第3話 人よりちょっとだけ幸運が足りません
人よりちょっとだけ不運なのは、自覚があった。本当に幸運なら、朝起きて部屋ごと異世界の、しかも樹の上になんか転移していない。
だけど――
「ちょっと待って! どう考えても飢えたオオカミってありえないでしょ!?」
目の前に現れたのは狼だった。RPGで、序盤に出る敵としてはまさにテンプレートか。ただし、それは主人公が攻撃できる手段を持つ者である場合だ。
「ありえないから! 本当にないから! 自衛手段のない文学少女に、飢えたオオカミって!」
驚愕と恐怖に意味なく叫びながらも、襲いかかってきたオオカミを何とか避けて、必死に走る。証明するすべなどないが、自分の人生において「走る」という行為では最速だっただろう。
異世界トリップなどまだ半信半疑ではあったが、もう疑うべくもない。リアルに命の危機だ。
「いーやー!」
叫びながらも、何も考えずにとにかくまっすぐ走る。ただでさえ運動不足の現代日本人、授業以外では運動なんかまったくしない、体を動かすより本を読むことを好む文学少女。
少しでも後ろを振り向く余裕なんぞ見せたら、その瞬間にがぶりとやられる。そんな危機。
だが、頭から抜け落ちていた現実。ここはこれでもかと木以外が見えない森の中。
「のわっ」
前に逃げる事だけに意識を取られていたため、当然のように地面から浮き出ていた巨大樹の根元に足を取られ、当然のように体をよろめかせ、前につんのめった。
そして当然のように――
「っ」
追いかけてきたオオカミに背中から体当たりされ、勢い余ってその場で前転。圧し掛かってのマウントボジションじゃないだけまだマシともいえるが、完全に座り込みオオカミと目があった。
「……」
目を、逸らすことができない。逸らした瞬間、喰われる。
そう確信して、背中にだらだらと嫌な汗をかきながら、それでもオオカミと睨み合う。指先をかすかに動かした瞬間、オオカミもわずかに体を動かしたために立ち上がることすらままならない。
このままどうにもならないこう着状態が続くと思った瞬間――
「っ――――」
突然、背後の茂みがガサガサと大きな音を立てた瞬間、肩を何かが掠めた。その刺激に驚いて腰を浮かせながら思わず振り返る。
オオカミの意識が、その“音”に向かっていたのは良かったかもしれない。
「……クマ……?」
それは、私の知識にはない生き物だった。
思わずクマとつぶやいたのは、よく知るクマと似たようなサイズで、似たような色をしていたからだ。どちらかというと、四本走行の巨大化したモモンガに近い。色が黒茶なだけで。
「ガァア――ッ」
呆然とする私に向かって、クマのような生き物は威嚇の声を上げると同時にその鋭い爪を持つ手を振り上げた。
やけにゆっくり振り下ろされる手に、けれど私は身動き一つとれず、ギュッと目をつぶることしかできなかった。