第2話 私は文学少女です
とりあえず、登ったはずの無い木から降りるのはひたすらに面倒だった。
筋肉痛になりそうだなー。などとこの状況で微妙に不吉な思いをつぶやきながら、私はようやく地面に足を付けた。
両手を軽く叩き、手袋についていた木くずを払う。ここにきてようやく、皮の手袋が部屋にあったことに感謝した。
「手袋なかったら大参事だったかもね……」
そう、この巨大な木。粗忽ものの上注意力散漫だと自覚する私は、その自覚の通りに何度か木から滑り落ちかけた。
落ちたところで頭から落ちない限り死にはしないだろうが、部屋に戻るだけで木登りという面倒な工程を経なくてはならないこの状況で、打ち身や捻挫などは御免被りたい。
とっさに思いっきり手でブレーキをかけた私の手袋は、皮製なだけあって擦り切れたりしていなかったが、素手だったらだいぶ悲惨なことになっていただろう。
「んーやっぱり、どう考えても知ってる場所じゃない感じだよね」
くるりと振り返りながら、あたりを見回す。降りてきた巨大樹ほどではないが、やはり見慣れた樹木よりは明らかに立派な―最低でも近くの神社にあるようなご神木並み―の大きさを持つ樹木が見渡す限り辺りを覆っていた。
「大樹の森、って感じ……いや、林かもしれないけど」
とりあえず見渡す限りの木、土、枯葉。非運動系の帰宅部、図書委員としてはこの状況、ちょっとどころではなく早くも心が折れそうになった。
「見ただけだけど、探索ヤになったよ……死にたくないから行かないわけにもいかないけどさぁ……体力底辺這ってる文学少女にやらせることじゃないよね……」
ため息を吐きかけて、飲み込む。幸か不幸かまだわからない状況下で、不幸とまではいかなくても平均にわずかに届かない幸せを、わざわざ逃がすほど楽天的にはなれなかった。
「とりあえずしばらくは水も食料もあるけど、水場の確保と食べれそうなものの確保かなぁ……体張って食べられるもの探す前に文明が見つかると良いんだけど……」
もう一度あたりを見渡してからカッターナイフを取り出し、とりあえず降りてきた樹の目線の高さに傷をつける。それからその正面の樹にも。
それからざくざくと枯葉を踏み鳴らしながら、まっすぐに進む。時々近くにある樹の目線の高さと同じ場所に、やっぱり傷をつけながら。
「近い場所に何か……文明の方がいいかなぁ。でもなぁ……部屋見られても困るよねぇ。そもそもなんで異世界トリップしてるのかもわかんないけど」
ネットで流行りの異世界トリップ。たいていテンプレートで勇者(神子、聖女などの救世主的存在)として召喚か勇者に巻き込まれて召喚か、偶発的に人為的要因外で飛ばされる。
巻き込まれたにしろ、本人にしろ、人為的(もしくは神や世界の意思といった存在)に召喚された場合は基本的に言葉は通じる。その後、勇者としてその世界を救うなり、勇者とは別れたりしても。
だが後者の場合は半分より少なめではあるが、言葉が通じない場合がある。ネットから書籍化までされた有名な小説では、偶発的にヒロインを助けて身振り手振りで魔女のところまで共に行き、言葉を理解できる魔法を習得したり、やはり危機的状況のお姫様を助けるために意思疎通のアイテムを得たりしていた。
「……ここは無人で判断材料なんてないし、見渡す限り木ばっかり。わざわざこんなところに、しかも部屋ごと召喚するような人なんていないよねー。偶発的要素高めー? テンプレート的に異世界人がいるとして、言葉は通じるんだろーか」
言葉が通じるのと、通じないのとでは危険度が違う。有名なネット小説のように、現地の「ヒト」の言葉が理解できるのなら、最低限の情報を手に入れることと、身を守ることはおそらく可能だ。
だが言葉が全く理解できない場合は、どうにもならない。そもそも、誰が、何が、危険か理解できず、生きていくことすら難しい。
「死にたくはないから、せめて言葉がわかるとか……ここ異世界だし、魔法使えないかな……火種とか、水とか、鑑定系とか、意思疎通の魔法とか」
願望を口から零しながらさくさくと歩いていた私の耳に、がさがさという草むらの擦れ合う音が耳に入った。
「え?」
がさり、と草むらから現れたのは、まるで獲物を見つけたとでも言いたげなギラギラとした目で私を見つめる――
「オオカミ?」