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   イグニスの正体

 ミラルは辺りを見渡し、出入口を通り越して右横の壁へ目を留める。


「こっちを突き破った方が早く外へ出られるわね。イグニス、やっちゃって」


 言い終わらない内にイグニスが駆け出し、腕を大きく振り上げ、壁に向かって拳を突き出す。


 ドォンッという轟音が響くと同時に大きな穴が開く。手入れの行き届いた庭が現れ、外のからの肌寒い風が入ってきた。

 そこへすかさずイグニスは蹴りを数発入れて、人が悠々と出入りできるように穴を広げた。


 その気になれば屋敷を半壊どころか、全てを粉々に砕くこともできるのだろう。

 大蛇を押さえていた力を考えれば当然なのだが、実際に呆気なく崩れ落ちた壁を見ると圧倒される。


 ひびきがイグニスの背中を見つめていると、隣に並んだミラルが肩を叩いてきた。


「驚いた? あれでまだ全力じゃないのよ」


 彼の動きを見る限り、これでも手加減していることが見て取れる。

 これで全力を出したらどうなるのだろうかと思った瞬間、ひびきの手に汗が滲んだ。


 ミラルがクイッと顎で大穴を指す。


「イグニスに続くわよ。アイツの後ろにいたら、間違いなく大丈夫だから」


「はい、分かりました」


 ひびきは歯切れよく答えると、先に穴を潜ったイグニスの後を追う。

 屋敷から外へ出ると、丁度イグニスが塀の壁に穴を開けたところだった。


 イグニスを先頭にして、三人は敷地の外へ足を踏み出す。

 と、轟音を聞いて駆けつけたのか、街の住民が数名、ギョッと目を見開いてこちらを見ていた。


 その中の男が一人、大声で叫んだ。


「こっちに来たぞー! 早く応援に来てくれ!」


 呼びかけに応え、方々から数多の足音が聞こえてくる。瞬く間に人数は増え、周囲に分厚い人垣が出来上がる。

 誰もが目を血走らせ、殺気を抑えずに三人を睨んでいた。


「もしかして、これ――」


 たじろぐイグニスへ、ミラルが小声で囁く。


「ここにいる全員、シャパド教の信者なんじゃない? 大方、カギを持って逃げたムートを庇っているってところかしら。じゃあ、頼んだわよーイグニス」


 言うなりミラルがひびきの袖を引っ張り、破れた塀の穴へ後退する。

 咄嗟にひびきは踏ん張り、首を横に振った。


「いくら力があっても、大人数を相手にすれば否応なく隙が出来ます。早くイグニス先輩に加勢しなければ……」


「ダメよ、邪魔になるから。だって――」


 ミラルがこの事態にそぐわない、満面の笑みを浮かべた。


「イグニスの近くにいたら、ぶっ倒れるわよ?」


 どういうことなのか分からず、ひびきは眉根を寄せる。

 困惑していると、イグニスが外套と上着を脱ぎ、こちらへ放り投げてきた。


「ひびきちゃん、それをちょっと持っていてくれないか? なるべく早く終わらせるから」


 咄嗟に受け取り、ひびきは短く頷いてみせる。

 それを見てイグニスは、心苦しそうに目を細めながら微笑を滲ませた。


 前へ向き直った刹那。

 イグニスの体から黒い靄のようなものが漂い始める。


 靄はあっという間に濃くなり、イグニスのすべてを覆う漆黒の繭となる。

 ドクン、ドクン、と鼓動のような律動を刻み、繭は膨れ、膨れ――。


 ――サァッ、と一気に黒い胞子のような物へと姿を変え、虚空へ消えていく。


 そこにイグニスの姿はなかった。

 代わりに現れたのは、イグニスよりも二回りほど大きな鈍色の生き物。


 二本足で立つそれは、全身が鱗で覆われ、背中から蝙蝠の羽のような形をした大きな黒い翼が六枚も生えている。

 手足は刃を弾き返してしまいそうな硬化した筋肉が隆起し、腰の中央からトカゲのような尻尾が伸びていた。


 チラリとこちらを見たその顔は、形はかろうじて人を保っているが、石像のように表情はなく、濃紫の瞳は消え失せ、純白の目を宿している。

 唯一変わっていないのは、長い銀の髪。これがあるからこそ、目前の生き物がイグニスなのだと受け入れることができた。


 今まで現実はおろか、ミラルの本でも見たことのない生き物。

 しかし、ひびきの中で閃くものがあった。


 人の形を残した、人外の者。

 シアと同じように閉じ込められていた過去があるかもしれない、暗所恐怖症の持ち主。


 我知らずにひびきは呟いていた。


「もしかして……はらぺこ魔神、ですか?」


 ミラルから「えっ?!」と驚きの声が上がった。


「よく分かったわねー、ズバリその通りよ。思いのままに生気を奪い、アイツが望めば相手を殺すことも世界を滅ぼすこともできる、どれだけ生気を吸い取っても常に飢え続ける魔神イグニス……ほら、あれを見て」


 イグニスの近くにいる男をミラルが指差す。

 ひびきが促されるままにそちらを見ると、男は急にふらつき、その場へ崩れ落ちる。


 はっきり見えないが、気配で分かる。

 男から生気が抜けていき、イグニスの所へ流れていることが――。


 そう気づいた瞬間、自分の体からも微量ながら引き抜かれている感覚に襲われる。

 ただ見ているだけなのに、力が抜けていくような気がしてならない。


 嫌な予感にひびきが冷や汗を流していると、ミラルは朗らかな口調で話し始めた。


「イグニスがあの姿になったら、近づくだけでも生気を吸われちゃうわ。人型の時だと力は弱くなるけれど、それでも直にアイツの肌に触ったら、普通の人間はぶっ倒れるわ。服越しでも微妙に吸い取られるし……アイツに触れるのは、鍛え抜かれた肉体と体力を持った人間だけなのよね」


 予感が確信へと変わり、ひびきはこめかみを引きつらせた。


「あの、私……出会った時からイグニス先輩と触れ合う機会が多かったのですが……」


 握手に始まり、数々の応酬、そしてキス。

 今にして思えば、イグニスといる時は必ず疲れを感じていた。


 まさか下手すれば命に関わるかもしれない状況にあったとは思いもせず、ひびきから血の気が引いていく。


 こちらとは対象的に、ミラルの顔はどんどん血色が良くなり、面白がっている気配が濃厚になった。


「そうねー、だから初めて顔合わせた時はビックリしたわよ。こんな小さい女の子がイグニスに絡まれても平気な上に、素手で触っているんだから。そこらの力自慢の野郎共でも、普通はそこまで出来ないもの。自信持っていいわよー、さっすが武術道場の娘ね」


 あっけらかんと答えるミラルへ、ひびきは釈然としない眼差しを向ける。


 まさかこんな形で、体を鍛え続けた成果が分かるなんて……。

 喜ぶべきなのか、なぜ最初から事情を言わなかったと怒るべきなのか、さっぱり判断がつかなかった。


 前方に視線と注意を戻すと、人垣は崩れ落ち、自分たち以外は全員ぐったりと横たわっていた。


 イグニスが辺りを見渡し、おもむろに地を蹴り、空へ舞い上がる。

 二、三度ほど辺りを旋回してから、大きな声で叫んだ。


「ムートを見つけたぞ! 馬に乗って教会へ向かっている」


「分かったわ。そのまま気づかれないよう、教会の周辺を偵察してちょうだい。あと、セロが捕まっていないかも調べておいて。アタシたちも向かうから、教会近くの三叉路で落ち合いましょう」


 ミラルが空を仰いで声を飛ばすと、イグニスが二人を見下ろして「分かった!」と答える。


 その一瞬、ひびきと目が合う。

 瞳のないその無機質な目が細まり、どこか悲しそうな面持ちになる。


 すぐにイグニスは顔を逸らすと、さらに空へ高く飛び、教会の方角へと羽ばたいていった。


 ひびきはイグニスの姿が見えなくなった後も、空を仰ぎ続ける。


「ボーッとしていないで。急ぐわよ」


 グラグラとミラルに肩を揺さぶられて、ようやくひびきは我に返る。

 咄嗟に「はいっ」と答えたのを合図に、二人は弾かれたように駆け出した。


 ひびきが助走をつけて倒れた人々を飛び越えると、ミラルが遅れてその後へ続く。

 と、不意にミラルは立ち止まり、後ろを振り返った。


「このまま放置してたら、シアの力にやられそうね……ちょっとみんなの力を借りましょうか」


 子供がいたずらを企むような無邪気で不穏な笑みを浮かべ、懐から細くて小さな金色の何かを取り出す。

 そしておもむろに先端へ口をつけ、息を吹き込む。


 笛のような物らしいが、それらしい音は響かない。ただフスーッと、息が通り抜ける音だけだった。

 鳴らない小笛を見つめながら、ミラルは「これで良し」と呟いた。


 今度は何をするつもりなのだろうか?

 不思議そうに見つめているひびきに気づき、ミラルが眉を上げる。


「頼もしい援軍を呼んだのよ。すぐに到着するわ」


「援軍? 一体どなたを呼ばれたのですか?」


 ひびきの言葉の途中でミラルが隣に並び、顎で前を指し、先へ進むよう促してきた。

 慌てて駆け足になりながら、ひびきはミラルに顔を向ける。

 彼女は答えようと口を開きかけて、「うーん」と唸った。


「それは来てからのお楽しみ。……ぶっちゃけると、実は誰が来てくれるかアタシにも分からないのよねー」


「えっ?!」


「まあ、頼りになる援軍だから安心してよ。ところで――」


 今度はミラルが不思議そうな眼差しをひびきに向けた。


「ねえひびき、一つ聞いてもいい? 今までイグニスの正体を見た人ってさ、腰を抜かすか、逃げるか、失神するかの三択なんだけど……ひびきは怖くないの?」


 さっきイグニスが上空で見せた表情は、本当の姿を見せて怖がられていないか不安だったのだろう。

 そして力を好んで使わない理由も、怖がられて周りの人が離れてしまわないため。


 ひびきはイグニスが向かった先を見つめ、小さく首を横に振った。


「ええ、怖いとは思いません。己の力を知る人は、無闇に力を使いませんから。それに――」


 イグニスの正体を知った驚きが今やっと収まり始め、胸の奥から湧き出てくるものがある。

 溢れそうになるそれを抑えようと、ひびきはギュッと己の胸元を掴んだ。


「今まで読んできたミラルの本の中で、一番続きが気になっていたんです。外へ出た魔神がどうなったのか……この目で見ることができて本望です」


 こんな異常な事態なのに、嬉しくてたまらない。


 幼い頃、自由に外へ出られないはらぺこ魔神に体が弱かった自分を重ね、何度も『ひとりぼっちのはらぺこ魔神』を読み返していた。

 最後に魔神が外へ旅立っていく場面を読んで、きっと自分もいつか外へ自由に出られると勇気づけられた。


 だから子供心に、大きくなって強い体を手に入れたら、魔神に会ってみたいと願っていた。


 この事態が収拾したら、イグニスに聞きたいことがたくさんある。

 ひびきが思わず口元を綻ばせていると、ミラルが走りながら豪快に笑った。


「ひびきってば、本当に変わってるわねー。そういう他の人とズレてるところ大好きよ。これ知ったら間違いなくアイツ、『絶対俺の嫁にする!』って言い出すでしょうね。んふふふふー、これからずっとネタに困らないわー」


 イグニスの暴走が生々しく想像できてしまい、ひびきの頭が一気に冷える。


 これさえなければ、心の底から出会えたことを喜べるのに。

 頬を引きつらせながら、ひびきは無心になって走ることに努めていった。


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