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   勇気が出なくて

 二人の間にランプを置くと、わずかに安堵の表情を浮かべてからイグニスは頭を下げた。


「今まで隠していてごめんな。なるべく人には知られたくないし、それ以前にまず言っても信じてもらえないから黙っていたんだ」


 確かに最初からそんな現実離れしたことを言われても信じられない。言わないのは当然だとひびきは頷く。


「慎重に相手を見極めて話さなければ、取り返しがつかない事態になりかねません。お二人が私に隠し事をしているのは分かっていましたから、信用されていないと悔しく思っていましたが……そういう事情があると分かって、得心がいきました」


 頭を上げたイグニスの目が、申し訳なさそうに細まった。


「本当はマニキス山の遺跡から気を失ったひびきちゃんを連れ帰った時、伝えても良いんじゃないかって思っていたんだ。今までで一番仕事しやすいし、大蛇を見ても冷静に対処していたしさ。だから俺たちのことを言っても、驚くだけで済むような気がしてた」


 一旦口を閉ざし、ひびきの目を見つめる。苦しげに眉根を寄せてから言葉を続けた。


「でも、いざ起きたひびきちゃんの目を見たら怖くなった。その目に拒絶の色が浮かんだら、もう立ち直れないって……ミラルは半分人間だし、人を怖がらせるような力は持っていない。だけど俺は……」


 言いながら段々とイグニスが項垂れていく。横顔から覗く表情はどこか苦しげで、重い悲壮感が漂っている。

 一緒に座っていても見上げなければいけない彼が、今はやけに小さく感じた。


「イグニス先輩が人並み外れた力を持っていることは分かっていますが……それだけではないのですね?」


 ひびきの問いにイグニスは鈍い動きで頷くと、そのまま口をつぐむ。

 どうにか話そうと唇は動きかけるが、かすかに震えるばかりで一向に声は出てこない。


 無理に聞き出そうとすれば、この場から消えてしまいそうな気がしてならない。

 真実を知りたい気持ちよりも気の毒さが勝り、ひびきは意を決して頷いた。


「……分かりました。今までイグニス先輩の正体を知らなくても仕事はできましたから、今すぐ教えてもらわなくても構いません。いつか先輩の覚悟が決まった時に教えて下さい」


 イグニスは力の抜けた目でこちらを見やると、「本当にごめん」と呟き、再び口を閉ざす。


 いつになく気落ちするイグニスが痛々して、見ているこちらも苦しくなってくる。

 少しでも気を取り直してもらいたくて、ひびきはイグニスの顔を覗き込み、目を合わせた。


「断言はできませんが、多分イグニス先輩の正体を知っても私は怖がらないと思います。優れた武術家は己の強さを理解して、身につけた力の怖さを誰よりも知っています。だから強い者ほど己の力を表に出そうとはしませんし、人に優しくなれます」


 ずっとシワが寄っていたイグニスの眉間から力が抜け、意外そうに目を丸くしてこちらを見てきた。一人ぼっちで留守番していた子供のような心細さが、瞳の中に漂っている。


 ひびきは微笑を浮かべると、近くにあったイグニスの手を取り、持ち上げた。


「私が怖いと思うのは、己を知らず、その力を無闇に使う人。……今まで見てきて、イグニス先輩がそんな人ではないことは分かっています。だからどんな姿でも、どんな力を持っていても、怖いとは思いません」


 何度か目を瞬かせると、イグニスが再び目を細めた。


「……俺があまりに醜い化け物だったとしても?」


「はい。いくら外観が変わっても、中身が変わらなければ問題ありません」


 ひびきは間を空けずに言い切ってみせる。そうしなければいけないような気がした。


 静かにイグニスが瞼を閉じ、「……そっか」と呟く。

 ゆっくりと長息を吐き出してから目を開くと、真顔でひびきを見据えた。


「まだ心の準備ができていないから、今すぐには教えられない。でも今回の仕事が終わったら、必ずひびきちゃんに真実を伝える。約束するよ」


 いつになく真剣な声と眼差しに、ひびきの鼓動が一瞬大きく弾ける。

 歯の浮くような口説き文句を並べられるよりも、心が大きく揺さぶられた。


 急に恥ずかしくなり、頬に熱が集まってくる。慌ててひびきはイグニスから手を離し、顔の向きを前に直した。


「は、はい、そう言ってもらえると嬉しいです。……それでは、そろそろ部屋に戻って休ませて頂きます」


「ああ。明日は忙しくなると思うから、しっかり休んだほうがいいよ。俺は区切りのいいところまで仕事してから休むから、気にせず先に寝ていてくれ」


 いつも通りに戻ったイグニスの声に、ひびきは密かに安堵の息を漏らす。

 危うさが消えて良かったと思いつつ、立ち上がろうとすると――。


「あ、ちょっと待ってくれ」


 唐突にイグニスがひびきの手首を掴んできた。


「……何でしょうか?」


 妙な緊張と動悸を悟られまいと、ひびきは努めて平然と尋ねる。

 イグニスは視線を横に逸し、言いにくそうに頬を掻いた。


「これは俺のワガママなんだけれど……その時が来て往生際悪く逃げ出さないよう、キスして欲しい。おやすみのキスでいいから」


 調子に乗って……いる感じじゃない。どうしよう。

 これがいつもの浮ついた調子なら迷うことなく突っぱねるが、あまりに切実な空気が伝わってきてしまい、イグニスの手を振りほどくことができない。


 しばらく考えて、ひびきは腹をくくった。


「昨日は未遂に終わりましたが、一度は覚悟しましたからやりましょう」


 遅くなればなるほど恥ずかしくなってくる。だからさっさと終わらせてしまおう。

 一秒でも早く離れたくて、ひびきは流れる動きでイグニスの頬に両手を添えて顔を近づける。


「え、まさか――」


 イグニスが何か言いかけたが、止まることはできなかった。


 息を止めて、ひびきはわずかに開いた口に唇を重ねる。

 ごくり、とイグニスの喉が鳴り、その振動が伝わってきた。


 思ったよりも嫌悪感はなかったが、動悸が激しくなりすぎて体から力が抜けてくる。羞恥でこのまま階段を転がり落ちてしまいたい気分だった。


 顔を上げて唇を離すと、ひびきはイグニスの顔を見ないよう踵を返し、「おやすみなさい」と言い残して部屋へ戻って行った。

 

 

 

 

 腰を上げることができず、イグニスは虚空を見つめる。

 ようやく我に返った時、頭を抱えてうずくまった。


「どうしよう、頬にしてもらうつもりで言ったのに……」


 おやすみのキスといえば、頬にするものだ。少なくともレフィークスと、その周辺の地域では常識だ。

 ただ、京佳はその習慣がない文化圏。知らないのは仕方ないことだが――。


 ゴメンナサイ、ゴメンナサイと心で延々と呟きながら、申し訳なさと一緒に嬉しさが胸からダダ漏れになっていた。


 しばらく悶絶して落ち着いた頃に、イグニスは口元を押さえて息をついた。


(これで引き返せなくなったな……どんな結果になるとしても、受け止めないと)


 ひびきは外観が酷くなっても恐れないと言ってくれたが、やはりその姿を目の当たりにしたら考えが変わるかもしれない。


 彼女を信じていない訳ではない。

 ただ、受け入れられると期待して、万が一それが叶わなくなった時、自分が耐えられなくなることが怖い。


 けれど乙女の唇は、何よりも重い。

 ここで逃げれば、ひびきの覚悟を無碍にしてしまう。


 勇気が出なくて……という甘えは、もう許されなかった。

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