一章……(4)【幻聴の声?】
背にする校舎に響く、休憩時間の終了と次の授業開始の合図であるチャイム。それを無視し、荷物など何も持たず一人でトボトボと校門へ向かって歩く女子生徒――神波鳴美歌。
「……なん、で……?」
彼女の表情には、不安、戸惑い、困惑、そんな暗い感情が滲み出ていて……。元々の体調不良も合わさり、まるで、その姿は幽鬼のようであった。
「……どぅ、し……て……?」
――美歌の口から、ポツンと出た問い。
美歌は、何時の間にか再び自分の意思とは関係なく……憎たらしく、ムズムズと出てきた下着の中の感覚。それを震える手で押さえつけ、誰に対してでもない無意味な問いを口にした。
「ねぇ? ……なんで、なの……?」
――再度、問う。
自らが問いの言葉を発したと同時に、別に好きで付けている訳ではないヘアバンドの中で耳にも違和感を感じた美歌。彼女は瞳を潤ませ、グスりと鼻を鳴らした。
「なんで……こんな、身体なの?」
涙声の彼女の問いには、一体どれだけの思いや感情が含まれているのか。きっと他人には、真の意味でそれ理解する事は叶わないだろう。……同じ境遇の者でもなければ、決っして。
「もう……やだよ……っ!」
完全に人目が無い場所ならば、美歌は泣き崩れて、喚き散らしていたかも知れない。それ程までに彼女の精神は疲弊し、また、傷付いていた。
――孝の行動は、意図せず美歌のこれまで押さえつけていた暗い感情の箍を外してしまう行為であり。他人が安易に踏み込んではならない美歌が抱えている問題、秘密に土足で踏み込む危険な行為であった。それだけで美歌は半壊状態。更に体調不良という要因も相まって、現在進行形で彼女の精神が崩れている。このままにしておけば、彼女は本当に壊れてしまいかねない。危機的状態。
「……う、グッ」
「(あ~あ……平気? なんだか凄く酷いありさまだね? ……だいじょぶですか~?)」
……不意に。その様子を見兼ねたのか。美歌にそう、そっと、高く子供っぽい声で話し掛ける存在が現れた。
――だが、既に次の授業が開始された時間。美歌の目の届く範囲に人影は無く。或いは、その声は彼女の幻聴なのか。
「(ほらほら、そのスカート押さえてる手も毛深くなってるよ! ……もう~! ミカちゃん、自分をしっかり持って!)」
「……嫌よ。今は現実から逃げたいの……」
「(……)」
「……自分からも逃げたい、はぁ」
「(ん、あちゃ~、今回は深刻だねぇ……。でもね、今は抑えてくれないと。万が一誰かに見られちゃ……。あ〜、とーても、都合が悪い事になっちゃうよ?)」
「……それは、解ってるわ。……くっ!」
声はそう言うが。美歌は不安定になりつつあった自身のバランスをなかなか安定させる事が出来ず。徐々に身体の全身に、ざわざわとした違和感を抱き始める。
「(……ん~、どうかしたの?)」
――その違和感は、美歌の年ごろ相応の美しい柔肌を獣の毛皮という……とても不釣り合いな物に変え、蝕んで行く。口が裂け始め、八重歯……牙が口元から伸びてくる。
「(って、ヤバッ!! ……っとりあえず!
ミカちゃん、そこの校門の陰に隠れて!!」
――美歌の様子がおかしい事に感づいた声は、焦りを含んだ物に変わった。そして、まだ辛うじて原形を留める彼女に呼び掛け、手遅れにならないように素早い対応を促した。
「う゛……う……」
「(はい、心を落ち着かせて!! ミカは人間の女の子でしょ? だめだめ、そんな醜い尻尾や毛皮は似合わないよ?)」
「……はぁ……はぁ」
「(よし、もうちょっと!
うんうん、抑えて、抑えて!)」
「…………」
「(…………)」
「…………」
「(…………)」
…………。
五分は経っただろうか。
「はぁ……」
「(……もう治まった?)」
「……み、たい。うん」
美歌は、声の指示で寄りかかっていた校門の陰からゆっくりと立ち上がる。その身体には、“尻尾や毛皮”なんて人間に似合わしくない物は勿論存在しない。多少制服が乱れているが構う事はないだろう。
「……危なかっ……コホッ、コホッ」
――これが、もしこの場に“声”が居なかった場合どうなっていたのだろう? そこに居たのは最早、美歌ではなかった可能性もある。それも有り得た事実に、美歌は内心で身震いした。
「(一体どうしたの? ――もしかして。
言葉巧みに男の子に保健室にでも連れ込まれて、見られたくない身体のどこかを見られたり……揉まれたりでもしたの〜?)」
不思議な事に。その声はまるで、その場に実際に居たかのように。とても鮮明かつ、具体的に先程の状態を言い当てる。
「はぁ、雫……。
起きてるって聞いたけど、見てたの? あぁ……そうか、だから私の様子を見にきたのね。おかげさまで……助かったけど」
少しだけ持ち直した美歌は、その謎の声に対して雫と呼び、何も無い空間に……自身の足下に向けて語り掛けるのだ。
「(まぁ……途中から、ね。ちょうど~ミカが男の子に連れられて、保健室に入ってきた辺りから居たかな?)」
「……ほぼ最初からじゃない。だったら、どうせなら、私を助けてくれれば良かったのに……」
「(いやいや。……ちょっとっ! 無茶言わないでよ! こっちは身体が無いんだからっ! 自分の意思で戻れる訳でもないんだし、どうやってミカを助ければ良いのっ!?)」
「だったら、尻尾が出てる事を私に一言伝えてくれれば、よかったのに……」
「(うぐぐ……それについては~謝るよ。
男の子にミカの尻尾が握られるまで、こっちもポケーとしてて。まさか尻尾が出てるなんて気が付かなくてさぁ……)」
「そう……」
「(あ~でも安心して! あの男の子、少し変な所有るみたいだけど。きっと悪い人じゃない……と、思うよ! なぜならミカの尻尾見ても、嫌な感情一つ持って無かったもん!)」
「……当てにならない」
「(……そうか~。まあ、そうだよね)」
謎の声? 声だけの存在は自分なりに美歌を元気付けたり、慰めようとするが。本日の彼女にはあまり良い効果が無いようだ。
「(……あっそうだ! ならいっそ、あの男の子にミカの事情を打ち明けて、同じ秘密を共有する友達になってもらうのはどうかな? な?)」
声は「名案だと思うな!」と言葉を付け足し、美歌の意見を求める。
「……本気で言ってるの?」
だが美歌は瞳を鋭くし、声の意見に対して否定的な感情を顕わにする。
「(だって、尻尾を見られたくらいならミカの趣味がコスプレって事にでもして無理に誤魔化せると思うけど。……いい? 直接触られたんだよ? あの男の子、尻尾が本物だってきっと気が付いてるよ~? ミカが普通の人間じゃないって気が付いてるよ?)」
「気が付かれたの……それは解ってる。
私の口を塞いだ時に、めんどくさい事になるとか、日常が壊れるとか言ってたし」
「(~ならさ、私達があの男の子へ取る対策手段は……おおざっぱに分けて二つ。ミカちゃんの理解者になってもらうか……穏便に消えてもらう。わかってる? それだけだよ?)」
「……ふぅ」
「(……流石に、ミカに獣の尻尾や耳が生えてるなんて事を言い触らしたりはしないと思うけど。それを弱みにして、ミカに言い寄るような悪い人間だとしたら……。“友達”の為に、これまでみたいに……あの男の子を“消す”事にするね?)」
「…………」
美歌は否定も肯定もせず、ただ複雑な表情を浮かべるだけ……。
――後半がやけに物騒だった気がする会話は、そこで終了する。
「(あ……ミカ。気付いてる? 後ろからあの男の子が走ってくるよ。なんだろね~今はこれ以上一緒にいてあげられないけど。困ったら、直接頼ってね?)」
「有り難う、雫。私ちょと、立ち直った」
後ろから先程の事の発端である人物が近づいてくるのを感じると、同時に“雫”と呼ばれた声は完全に沈黙した。