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   対面

 ホールから真っ直ぐに奥へ伸びた廊下を、二人はしばらく無言で歩く。

 静かに歩いているつもりだが、コツ、コツという靴の音が辺りに響いていた。


 廊下の中ほどまで歩き、イグニスが飴色の扉の前で足をとめる。見るからに威厳が漂う扉に、ひびきは少し気圧される。


 気軽に近づくことを躊躇うような扉だったが、イグニスは軽快にノックして無造作に開けた。


「おーい、社長いるかー?」


 社長相手にその軽さでいいのだろうか?

 怒鳴り声の一つでも飛んでくるかと、ひびきは身構える。


 返って来たのは「やあ」と重圧のかけらもない、のどかな青年の声だった。


「どうしたんだい、イグニス」


 たった一声でも、彼の物腰の柔らかさが伝わってくる。どんな人物なのだろうと、ひびきはイグニスの後ろから顔を出す。


 不意に社長と目が合う。

 彼は透明な眼鏡の下で、小さな青い瞳をまたたかせていた。


 声の印象を裏切らない穏やかな顔つき。色白の肌と細い金髪が、少し頼りない印象を与えている。

 見たところ、イグニスと同じ年頃の青年だ。硬く襟を閉じた紺色の高価そうな衣服を着ていなければ、社長と言われても信じられなかっただろう。


 冷静にひびきが社長を眺めていると、突然社長は血相を変え……駆け出して勢いをつけ、床に膝を着けて滑ってきた。


 そして、二人の前で止まると同時に――。


 ――彼はすぐさま土下座した。


「すみません、すみません! ウチのイグニスとミラルが、貴方様にとんだご迷惑を――っ!」


 予想しなかった社長の態度に、ひびきは言葉を失う。それを愉快そうにイグニスが見下ろした。


「早速出たな。ヒューリット出版名物、社長の土下座。ちなみにここの床、土下座しやすいように毎日磨いているんだよ、ひびきちゃん」


 ……一歩故郷を出ると、こうも文化が違うなんて。しかもミラルたちのことで、名物になるくらい謝っているなんて。

 ひびきが土下座を続ける社長に困惑していると、イグニスは喉で人の悪い笑みを奏でた。


「クククク……社長、珍しく苦情じゃないんだなーコレが。なんと、待ちに待った新しいミラルの雑用係だ」


「え? ミラルの……雑用係?」


 ぴたりと土下座をやめて、社長は立ち上がる。ようやく話ができそうだと、ひびきはイグニスの隣に並んで一礼した。


「筧 ひびきです。いつも父がお世話になっています」


「え、筧って……もしかして峰太の娘さん?! 話には聞いてたけど、まさか峰太が愛娘を送ってくれるなんて……」


 父の名を連呼してから、社長はひびきに歩み寄って手を差し出す。


「ようこそヒューリット出版へ。私が社長のカルツ・ヒューリットだよ」


「よろしくお願いします」


 握手を交わすと、カルツは恥ずかしそうに頬をかいた。


「見苦しいところを見せて申し訳ないね。立ち話もなんだし、ソファーに座って」


 カルツに促され、ひびきは応接用の茶色いソファーへ座る。

 そして、当然と言わんばかりにイグニスが隣へ座る。十分空いているのに体を密着させ、あまつさえ肩まで組んできた。


 ここまでされては我慢できない。ひびきはイグニスを見上げ、睨みつける。


「イグニス先輩、手を離して頂けませんか?」


 はっきりと不快感を示した顔を向けたが、イグニスは悪びれる様子もなく笑う。


「えーっ! そんな悲しいこと言わないでくれよ、ひびきちゃん。これから結束を強めるためにも触れ合いは大切だって。別に胸とかお尻とか揉む訳じゃないんだしさ」


 引き下がる気配がまったくない。思わずひびきは眉をひそめる。


「お願いですからやめて下さい」


 肩の手を払おうとした瞬間……サッとイグニスはひびきの手を避け、再び肩へ置いてくる。


 ひびきのこめかみがピクリと動く。

 力づくで抗わなければいけないのかと、拳を握り、イグニスの顎をめがけて振り上げかけた。が、


「駄目だよイグニス、嫌がっているのに無理強いしたら……やめないなら今月の給料半額にするよ?」


 困ったような頼りない笑みを浮かべながら、カルツがイグニスをたしなめる。

 納得できないらしく「えー!」と不満そうな声を出したが、イグニスは渋々ひびきから手を離してくれた。


「今の内に親睦深めたいのになあ。ミラルと合流したら、そんなヒマなんか無くなるのに」


「……嫌がっている相手にベタベタ触り続けても親睦は深まらないよ」


 呆れ気味のため息をついてから、カルツは軽く肩をすくめた。


「まあ、イグニスがここまで浮かれるのも当然か。こんなにイグニスとやり取りできる人間って、今まで見たことないからさ。これならミラルについて行けそうだね」


 妙な感心をされてしまい、ひびきはイグニスを見やる。

 もしかして次々と雑用係が入れ替わっているのは、仕事が激務だからだけではなくて、この人の扱いに疲れるせいかも……。


 そんなことを考えていると、カルツが二人の向かい側のソファーに座った。


「ひびきさん、峰太からすでに話は聞いていると思うけれど、ミラルの雑用は体力自慢の男性でも音を上げる過酷な環境なんだ。取材が一回終わるまで続ければ良いほう、中には二、三日で音を上げて逃げる人もいる。しかも一度でもやれば、みんな口々に『もうミラルの雑用は嫌だ』って二度とやろうとしないんだ。……それでも引き受けてくれるかな?」


 話している途中で、段々とカルツの肩が落ちていき、申し訳なさそうな声色になっていく。

 並々ならぬ苦労をしてきたことが伝わってきて、ひびきはカルツに取り憑いた不安を跳ね除けるように、はっきりとした声を出した。


「京佳を出た時から覚悟はできています。まだ未熟者ですが、私の出来る限りを尽くします」


 ひびきが言い切ってみせると、一気にカルツの顔が晴れやかになっていき、満面の笑みが浮かんだ。


「ありがとう! 本当に助かるよ。でもひびきさん、無理はしないで欲しい。自分の手に負えないことがあれば、すぐにイグニスを頼るんだよ」


 なんだかこの人に頼ったら、後から何かされそうな気がする。

 まだ出会ったばかりでよく知らない相手を悪く考えるのは良くないと思いつつも、どうしてもそう考えてしまう。顔には出さないけれど。


 ひびきは気を取り直して「分かりました」と頷くと、ここへ来るまでにずっと聞きたかったことをカルツに尋ねた。


「一つお聞きしたいのですが、ミラル氏はどのような方ですか?」


「きっと聞いて驚くと思うよ。ミラルは――」


 答えようとしたカルツへ、イグニスが「社長」と割って入る。


「まだ教えないでくれよ。このままミラルに会わせて、この涼しい顔の美人さんを驚かせてみたいからさ。俺の楽しみを奪うっていうなら、社長でも容赦しないぞ?」


 悪戯な笑みを浮かべて、イグニスがさっきの仕返しと言わんばかりに自分の社長を脅す。

 動揺してオロオロするカルツが、あまりに哀れで見ていられない。ひびきはため息をつき、口を開いた。


「……カルツ社長、説明はいりません。この目でミラル氏を見れば済む話ですから」


 ひびきの一言に助かったとカルツは胸をなで下ろす。それを見てイグニスは満足げに頷き、声を弾ませた。


「楽しみだなあ。今回は『傾国の女神』の取材だから、ひびきちゃんに相応しい題材だ」


 聞いたことのない言葉に、ひびきは小首を傾げてイグニスを見る。


「あの、『傾国の女神』とは一体なんでしょうか?」


「東方じゃあ、あんまり有名じゃないから知らなくて当然か。『傾国の女神』はキネーシャ大陸の北部全般に伝承が存在して、童話のモチーフにされているものなんだ。内容としては、女神を取り合って国が傾いていくっていう話なんだけど……『傾国の女神』の正体は、まだよく分かっていないんだ。実在した人物なのか、何かを例えて呼んだものなのか……何百年も歴史に開きがある別々の遺跡で、同じ『傾国の女神』にまつわる伝承が見つかっているから、ミラルは希少価値の高い宝石じゃないかって言ってたなあ」


 イグニスは一旦息をついてから話を続けた。


「最初はここレフィークスで、クローブ山脈のマニキス山頂上にある遺跡について書かれた文献とかを調べていたんだが……ミラルが急に『早く調べたいから、先に行ってる』って言い出して、さっさと一人で遺跡に行ってしまったんだ。俺がいなかったらアイツ、何をしでかすか分からないから早く行かないと……」


 次第にイグニスの口調が重くなり、自嘲気味な笑いが溢れる。

 話を聞きながら大きく頷いていたカルツが、申し訳なさそうな顔をした。


「イグニス、いつも苦労をかけてごめん。向こうに行ったら、なるべ周りに迷惑をかけないようミラルに伝えてくれないかな?」


「社長、無理を言うなよ。ミラルが取材中に他人へ迷惑かけないなんてこと、まずあり得ないだろ」


 二人の会話からミラルの厄介そうな人柄が見え隠れする。心のどこかで皆が言うほどひどくはないと思っていたが、どうやら認識が甘かったと考え直す。


 愚痴の言い合いになりそうだったところ、カルツが一度言葉を区切り、「ああ、そうだ」と話題を変えた。


「寝台の汽車で行けば、四日でマニキス山のふもとにある村へ着くよ。いつでも出発できるよう切符は手配してあるから……はっ!」


 カルツが慌てて頭を抱えた。


「うわー! 同性だから大丈夫と思ってイグニスと同室に……も、申し訳ない、すぐに別の切符を――」


「手配してもいいけどな、ムダになるだけだぞ? 俺はひびきちゃんと一緒の部屋しか入らないから」


 口調は冗談めいているが、イグニスから本気でそう思っている気配が漂ってきている。そしてここを離れれば、カルツの抑止力も効かなくなる予感もした。


 このままイグニスに振り回されては仕事にならない。ひびきは息を深く吸い込み、腹をくくった。


「私はイグニス先輩と同室でも構いません。何かあれば投げ飛ばして縄で縛り付けて、そのまま引きずって目的地まで向かいますから。良い鍛錬になります」


「えっ……そんな羞恥まみれの苦行、本当にやる気なのか?」


 ひびきは大きな瞳を横に流し、冷や汗を垂らしたイグニスを見ると薄く笑ってみせた。


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