからの美歌の声はちゃんと母親まで伝わったようだ。
「わかったー!」
そのまま立っていたイスに自分の小さな腰を下ろし。母親が料理を持って来てくれるのを待つ事にする美歌。
「ふーん♪ ふーん♪」
美歌は前から欲しいと母親にねだっていた腕時計を買ってもらえるかも知れないという考えから、先程までが嘘のように上機嫌で鼻唄なんて歌って。時間を潰す。そこで、ふと窓の外を見ると。外はすっかり夕焼けに紅く染まっている。いつもなら、そろそろ父親が帰って来る時間だ。と美歌はぼんやりと思った。
「……はっ!」
そこでようやく、自分が上手く母親に丸め込まれたという事実に気が付いた。
「むー、ママめー!」
また、してやられた。美歌は子供心ながら悔しく思い、そうやって言葉を溢す。と、同時に彼女の中で、母親に丸め込まれせいで消し飛んでいた色々な感情が呼び起こされる。
――自分が、生まれて始めて体験した事柄への恥ずかしい感情。それを、父親だとしても一人の異性にばらされてしまったという。もっと恥ずかしい感情。母親が、美歌自身の成長を純粋に喜んでくれているという。嬉しい感情。母親に、またしても上手く扱われた自分に対しての悔しい感情。こんな他愛ない事で毎回一々祝ってくれる、大好きな両親への普段は直接伝えられない、ありがとうの感情。そのような色々な感情が、自分の中で一辺に蘇ってきて。とても何とも言えない気分になってしまう。
美歌自身は気が付いていなかったが、彼女の精神は始めての体験により、少しだけ不安定な状態だった。勿論、その程度の精神の不安定さは女性に限らず、誰もが日常の中で必ず体験するような“些細”な物だった。の、だが……。
「ん……?」
“些細”な要因が重なり合う事で。それは、取り返しのつかない切っ掛けになる事もある。普通に日常を過ごしていた人間が極度のストレスを感じた為に、これまで症状の無かった、“隠れていた”側面の病が発病してしまったりする事もあるように。
――病、とは違うが、
「……なっ?」
――皮肉にも。
「……なに?」
――その日。
「……身体が、おかしい?」
――美歌の全てが狂い、歪み始めた。
「ヴッ! ガッ! ……な、なに痛い!」
ドクンッ!! と突然に心臓が高鳴り。美歌は反射的に自分の身体を傾け、衝撃でイスから部屋のフローリングに悲鳴と共に転がってしまう。
「……ヴッ……ガァッ!!」
呻くように声を出し、悶える美歌。
「なん……なのよ……ァア!!」
――幸いなのか、不幸だったのか。当時の美歌はまだ幼く、自分の身体に起きている違和感の正体をよく理解する事が出来なかった。まあ、仮に理解出来たとしても。自身の下着の中で長く伸び始める、人間にとって退化してしまった骨と神経。頭の上へと尖り変形しながら動いていく、音を聴く為の器官。全身の皮膚に浮き出る、鳥肌のようなぶつぶつ。……そんな非現実的な信じられない変化に対抗する術など。その時の彼女は持ち合わせてなどいなかっただろうが。
「はぁ……はぁ、ゥヴ、ガァ、アッ!!
……か、はぁ……はぁ、う゛ガァ!!」
発作のように急激に、美歌の感じていた違和感が明確な苦しみに変化する頃には。既に美歌自身ほとんど正気を保てず、苦しみが無くなるのを両目いっぱいに溜めた涙を流しながら耐えるのがやっとだった。
――夕焼けの紅さが照らす室内。
徐々に薄暗くなってきたその室内にいた少女の影は、少しずつ、少しずつ……。だけれども刻一刻と確実に、彼女は人としての形を崩していった。