社長の気苦労は絶えず
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ヒューリット出版の屋上で、カルツはクローブ山脈がある方角を眺めていた。
連なる山々は見えないが、レフィークスの街と空が夕日に赤く染まり、夜の帳を下ろす前の花を飾っている。
(今頃どうしているかなあ、ミラルたちは……)
遠い目をして、カルツはミラルの顔を思い浮かべる。
ラマノへ行ったイグニスが突然ここへオーディーの笛を取りに来た時は、また問題が起きるのかと不安で夜も眠れなかった。
オーディーを使う時は、いつも人外の者――しかも危うい力を持つ者と対峙する時。
助けを求めてくるならオーディーに住まわせて保護をするし、暴れるなら今まで助けた者たちに協力を求めて退治する。
だからオーディーが動く時は、いつも問題の影がついて回った。
数日後にミラルから電話があり、案の定大変な事態になっていたらしい。しかし、もう解決して取材が一区切りつきそうだと元気な声で報告をもらい、ようやく安堵することができた。
ただ、「ちょっとやらなきゃいけないことが増えちゃったから、締め切り間に合わないかも」と言われてしまい、カルツの中で心配が日に日に膨らんでいる。
(ミラルは絶対に締め切りを守ろうと無茶をするからなあ。倒れていなければ良いけれど)
出版する分には、締め切りが多少遅れてしまっても差し支えはない。
けれどミラルの取材予定はすでに一年以上先まで決まっており、遅れれば次の取材に影響が出てしまう。中にはその日でなければいけない物もあり、取材すらできないという状況にもなってしまう。
それに、締め切りに遅れた際の調整のために削るのは、取材の合間に入れる貴重な休み。
自分と一緒にいられる時間が無くなることが、ミラルにとって一番耐えられないとのことだった。
そこまで想ってくれて嬉しい半面、もっと己の身を労って欲しくもあり、カルツの心情は複雑だった。
細く長い息を吐き出して溢れそうになる心労を外に出すと、おもむろにカルツは腕時計を見る。
(今日が締め切り日……この時間になってもまだ来ないということは、イグニスが飛んで持って来るんだろうな。ひびきさんにいきなり正体を見せる羽目になっていたらどうしよう)
今まで見てきた中で、ひびきほどイグニスの力に負けず、相手にし続けた者はいない。
できればこのまま雑用係を継続してもらいたいが、イグニスの正体を知れば、続けてくれないかもしれない。もっと交流を深めてイグニスの人となりをもっと知った上で教えたほうが逃げ出さないだろう、ということがカルツの考えだった。
知らず知らずにイグニスから生気を吸われているだけでなく、ミラルの無茶な行動にもついて行かなくてはいけない。
親友の娘を大変な状況に追い込んでいることを思うと心苦しくて、何度ため息をついても胸は軽くならなかった。
心労がどんどん増えてしまい、がくりとカルツは肩を落とす。と、
「……カルツ社長」
どこからともなく少女の声が聞こえてきた。
カルツは辺りを見渡すが、人影はどこにも見当たらない。
(今の声、ひびきさんの声だったような……幻聴かなあ?)
こめかみを押さえ、カルツは軽く頭を横に振る。
「カルツ社長!」
さらに大きく鮮明になった声が、カルツの耳に入ってくる。しかし、やはり見回しても人の姿は――。
――カルツの背後で、重みのある何かが落ちた音がした。
驚いて振り返ると、そこには全身に外套や布を幾重にも巻いた小柄な人物が跪いていた。
誰かは頭のフードを外し、黒い筒をこちらに差し出す。その顔にカルツは目を見張る。
「ひびきさん!」
「ただ今戻りました。これがミラルの原稿です、受け取って下さい」
……幻聴を通り越して、白昼夢を見ているのかも。
目前の光景が信じられず、自分の頬をつねってみる。しかし、ひびきは消えなかった。
「一体どうやってここに……?」
「イグニス先輩に運んでもらいました。本当はオーディーに乗って移動していたのですが、締め切りに遅れかけたので先に原稿を届けに来ました。ミラルは明日の朝にここへ戻りますからご安心下さい」
ひびきの言葉がなかなか受け入れられず、カルツは何度も頭の中で復唱する。
完全に理解した時、驚きで思わず口があんぐりと開いてしまった。
「えっと……ひびきさん、その、体は大丈夫なの?」
上手く言葉が出ないカルツを不思議そうに見ながら、ひびきは立ち上がって外套や布を外し始めた。
「直に触れると生気を奪われるので、こうして厚着をして軽減していました。イグニス先輩も力を出来る限り抑えてくれましたから問題ありません。少し倦怠感を覚える程度です」
淡々と言いながらひびきは手首を振ると、おもむろに横を向く。
やや遅れて、ひびきの視線の先に黒い影――外套をまといながらイグニスが着地した。
両膝を下に着けながら、イグニスは力なく項垂れている。
その静けさに、カルツの背筋が総毛立った。
「ひ、ひびきさん、今すぐここから逃げないと!」
「いえ、私はここで食い止めますから、カルツ社長は避難して下さい」
あまりに冷静な声に、カルツは一歩後ずさる。
あの状態のイグニスに捕まれば、ただでは済まない。意識を取り戻すまで生気を吸い、下手すれば相手を病院送りにしてしまう。しかもその方法は――。
動揺を隠せないカルツへ、ひびきはわずかに微笑んだ。
「大丈夫です、勝算はあります。飢えたイグニス先輩に捕まらないようにしながら私は先輩の体に触れて、意識が戻るまで肌から生気を吸ってもらいますから」
「えええっ?! そんな無茶な……まさかミラルに無理矢理? それなら止めても問題ないから」
必死に止めようとするカルツだったが、ひびきの意思は固かった。しかも心なしか嬉しそうだった。
「これはミラルではなく、私が言い出したことです。無意識でいつもより動きが鈍いとはいえ、本気のイグニス先輩と手合わせできるのですから本望です。どんな結果になったとしても」
イグニスの正体を知った上で、そんな手段を取るなんて……。
およそ普通の人間が考えることではない。ミラルに負けず劣らずの無茶っぷりだ。
ここまで腹が決まっているなら、引き止めるのは無駄だ。
カルツは心配そうに目を細めながら、小さく頷いた。
「分かった。くれぐれも無理はしないで欲しい」
「はい、ありがとうございます」
ひびきの返事を受け止めてからカルツは踵を返し、下の階へ行こうと階段へ向かう。
一歩足を階段に乗せた時、視界の隅で二つの人影が動いた。
思わずカルツが振り返ると、朦朧とした表情のまま捕まえようとするイグニスの手を払い、ひびきが彼の腕を掴んで投げ飛ばしていた。
イグニスは身を翻して着地すると、すぐ床を蹴ってひびきに迫る。
しかし彼女は逃げず、ギリギリまで引きつけて懐へ入ると、手の平でイグニスの胸を押し飛ばす。
触れるだけでも生気が吸われて体が疲れるというのに……。
激しく動き続けるひびきにカルツは目を奪われ、足を止めて成り行きに見入る。
この調子なら狙い通りに上手くいくと確信できた。が――。
投げ飛ばされて起き上がったイグニスとカルツの目が合う。
刹那、イグニスはひびきではなく、カルツに飛びかかろうとした。
「危ない、カルツ社長!」
血相を変えたひびきが慌てて二人の間に飛び込んでくる。
ドン。ひびきに肩を押され、カルツは横へ倒れた。
「ご、ごめん、ひびきさ……あっ」
カルツが前のめりになりながら数歩離れて振り返ると、ひびきの右腕をがっちり掴んだイグニスの手が見えた。
恐る恐る視線を上げていくと……ひびきの唇がイグニスに奪われていた。
どうにか離れようとひびきはもがくが、力でイグニスにかなう訳もなく、次第に動きが弱まってくる。
そしてついには体の強張りがなくなり、ひびきがぐったりしてしまった。
「イ、イグニス、早く起きて! ひびきちゃんが死んじゃう」
思わずカルツが叫ぶと、イグニスの耳がぴくりと動く。
鈍い動きでひびきから顔を離すと、イグニスはうつろな目で彼女を見つめる。
と、唐突にイグニスの目が見開かれた。
「うわぁぁっ! しまった、またやらかした。ひびきちゃん、大丈夫か? しっかりしてくれ!」
ひびきの両肩を掴んで必死に揺するが、起きる気配はまったくない。
オロオロするしかなかったカルツだったが、自分以上に狼狽するイグニスを目の当たりにして、少しだけ冷静さが戻ってきた。
「早く休憩室のベッドに、ひびきさんを寝かせて!」
カルツが階段を指さすと、イグニスは「あ、ああ!」と短い返事をしながら、瞬く間に階段を下りて行ってしまった。
急に静かになった屋上で、しばしカルツは茫然とする。
自分がさっさと逃げれば避けられたはずなのに……。
じわり、じわりと後悔が広がり、カルツから嫌な汗が吹き出してくる。
居ても立ってもいられず、カルツは京佳がある東を向くと、その場に土下座した。
「峰太ーっ、ごめんなさいー!」
姿の見えない親友に充てた懺悔は、本人に届くはずもなく、星が数個きらめき始めた空へと吸い込まれていった。




