命がけの下山
遺跡から出ると、ミラルたちはマニキス山の頂を目指して歩き始める。
さほど距離はないのに、辺りの景色は白銀に変わっていく。やっと一人歩けるぐらいの幅しかない山道にも、日に溶けて硬くなった雪が貼りついていた。
先頭を歩いていたミラルが頂きに到着し、立ち止まる。
一歩遅れて頂上に足を乗せたひびきは、目前の光景に目を見張った。
視界の一面に広がるのは、混じり気のない濃厚な青。下を見なければ、空を飛んでいるような気分になる。辺りを見渡しても、両脇に連なる山脈の尾根しか見えない。
ある物が限られているからこそ、その美しさに言葉を失う。故郷の山の頂上の眺めも素晴らしかったが、この絶景には畏れすら感じてしまう。
視線を下に向ければ、分厚い雪化粧。山肌は一切見えず、真っ直ぐに降り注ぐ陽の光で輝いていた。
感動と畏怖で立ち尽くすひびきの隣りで、ミラルは大きく背伸びをした。
「こっち側は北風が吹いて山にぶつかるから、雪の積もり方が違うのよねー。あ、そうそうイグニス、頼んだ物は持ってきてくれた?」
ミラルと共にひびきも後ろを振り向くと、イグニスは大袋から両端が丸くなった大きな板と薄茶色の分厚く折りたたまれた布らしき物を、それぞれ三つ取り出す。
よく見ると板には人の肩幅ほどの間隔で、留め金と黒いベルトが二つ付けられていた。
イグニスが板を肩に担ぎ、空いている腕で布を抱えながら、こちらの方へ登ってきた。
「わざわざ辺境の田舎まで買いに行ってやったんだぞ。恩に着やがれよミラル」
「あーはいはい、ありがとね。それ全員一つずつ持って」
棒読みで礼を言ってから、ミラルはイグニスから板と布を一つずつ貰う。
釈然としない表情で息をついてから、イグニスはひびきに近づいた。
「はい、これはひびきちゃんの分」
「……? ありがとうございま――」
首を傾げながら、ひびきは板と布を貰い受ける。
板は思いのほか軽かったが、布は予想外に重く、受け取った腕が一瞬下がった。
思わず落としかけて、咄嗟に布を腕と体に挟んで落下を防ぐ。その時、布越しに硬い棒のような手応えを感じた。
「これは……?」
イグニスを見上げると、彼は小首を傾げていた。
「実は俺もよく分からないんだ。ミラルが頼んだ物を俺が取りに行っただけで……また妙な物を職人に作らせやがって。どう使うんだコレ?」
「今使い方を教えるわ。まずはアタシが手本になるから、二人ともよそ見せずにしっかり見ていてよ」
ウキウキと声を弾ませてミラルは板の中に両足を乗せると、足にベルトを巻きつけた。
「まずはこのベルトで足を固定して。しっかり締めておかないと、後で大変なことになるから念入りにね」
……何だろう、凄く嫌な予感がする。でも、これも仕事ならやらざるを得ない。
ひびきは胸にざわつきを覚えながら、言われた通りにベルトを装着する。イグニスも渋々ベルトに手をかける。
しっかり二人の足が固定されたのを見て、ミラルが小さく頷いた。
「じゃあ次は、手に持ってるやつを開いて」
ひびきは頷き返して、慎重に折りたたまれた布を開いていく。
バンッ、と弾けて生地が張る。
開く度にバンッ、バンッと音を立て、生地と共に棒のような物も腕を伸ばしていく。
現れたのは、ひびきやミラルよりも大きな、三角の布地に棒が何本か組まれている――京佳で祭りの時に見かける大凧に近い。
だが綱は見当たらず、顔の高さに取っ手が二つあるのみだった。
「二人とも開いた? じゃあ――」
ひびきの視界の隅で、ミラルが動いた。
「そのまま滑って下山するわよー!」
慌ててひびきは眼下に目を向ける。
そこには、あっという間に板を滑らせ、斜めに山を下っていくミラルの姿があった。
「マ、マジかよ?! もっと丁寧に使い方を教えてくれよ……早く滑りたくて我慢できなかったな、あの先走り作家は!」
血相を変えてイグニスは身を乗り出して斜面を眺めた後、俊敏にひびきへ振り向く。
「ミラルは一気にふもとまで行くつもりだ。俺らも滑るぞ、ひびきちゃん」
「えっ! は、はい」
ひびきの返事を合図に、イグニスが滑り出す。
背中の髪が北風になでられて踊る。
驚いていた割にあっさりと乗りこなしているのは、さすがに付き合いが長いせいだろうか。
同性で年の近いミラルにも、イグニスにも負けたくない。
ひびきは息を深く吸い込むと、身を傾けて斜面を降りた。
ゆるりとした動きは一瞬だけ。
滑り出した板はあっという間に勢いがつき、顔にどんどん風がぶつかってくる。風圧に混じって冷気が容赦なく肌を切り刻んできた。
ただ、大凧が風を受けてくれるので、直滑降にはならなかった。速度を抑え、斜めに先導してくれる。
(確かに使いこなすのは大変だ。でも、これならなんとか……)
前方を行く二人はもう慣れたらしく、縦横無尽に斜面を滑り下りている。しかも大凧の角度を巧みに変え、滑りに緩急をつけていた。
見様見真似で、ひびきは二人の動きに合わせていく。
腰を大きく動かし、曲がる時は手が雪地に触れるほど身を傾けると進路が変わった。
この調子なら大丈夫そうだと思った途端。
唐突に、ひびきの前を走っていた二人の姿が消えた。
(……えっ! 一体どこに?)
慌てて辺りを見回しても、目に入るのは白銀の斜面のみで、人どころか木や岩さえも見当たらない。
しかし、よく見ると前方は斜面が途切れ――大きな段差になっていた。
「うわっ!」
思わずひびきは身を引いてとまろうとするが、勢いに乗った板は止まらない。
そのまま板が地から離れる。
風が大凧を突き上げた。
ブゥワッ。ひびきの体が板ごと空へ飛翔する。背中が反り、思わず体勢が崩れてしまう。
(こんな所でケガをして迷惑をかける訳にはいかない!)
ありったけの力で取っ手を掴み、ひびきは大凧の先を上へ向けた。
風の流れに大凧が乗り、急上昇する。そこでようやくミラルとイグニスに合流した。
二人とも大凧にぶら下がり、ひびきを見ていた。イグニスは心配そうな目をしているが、ミラルはどこか嬉しそうに目を輝かせていた。
「さっすが武術道場の娘。カルツに頼んでよかったわ」
頭上に広がる青空のようにミラルが笑う。地に足が付いていないことへの恐れは微塵もない。
こっちは意識を失わないことと、手を放さないことで精一杯だというのに……。
ひびきは驚きで点になったままの瞳をミラルに向けた。
「あの……どうしてわざわざこんなことを?」
ひびきの疑問に、ミラルはきっぱり言い切った。
「アタシがやりたかっただけ。面白そうだったし、うまくいけば早く下山できるし、いい話のネタにもなるしね。もう少し先へ行くと、さらに段差が続いて飛び放題になるから、もっと楽しくなるわよー」
どこが楽しいものか。下手すれば、雪の斜面に転がって大ケガするかもしれないのに。
沸々とひびきの胸奥から、予想が甘かったと後悔の念が湧き出てくる。そしてミラルの厄介さを、出会って間もないのに思い知らされた気がした。
そんな心情を察してか、ミラルはイグニスを顎で指した。
「転んでも大丈夫よ。必ずイグニスなら助けてくれるし、怪我しても抱えて下山してくれるから」
「そうそう! 俺が責任もって助けるから、耐えられないと思ったらいつでも頼ってくれ」
こちらの話を聞いていたイグニスが、ひびきに大声を届ける。やけに上機嫌に笑いながら。
(……そうなったらなったで危険だ)
イグニスに助けられた日には、何をされるか分からない。
ひびきの困惑が、貞操の危機に上塗りされる。
「安心して下さい、何があっても絶対に滑り終えます!」
一瞬ミラルが目を丸くし、満足気に目を細めた。
「いいわねーその意地。気に入ったわ、最後までアタシについて来てよ!」
高度が下がり、再び三人のソリが雪地へ着こうとする。
真っ先に着陸したミラルは鼻歌を歌いながら滑り、あっという間に姿を遠ざけていった。