一章 ヒューリット出版社へ
キネーシャ大陸の中央よりも南で先細っている半島が、タルゴン共和国だった。
両脇を海に挟まれたおかげで、東西の海から貿易船が活発に出入りしている。中でもレフィークスは半島の最南端に位置し、交易の中継点として最も賑わっていた。
街の海沿いは交易船に占領されていたが、内陸へ入れば石畳の大通りに沿って、レンガ造りの店が軒を連ねている。市民だけでなく、物を買い付ける商人や、異国の船乗りたちも通りを往来し、街の雑踏を盛り上げていた。
いくつも道が交じり合う広場では、噴水が絶え間なく水を吐き、人々の心を水のおしゃべりで和ませている。
ひびきは広場の木陰に足をとめ、手荷物を置いて辺りを見渡した。
(この近くにヒューリット出版があると聞いたけれど、分かるかな?)
父の話では、この広場に面した横長の二階建ての建物で、周囲と比べて古しい佇まいらしい。壁は乳白色で、赤レンガの土台の上に建てられているのも特徴だ。
どの建物なのか分かるか心配だったが、すぐに該当する建物を見つけ出す。
近づいてみると、所々にあるレンガの黒ずみが視界に入り、浅い歴史ではないことを物語っていた。
そして透けないガラス扉の入り口の横に、『ヒューリット出版社』と彫られた青銅の看板が立て掛けられていた。
(ここにミラル氏がいるのか。どんな人なのだろう? 汽車の中で本を何冊か読んだけれど――)
建物を見上げながら、ひびきは京佳を出立してから汽車の中で読んだミラルの著書を思い出す。
内容が濃かったのは、各地の伝説にまつわる数々の怪物の実態を書き綴った短編集、『世界の伝承三十選』。怪物たちが活き活きと書かれており、何度読んでも飽きがこなかった。
自分が持っていた本の中で一番印象に残っていたのは、初期の作品で子供向けに書かれた絵本『ひとりぼっちのはらぺこ魔神』。
何を食べても飢え続けてしまう魔神の物語。世の中すべてを食べ尽くしかねないと恐れた神々に封印され、ずっと暗い洞窟でひとりぼっち。そして時は流れ、一人の人間と出会い、飢えに耐えながら外へ出て生きていく決意をする、という所で終わっていた。
続編が出るだろうと期待していたが、残念ながら今現在まで続きは出版されていない。
最も胸が躍った作品は『オーディー~眠れる街~』。
廃墟と化していたオーディーという街を探検し、わずかに残る古代の記憶を探りながら、街の秘密を暴いていくという上下巻の長編小説。最終的には地下に眠る魔法を見つけ出し、発動させてみると街が空に飛んで行ってしまうというものだった。
この時、街と一緒に空を飛んだ主人公だったが、同行者を下に置いていってしまい、再会するまでに一ヶ月かかったという後日談の外伝も出ている。
レフィークスに到着する直前まで読んでいたのは、『精霊の乳母』という物語。
精霊を育てる妖精ラミュリスが人間と恋に落ち、妖精たちの猛反対を受けながらも、愛を育み、彼との子供を産んだ。それから――というところで汽車を降りることになったので、この話は途中になっている。
読んでいると元気になれる本もあれば、しんみりしてしまう本もあり内容は多彩だ。
そして描かれている主人公の大半は『私』であり、その姿は描写されていない。その代わり『私』を守る同行者が多く描写されている。
背が高くて長い銀髪の、褐色の肌をした青年。『私』が危ない状況に陥ると、さっさと彼を置いて逃げるという描写が山ほど出てくる。そんな彼を見る度に、苦労に負けるなと応援していた。
あちこちを取材しているというなら、少しは作り話ではなく実体験も含まれているだろう。
そう考えていくと、ミラルについてくことが本当に過酷なのだと実感できた。
(……私が物心ついた頃には本を出して、今も現役で活躍されている。しかも秘境を飛び回る体力がある。きっと冒険者顔負けの、たくましい男性なのだろう)
自分よりも遥かに大きく屈強な中年男を想像して、ひびきは負けていられないと気を引き締めた。
意を決して、ひびきはヒューリット出版の扉を開ける。
艶やかで光沢のある青磁色の床が、吹き抜けのホールから奥の廊下まで続いている。
そして、腕を組みながら壁に寄りかかり、虚空を見上げる一人の青年がひびきの目にとまった。
大きな背丈に相応しい、長く伸びた四肢に褐色の肌。腰まで伸びたコシのある銀髪が、より青年の体を長く見せている。
鼻は高く、京佳では見たことのない顔の彫りの深さ。色眼鏡をかけており、瞳の色までは分からない。
初めて見た人なのに、すごく馴染み深い。
ミラルの本に出てくる同行者が、そのまま現実に出てきてしまった――そんな気がして、ひびきは思わず棒立ちになってその青年を見つめた。
視線に気づいた青年は腕組みを解くと、こちらに近づいてきた。露わになった黒の革手袋をはめた手が気になって、目が離せない。
「珍しいなー、こんな殺風景で潤いのない所に可愛いお嬢さんが来るなんて」
青年が指で色眼鏡をわずかに下へずらして切れ長の目と濃紫の瞳を覗かせると、腰を屈めて顔の高さを合わせてくる。
「見たところ東方の人みたいだけれど、もしかして迷子? ご両親とはどこではぐれたんだい?」
明らかに自分を小さな子供と勘違いしている。京佳にいた頃からよく間違われていたが、未だに受け入れられない。
……そんなに私は子供に見えるのか。
内心密かに肩を落としてから、ひびきは首を横に振った。
「違います。私の父のご友人から、ミラル氏の臨時の雑用係になって欲しいと要請を受けて来ました」
ひびきの淡々とした声に、青年は小首を傾げる。
「お嬢さんが?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「本当のホントの本っっっっ当に? 実は家出して来たから、嘘ついているってことはない?」
「……本当です」
そんなに信じられないのかと、ひびきが半ば呆れ返っていると……。
「よっしゃー! 武術道場から人が来るっていうから、どんなムサい野郎かと思ってうんざりしていたんだ。まさかこんな美人さんが来てくれるなんて……ああ、生きてて良かった」
青年は両手に握り拳を作り、天井を仰いで恍惚の表情を浮かべる。色眼鏡から覗く瞳が妙に輝いていた。
ふと我に返って、青年はひびきに顔を向け直す。
「さて可愛いお嬢さん、お名前は?」
なんて軽い人なんだろうと抵抗感を覚えつつ、ひびきは口を開く。
「筧 峰太の娘、ひびきと申します」
「ひびきちゃんかあ、良い名前だな。俺はイグニス・ラーフ。ミラルの担当をしている……まあ原稿の推敲以外は雑用ばっかりだから、雑用の先輩ってことで何でも聞いてくれ」
ミラルの担当で、本に出てきた通りの外見。
間違いなく彼が元になった人物なのだろう。だとすれば、軽くて軟派そうに見えるが、かなりの苦労人に違いない。
そんなことを考えながらイグニスを見上げていると、彼は右手の手袋を脱いで差し出した。
「これからよろしく、ひびきちゃん。分からないことがあれば何でも教えるし、仕事抜きのお誘いも大歓迎だから遠慮しないでくれよ」
……ちょっと苦手かもしれない、この人。
最後の言葉は聞かなかったことにして、ひびきも右手を差し出す。
「未熟者ですが、これからよろしくお願いします」
こちらが言い終わらない内に、イグニスがひびきの手をグッと握ってくる。
自分よりも遥かに大きな手。握り返そうにも指がうまく掛からず力が入らない。
これだけ体格差があれば子供扱いされて当然だと、ひびきが心の中でため息をついていると、イグニスから感嘆の声が漏れた。
「へえー、さすがは武術道場の娘さんだ。見かけよりもたくましいじゃないか。これならミラルについていける」
「手を握っただけで、そこまで分かるのですか?」
ひびきが驚いて目を丸くしていると、イグニスはフッと薄く笑った。
「そう、分かっちゃうんだよー俺。どうして分かるか知りたい? キスしてくれるなら教えてもいいけれど」
……ちょっとどころじゃない。一番苦手な人種だ。
ひびきは目を据わらせ、一切の表情を無くす。
「結構です。手を放して下さい」
「残念。いつも無骨な野郎共の手ばっかり握るから、もっと触っていたかったのに」
何度か親指でひびきの手をなでてから、イグニスはようやく手を放す。
汽車に乗っていた時も、そこそこ重い手荷物を持ち運んでいても、たいして疲れは感じなかった。なのに少しイグニスと知り合っただけで、ひびきの両肩に重い疲れの塊がのしかかってくる。
まだミラル本人とも会っていないのに、この調子では先が思いやられる。
ひびきは軽い目眩を感じながら、気を取り直してイグニスに尋ねた。
「イグニスさん、ミラルさんはこちらにいらっしゃるのですか? 早くお会いして挨拶したいのですが……」
「そんな畏まらなくてもいいし、呼び捨てで構わないよ。これから寝食を共にする仲間になるんだしさ」
目上の男性を呼び捨てにする――京佳ではあり得ないことだ。いくら文化の違いがあるとしても、抵抗感が強すぎて受け入れられない。かと言って、再び敬称を付けるのも失礼だ。
ひびきが頭を悩ませていると、イグニスは「ちなみに」と言葉を続けた。
「ミラルはここにはいない。今回は取材先の遺跡で合流することになってるんだ。詳しいことは社長が教えてくれる」
「分かりました、イグニス……先輩」
本人が雑用の先輩だと言ったのだから、そう呼んでもおかしくないだろう。
イグニスは一瞬きょとんとなってから、小さく吹き出した。
「ひびきちゃんが呼びやすいように呼んでくれればいいよ……さあ、社長の所に案内するから、俺についてきてくれ」
おもむろに踵を返したイグニスへ、ひびきは「はい」と頷き、彼の後ろに続いた。