一章……(1)【僕は始まりを握る】
――さてさて、孝は恐らくその瞬間、自分でも信じられない程に困惑し、混乱していて、どうしようもなく“ある存在”に釘付けとなってしまっていた。
――ある存在って?
考は目を閉じて、深呼吸。
そっと目を開いて、前を見る。
「……ぅ……ぁ……ぁぁ」
ある存在とは……そうやって、どこか苦しそうな顔で言葉にならない声を洩らす、目の前の彼女のこと。ベッドの上に、考と向き合うような位置関係で座っている……クラスメイトという以外には今まで特にこれといった面識の無かった女子生徒だ。制服を内側から押し上げて自己主張をする、彼女の“身体の一部”に孝は釘付けとなっていた。
「え……?」
モニュ……モニュと。そのような“けしからん擬音”が付きそうな感じに、ついつい指を動かして握ったままの状態だった彼女の“身体の一部”を貪るように揉み拉いてしまう考。
「――ぁッ……!」
彼女は堪らずにか、喘ぎ声にも聞こえる、ほんの少し官能的な声を出した。
(やわら、かい……)
……その感触が、彼女のその生物的な温もりが、一層に孝から正常な思考能力を奪い取り、はたして現状が夢か現かを曖昧とさせる。
――ッ!!
(……はっ!! じゃなくてッ!! いやいやいやッ!! そ、そんな、バカなっ――ッ!?)
――その事実は孝本人とって到底信じられる事ではなかったが、認識するしかない。触って解ったのだ。それは疑いようの無い“本物”だと。孝は頭に血が上り思考が定まらず、激しい動悸に襲われ、今どんな行動をする事が最善なのかの判断が出来なくなっている。正気に戻れと理性が訴えるが、思考が切り替わらない。……そして、同時に現実と空想の境界が壊れたような錯覚さえも感じてしまっていた。
~ ~ ~
――そこは、とある高校の保健室。
――時間帯は昼過ぎ。
今は、この学校の授業と授業の間に設けられている15分の短い休憩時間中。この部屋の中に居る人間は、孝と……孝のクラスメイトの女子生徒が二人きり。孝は、限りなく素肌に近いと言える彼女の身体の一部を握り、何度も何度も揉み拉いている。現状を客観的に詳しく描写すると、そんな状況。実に最低で、卑猥で、犯罪的だ。
――目の前に座る女子生徒の身体を揉む少年。その少年に抵抗といえる抵抗もできずに身体を揉まれ、服を乱し、喘ぐだけしか叶わない少女。文面で表すと、とても如何わしい行為が続いて行く。
「…………ぃ……ぁ」
「……」
だが、
「……ぅ……ぃ、ゃ」
「……」
ついに、
「…………ゃ、嫌ッ」
「……え?」
彼女はついに限界が来たのか、消え入りそうな声でそう呟き、孝の手を払う。
「…………っ!!
……あっ! ご、ごめんっ!!」
そこでやっと、ハッ! として我に返った孝。その瞬間、急速に孝の興奮は冷めて、直ぐに自分の手を引っ込めて、彼女から距離を取った。
だが孝がその行動をするのは、時すでに遅かったのかもしれない……。いや、明らかに遅かった。考え無しに引いてしまった引き金は、想像以上の“代償”という弾丸を打ち出す為の物であり、結果……。
「ぅ……うぅ」
女子生徒の切れ長で鋭い瞳が潤み、その瞳から、水玉が一筋の跡となって彼女の頬を流れ落ちて行った。
――そして、
「……う゛ぅ……!」
「ちょっとっ……」
彼女の涙に、戸惑う考。
「うう゛ぅ……うぅ……なん、でっ!!
なんでっ!! なんでっ!! うわぁぁぁ!!」
突然に女子生徒は、自分の頭に身に付けていたヘアバンドを床に投げ捨てて、両腕で頭を抱えて泣き叫び出す。……この世界の全てに絶望したような尋常じゃない取り乱し方をしながらだ!
「ええっ!? ……かみみかみっ!! ……かみかなみっ!! ……かみかみッ!! じゃなくて……神波鳴さんかッ!! ちょっと落ち着いてっ!!」
孝は非常に言いにくい彼女の名前を呼びかけるのに苦労しながら、ひとまずは落ち着いてもらおうとしてテンパるのだった。
ピピ、ピピピ、と。空気を読まない電子的なアラームの音が混迷を極める保健室内に響く。そう、事の始まりは、そのアラームを鳴らす体温計。たった数分程前の、考の小さなお節介……。
~ ~ ~
……数分前。
「んー……なんとか乗り切れた……。モチベーションの上がる言葉を現代に残してくれた哲学者の人に感謝だね!」
机に座ったままで手足を伸ばしてリラックスする孝。今しがた、昼休み明け直後という孝的に最も億劫な時間帯である授業が修了した。これで彼の学生としての職務も本日は残すところ、後1時限だけとなったわけだ。
(後1時間。後1時間で、僕の憩いの時間なんだ。……だから、今は、なんとか、なんとか……がんばらなければね)
考は最後の授業を乗り切る為、未だに宿主を睡眠に沈ませようとする眠気を吹き飛ばそうと、気合いを入れて自分の頬を叩く。の、だけれども……。
…………。
「は、ふわぁ……。
やっぱりダメだ、顔洗ってこよう」
自分の口から再び出てきた欠伸により、事態は深刻で、簡単に眠気に勝つ事が困難だと悟る。だから、次の授業までの休憩中である今の時間を使い、トイレにでも行って顔を洗ってくる事にした考。そのまま近くの席のクラスメイトに「トイレに行く」と軽く声を掛けて席を立った。
そして教室の後ろ側の扉から廊下に出て、数歩ほど進んだところで、
「あの……すいません」
突然、孝の背後から声。
「ん、ハイ? 誰か、僕を呼んだ?」
どこから? 誰が? 考はその場できょろきょろと辺りを見回してみるのだったが、
(おっと、なんだ、僕に向けてじゃないのか。返事しちゃったよ、恥ずかしい……)
と、すぐに理解した。
孝が利用したのとは反対の前側の扉。
そこで、次の授業を担当する考の見知った男性教師と、きっとクラスメイトだろう女子生徒が会話しようとしているのを目にした。背後からの声は、その女子生徒が教師に対して発したものだったのだ。
「鈴隣先生。あの……申し訳ないですが、私……なんだか、とても体調が優れないので、これで早退する事にします……すみません……コホッ、コホッ!」
「おやおや、そうかい。了解したよ。
確か君は“かみなかみ”さんだったね?」
「……神波鳴です」
「あぁ失礼。では、神波鳴さん。早退の件はもう保健委員の子か担任の先生には伝えたかい? もし未だなら……わたしが後で伝えておくが、どうする?」
「では……お伝え、お願いできますか?」
「なら、そちらも了解だ。よし、わたしからこのクラスの担任に伝えとこう。それでは、お大事にな“かなかなみ”さん!」
「あの…………神波鳴です」
…………。
どうやら女子生徒は体調不良で早退しようとしていて、次の授業の為にこの教室に訪れた教師に自身が早退する事の連絡と、その言伝を頼んだようだった。
(……ん?)
何となく、その会話を聞いた孝は、
(……あっ、僕が保健委員じゃん!)
と、気が付いてしまった。
(あーそうそう、そう言えば。今は早退するクラスメイトの記録とかを残さないといけないんだっけかぁ……)
気が付いてしまったなら仕方ない。保険委員だから仕方ない。そんな理由から、考はとりあえずに二人の方に歩を向ける事にした。
「それでは失礼します……」
教師に一礼して、覚束ない足取りでそのまま廊下を歩き出す女子生徒。
「――あっ、ちょっと待って!!」
孝は、それを制止する声を掛けた。
「……何、かしら?」
振り返って、孝を睨んでくる彼女。
「話し、たまたま聞いてました。僕が一応はこのクラスの保健委員なんですけど。えーと、うーんと、君は、カミ……カミ……たしか、そう! “カミマシタ”さんだ。カミマシタさん、体調不良だよね?」
「はぁ、神波鳴。神波鳴美歌よ。……ちょうどいいわ、保険委員の狩仁くん。私、体調不良で早退するから、あなたからも担任の先生に連絡してもらうの……お願いしていいかしら?」
孝は名乗られてやっと、女子生徒の詳しい情報を頭の中で発見する。
彼女の名前は――【神波鳴 美歌】
“変身・変化する異性萌え”である孝にとって、それまで只のクラスメイトの女子生徒の一人に過ぎない。そんな存在だった。