五章 クッキーを囲んで
ハーマン伯爵の屋敷を出た後、ミラルとひびきは寄り道せずにレスターの家へ戻る。
玄関のドアを開けると、居間のソファーにイグニスとセロ、そしてムートが座って談笑していた。彼女の膝には布を被せた小カゴが乗っている。
「あ、お帰りー二人とも」
ミラルたちの帰宅に気づいたセロが真っ先に声を上げると、ムートがゆっくりと振り向き、優美な微笑みを向けてきた。
「こんにちは。お邪魔しています」
ムートの丁寧な挨拶にひびきが軽く会釈すると、イグニスも振り向き、手をひらひらさせてきた。
「ひびきちゃーん、お疲れさん。早くこっちに来てくれ、ムートさんがクッキーを差し入れてくれたんだ。一緒に食べよう」
クッキーと聞いた瞬間、ミラルの耳がぴくりと動く。
「ちょうど良かったわ! 今すごく甘い物が食べたかったから……アタシ、焼き菓子には目がないのよね」
ミラルは歩幅を大きくして、ソファーに駆け寄る。よほどクッキーが好きなのか、彼女の声と足音がはしゃいでいた。
子供っぽいところもあるんだなと思いながら、ひびきもソファーへ向かう。毎度のごとく、イグニスがソファーを叩いて隣に座れと促してくる。
いつもなら遠慮するのだが、今は彼の隣しか空いていない。諦めてひびきは体がイグニスに密着しないよう、ソファーの端に腰かけた。
「ちょっと待ってて、兄貴たちも呼んでくるから」
セロが立ち上がり、軽快な足取りで二階へ上がっていく。
その間、ムートの隣でミラルがカゴを凝視していた。口元を緩めながらクッキーを眺める顔は、いつになく幼く見える。
しきりにミラルは鼻をクンクンと動かし、ほう、と息をついた。
「いい匂いねー。レスターたちが来る前に一枚食べちゃおうかしら?」
「行儀が悪いぞミラル。少し落ち着け」
呆れるイグニスの視線に、ミラルは「いいじゃない、独り占めする訳じゃないんだから」と唇を尖らせる。
そんな二人のやり取りを、ムートはクスクスと笑いながら慈愛に満ちた眼差しで見つめていた。
二階から疎らな足音が聞こえてくる。先行して一人、せわしない足音を立てて真っ先にこちらへやって来た。
「クッキーどこだ、クッキー。オレ、甘い物に目がないんだ」
この中の誰よりも活発な声のシアに、初対面のムートが驚きで身を後ろに引いた。
「あ、あの、貴女は……」
「見ない顔だな。オレはシア、お前は?」
名前を聞いた途端、ムートは瞳を輝かせて笑顔を取り戻す。
「まあ! 豊穣の女神様と同じ名前ですのね。私はムートと申します。お会い出来て光栄ですわ。シアさんも調査のお手伝いを?」
流石に自分が調査対象だと言う訳にもいかないのだろう。困惑気味にシアの目は泳ぎ、どうやり過ごそうかと言葉を探していた。
「えーっと……うん、そうだな。手伝ってるようなもんだな。なあ、ミラル?」
「そうそう、つい最近レスターの助手になったのよ。シアってば、まだ慣れてないから博士の役立っているか自信がないのよねー」
ぎこちないシアとは対照的に、ミラルはにこやかに助け舟を出す。
普段の二人を知っている者から見れば不自然極まりない。セロやイグニスは笑いを堪えているし、最後に来たレスターは困ったように眉を寄せ、ひびきは人知れずにため息をつく。
ムートは少し不思議そうにシアを見つめていたが、疑う様子を見せず「そうでしたの」と微笑んだ。
「先日パドの森の遺跡へ行かれましたし、これから研究が忙しくなってきますわね、レスター博士」
座る所がなく立ったままのレスターは、急に話を振られ、落ち着きなく頭を掻いた。
「うーん、そ、そうだね。今は情報の照らし合わせをしている最中だから、しばらくは部屋にこもりっきりだよ」
「私にもっと教養があれば、研究のお手伝いができるでしょうに……こんな差し入れをすることしか出来なくて……」
レスターを見上げながら話すムートの頬が、心なしか赤くなる。慌ててパッと視線を外し、彼女は布を取り外したカゴを差し出した。
「どうぞみなさん、召し上がって下さい」
「「よっしゃー、いただき!」」
妙に高揚したミラルとシアが同時に歓声を上げると、我先にとクッキーへ手を伸ばす。
じゃらり。何枚もクッキーをつかんだシアの手首で、ひびきたちが見慣れてしまった手枷の鎖が揺れた。
「あの、シアさん……その手首についている物は?」
初めて見る者なら誰でも驚くだろう。ムートが目を点にする。
「え? えーと、えーと、飾り。飾りだ。腕輪なんかと一緒だ。カッコイイだろ?」
シアの苦しい説明にムートは首を傾げるばかりだったが、装飾品ということでどうにか納得してくれた。
他の人がクッキーを取り終わったのを見計らい、ひびきはゆっくりとカゴに手を伸ばそうとする。と、
「ひびきちゃん、ちょっとこっち向いて」
隣から浮足立った声のイグニスに話しかけられる。嫌な予感はしたが、渋々ひびきは横を向く。
目の前には丸いクッキーと、それを素手でつまんだイグニスの指先が、こちらに向けられていた。
「はい、お口開けて。あーん」
……ああ、そうだった。シアの力に気を取られていたから忘れていた。
ひびきは呆れ半分に目を据わらせ、冷ややかに見つめる。
「一人で食べられますから結構です」
即座に断るひびきにめげず、イグニスは空いている手で己を指差した。
「じゃあひびきちゃんの手から俺に食べさせて欲しいなあ。お願い、一枚だけでいいから!」
両手を組みながら、こちらへ顔を近づけてくる。
いっそこのまま彼の顎に拳を突き上げてしまいたい。そんな衝動にひびきは駆られてしまう。
しかし次の瞬間、背筋に緊張が走った。
口元では人当たりの良い微笑を浮かべているが、イグニスの目は笑っていない。
真っ直ぐにこちらの瞳を見つめてから、導くようにイグニスの瞳が横へ流れる。つられてひびきも視線を送る。
イグニスが見たのは玄関だった。
この場に流れる穏やかな空気とは異質な、鋭く張り詰めた気配が外から漂っている。
「少しだけ、この場を任せてもいいかな?」
何を任せるつもりなのか、ひびきには察しがついた。短く頷いて了承すると、イグニスは「ありがとう」と片目をつむった。
「ミラル、俺に用事があるんじゃないか?」
「ふぇ? ……んぐ。ああそうね、ちょっと二階へ来てくれる?」
咥えていたクッキーを前歯でボリボリかじり尽してから、ミラルは立ち上がる。それから豪快にカゴから何枚もクッキーを鷲掴みすると、新たに口へ放り込みつつ歩き出す。
イグニスも立ち上がり、足を大きく開いてミラルについて行く。自然な振る舞いだが普段よりも動きは早い。
二人が二階へ上がるのを見やってから、ひびきはレスターたちに顔を向ける。そして話を聞きながらも、意識を玄関に向け続けた。
ぎっ……。扉の向こう側から物音が聞こえた。