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   予想外の人物

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 遠くに臨んでいたクローブ山脈へ汽車が日に日に近づき、車窓の景色から空が減っていく。

 幾重にも連なる山々は頂を白く染め、裾野には針葉の大樹をいくつも従えていた。


 日が昇り始めた朝に、汽車はマニキス山のふもとへ到着した。

 ひびきが汽車から降りた途端、冴えた空気が頬をなでてくる。


 手にしていた旅行鞄を置き、すぐ羽織れるように腕へかけていた淡い桃色の外套に袖を通すと、手首に野兎の毛皮が巻かれた茶色い手袋をした手でボタンを素早くかけた。


(思っていた以上に寒いな。先にレフィークスで外套を買っておいて正解だった)


 イグニスに「マニキス山の頂は雲の上にあるから、外套を買っておいた方がいい」と提案され、素直に受け入れて買い出しをしたが、


「会社の経費で買えるから、俺に見立てさせて」


 と言って聞かないイグニスに連れられ、衣料店へ次々と引きずり回された。

 挙句に試着を強要されて、強引に「絶対これが良い」と押し付けられ、不本意な色合いの外套を着る羽目になった。おかげでその日は異様に疲れた。


 思い出すだけで気疲れが甦り、ひびきは大きく白い息を吐き出す。

 と、後に続いて降りてきたイグニスが、満足気に唸った。


「俺の見立て通り似合うなー。どんな格好でも可愛いだろうけど、やっぱ可愛いモンは、より可愛くしたいからな」


 これから登山するにあたって邪魔になると、今日は色眼鏡を外している。その分、こちらを絡め取るようなイグニスの視線が、あからさまに飛んでくるのが分かった。


 まだ触られるよりはマシだと自分に言い聞かせると、ひびきは振り返ってイグニスを見る。

 ひざ下まである大きな黒い外套をまとったイグニスが、いつもの革手袋をはめた右手で巨大な荷袋を引きずり、左手で縦長の革袋を背負いながらこちらへ近づいて来ていた。


 自分の手荷物と比べて、明らかに重そうだ。あれを持って登山すれば、さぞ良い鍛錬になるだろう。

 ひびきが内心羨ましがっていると、イグニスが隣に並んだ。


「これから結構歩くけれど、ひびきちゃん大丈夫? 本当なら君の荷物も持ってあげたいけれど、両手が塞がっていて……ごめんな」


「問題ありません。修行で毎月一度、京佳で一番高い山に登っていましたから。イグニス先輩が疲れた時は、是非その荷物を私に任せて下さい」


 疲れた時とは言わず、今この瞬間からでも任されたい。

 本気で言っているのだが、イグニスは眉を上げて「そいつは頼もしい」とおどけたように答えた。


「大丈夫、大丈夫。俺も慣れているし、もし疲れたとしても、骨を折って大怪我しても、女の子にこんな大荷物を持たせるなんて俺の美学に反するからな」


 ……意地でも荷物を持たせてくれなさそうだ。

 思わずひびきは軽い落胆のため息を吐き出した。


「そうですか……残念です。しばらく汽車続きで体が鈍っていますから、むしろ荷物持ちも登山も大歓迎ですが……」


 心から残念がるひびきの呟きを聞き、イグニスが「変わった子だな」と肩をすくめた。


 二人は駅を出て簡素な町中を通り過ぎ、外れにある森へ向かう。

 森の入り口からは、マニキス山に向かって道が伸びている。幅は広く、道になっている部分は砂利が敷かれて整地されているが、両脇には好き自由に枝を伸ばした木々が茂っていた。


 左右の木々が上の方で枝と葉を重ね合わせた天蓋の中をくぐっていくと、わずかな木漏れ日が山道を疎らに照らしている。

 段々と入り口は遠ざかり、少しずつ山道に傾斜がついていく。緩やかな変化は足の負担にはならず、平らな道を歩くのと大差はなかった。




 マニキス山を登り始めてから数刻。

 雲の中へ差しかかった頃に道の傾斜が険しくなり、辺りから草木が消えた。代わりに殺風景な岩山と白い霧に二人は囲まれた。


「雲の中を抜ければ目的地はすぐだ。ずっと歩き通しだけど、休まなくてもいいかい?」


 歩みを少し遅くしてイグニスが尋ねてくる。ひびきは隣を見やり、首を横に振った。


「大丈夫です。先を急ぎましょう」


 時間はかかっているが、今まで登っていた京佳の山に比べれば優しいものだ。むしろ物足りない。


 ひびきが答えると、イグニスは大きなため息をついた。


「ざーんねん。歩かないと体冷えちゃうから、俺が温めてあげようと思っていたのに」


 実は山を登り始めてから、似たようなやり取りを何度もしている。

 初めは不快感を露わにしていたひびきだったが、一々反応しない方が諦めてくれるだろうと悟り、まともに相手をせずに聞き流していた。


 それにしても、とひびきはイグニスを横目で見る。

 明らかに自分よりも重い荷物を持ちながら長時間歩いているのに、疲れた様子はまったく感じられない。態度は軽々しくても、実力は確かなようだった。


「余裕そうですね、イグニス先輩」


 ひびきが素直に感じたことを口にすると、イグニスは苦笑を浮かべた。


「慣れだよ慣れ。ミラルに付き合っていたら嫌でも鍛えられる。休むヒマなんか与えてくれないし、俺の限界ギリギリのことをさせようとするし……」


 普通の人なら、きっと嫌気のさす話だろう。しかし、ひびきは顔をしかめるどころか嬉しそうに微笑む。


「ミラル氏について行くだけで鍛錬になるんですか? ……楽しみです」


 決して嫌味ではなくて素直にそう思う。自分が今よりも強くなれるというなら、振り回される甲斐もある。

 ひびきが心を弾ませていると、イグニスが目を見張った。


「そんなこと言う人間、初めて見たな。どうしてそんなに自分を鍛えたいんだ? 女の子なら、もっと違う楽しみがあるだろうに」


 何度も人から尋ねられた言葉だ。言われて面白くはないが、言いたくなる気持ちも分かる。

 ひびきは小さく息をついてから答えた。


「……負けたくなかったんです。幼い頃、私は体が弱くて病気がちでした。けれどミラル氏の本を読んでいたら、どこにも出かけられない自分が悔しくて……だから弱い体へ打ち勝つために鍛え始めました。日に日に自分の体が強くなっていく手応えが、今ではどんな遊びよりも楽しく思えます」


「ふーん、ミラルの本がねえ。か弱いひびきちゃんも可愛かっただろうけど、今の君でよかった。鍛え続けたおかげで、俺は君と奇跡的に出会えた訳だ」


 嬉々としてイグニスが片目を閉じる。


 ……調子のいい口に付き合いきれない。

 ひびきは話を聞き流し、口を閉ざして黙々と歩き続けた。


 さらに先へ進んでいくと、ようやく辺りに立ちこめていた霧が薄れていく。二人の頭上を遮る物はなくなり、朝よりも色を濃くした青空と太陽が間近になる。


 日差しにひびきが目を細めていると、イグニスが岩と残雪ばかりの遠方を指さした。


「ほら、あの盛り上がった岩場の合間に洞窟が見えるだろ? あそこが目的の遺跡だ」


 言われてひびきが目を凝らすと、確かに岩場に穴が見える。


「一体何の遺跡ですか?」


 ひびきの問いに、イグニスは一考してから答えてくれた。


「遙か昔にマニキス山頂上で栄えた国が、神々に祈りを捧げるために造った神殿さ。周りは建物の跡すらないのに、岩山を掘って造った内部は未だ健在らしい。ミラルはそこで『傾国の女神』を調べている」


「マニキス山頂上で栄えた国……岩山ばかりで、とても国が栄えたように思えません。私たちが登って来た場所以外に、人が住みやすい土地があるのですか?」


 ふと気になったことをひびきが口にすると、イグニスは小さく首を振った。


「いーや。マニキス山はどこもかしこも裾野は深い森、上部は岩山ばかりだ。国の痕跡はどこにもない。けど残っている遺跡には、アドゥークという名の国と王都があったと記されているそうだ。何年か前に『傾国の女神』を専門に調べている考古学者のレスター博士が、レフィークスの新聞で発表していた」


 流石にミラルの担当をしているだけあって博識だ。軽い性格で引いてしまう言動もあるが、敬えるところがある人だと思う。


 ひびきは密かにイグニスを見直しそうになる。

 ……が、口に出さなくても、どこか浮ついた足取りが「惚れ直した?」と言っているような気がして、素直に称賛することができなかった。


 ようやく遺跡の入り口にたどり着くと、イグニスは中を覗き込み、大きく肺を膨らませてから叫んだ。


「ミラル、到着したぞ。早く出て来てくれ!」


 芯のある大声が穴に吸いこまれ、何度も中で反響して消えていく。


 しばらくして、穴の中から声が返ってきた。


「遅い、イグニスッ!」


 返って来た声に、ひびきは耳を疑う。

 反響して本来の声色と違うのかもしれない。しかし、声は男性と呼ぶにはあまりに高く、辺りに通る澄んだ鋭さがあった。


(まさか少年? ……いや、この声――)


 ひびきがその場に固まっていると、穴の中から誰かの駆け足が響いてくる。次第に反響は消え、足音が鮮明になってきた。


 洞窟の光が届く所へ声の主が現れる。


 肩で毛先を好き放題に跳ねさせた赤毛。ひびきよりも背丈はあるが、決して大きいとは言えない体躯。どこか不敵な笑みを浮かべながらも、活き活きとした光を帯びた丸い瞳が愛嬌良く見せている。駆けてくる動きはバネがあり、しなやかな四肢からは元気が溢れていた。


 若い。一見すると少年かと見紛う。

 だが、胸元を見せた緋色の上着からは……ふくよかな胸の谷間が、しっかり見えていた。


 イグニスが彼女へやわらと手を振る。


「よっ、ミラル。待たせたな」


「待たせたな、じゃないわよ。予定より三日も遅れるなんて……イグニスが来るまで街に戻れないから、ずぅ――っとこんな寒々しい遺跡に籠っているしかなかったんだから!」


 見た目通りの快活な声で、ミラルはイグニスを怒鳴りつける。それからやっと彼女はひびきに気づき、無遠慮にこちらを指さす。


「ちょっとイグニス! なに口説き落とした女の子を、こんな山まで連れて来てんのよ。『ミラルに会わせてやる』ってアタシの名前を出して誘拐したんでしょ? 最低な奴ね」


「え、俺そんな目で見られてんの? ひどいなあ……いいかミラル、よーく聞けよ。この子はなあ――」


 半身を翻してイグニスは二人を対面させると、立てた親指の先をひびきへ向けた。


「わざわざ京佳から来てくれた、新しい雑用係だ」


「……え、マジで? こんな小っさい子が?」


 間髪いれず、ミラルは薄い琥珀の瞳を丸くし、一切驚きを隠さない。

 そのままお互いにまばたき合うばかりで、ミラルとひびきは固まり続けた。

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