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   女神の恩恵

 ひびきが焦っていると、イグニスが小さく息をついて苦笑を浮かべた。


「本当にそうだったら嬉し過ぎて死にそうだけど……残念、違うんだな。ちょうどひびきちゃんに、俺の顔の傷を見てもらっていたんだ。な?」


 同意を求められて、ひびきは何度も頷いた。


「そ、そうです。穴に落ちた際にイグニス先輩が傷を負ってしまったので、傷が深くないかを確かめようとしていたところです」


「本当に? かなり妖しい雰囲気だったんだけどねー」


 ミラルがにやけたまま目を細め、生温かい目でこちらを見てくる。明らかに納得していない。

 と、ミラルの隣に並んだシアが手すりに肘をつき、イグニスの顔をまじまじと見た。


「ふーん。それぐらいの傷なら今すぐ治るから、あんまり心配しなくてもいいぞ」


 ……いくらかすり傷でも、今すぐ治るものじゃないのに。

 こういった認識が、人と神のズレなのかもしれない。自分だけでなく、イグニスとミラルもそう感じたらしく、二人とも釈然としない表情を浮かべている。


 三人を代表するように、ミラルがシアにつっこんだ。


「今すぐって……流石に無理よ。神様じゃないんだから、そんなに早く治らないわ」


 その通りだと心で頷きながら、ひびきは今の内に既成事実を作ってしまおうと、イグニスの顔の傷を見る。


 すると――見る見る内に傷は消え、元の肌に戻っていった。


(……えっ?!)


 思わずひびきが目を見張ると、それに気づいたイグニスが小首を傾げた。


「どうかしたのか、ひびきちゃん?」


「はい。あの……傷が目の前で、完全に消えました」


 信じられないものを見てしまい、ひびきの目が点になる。

 一瞬固まってから「マジで?!」とイグニスはギョッとなり、急いで自分の頬を撫でる。


「……本当だ、傷が無くなってる。いくら俺でも傷の治りは他のヤツと変わらないのに」


 二人して困惑が隠せず首を傾げていると、ミラルがバタバタと慌ただしく階段を下りてイグニスの元へ駆け寄る。

 顔を近づけイグニスの顔を凝視してから、ミラルは目を丸くした。


「ここに二人が戻って来た時、傷があったのは見たけれど……アタシの見間違い? でも、ひびきも見てるし……うーん」


 ミラルが腕を組み、眉間にシワを寄せて唸る。

 誰もが驚きで首を傾げていたが、ミラルに遅れて下りてきたシアだけは、各々を不思議そうな目で見ていた。


「何を驚いているんだ? これぐらいフツーだぞ」


「普通じゃないわよ。女神はそうかもしれないけれど、人間はこんな目に見える早さで傷なんか治らないわよ」


 呆れたような息をついてミラルが肩をすくめると、シアはニッと口端を上げた。


「オレの周りにいれば必ずそうなる。オレが誰なのか忘れたのか?」


 シアが腰に手を当て、得意気に胸を張る。


「確実に豊穣を約束するからこそ、オレは豊穣の女神と呼ばれたんだ。作物が立派に育つように、どれだけ収穫しても土が痩せないように、オレの周りには再生の力が働くようになっている。流石に病気は直せなかったが、傷ぐらいだったら簡単に治せる……てっきりオマエらは知ってるものだと思ってたぜ」


 さも当然と言い切るシアに、ひびきの目が釘付けになる。


 再生の力――目の前で見てしまったからには認めざるを得ない。

 シアが本当の女神だということを。


 それでも現実味が持てずに戸惑っていると、ふと脳裏に王の墓に巻きついていた大蛇が浮かんだ。


「もしかして、パドの森にいた大蛇はシアの力を受けて大きくなったのですか?」


「アドゥークであんな大蛇見たことないから、多分そうだろうな。オレの近くにいるほど、再生の力はよく働くから十分にあり得る。まあ何百年も同じ場所に留まったことないから、確信はないけどな」


 シアの話を聞いて、ミラルが顎に手を当てて感慨深そうに唸る。


「つまり、あの蛇が女神の恩恵を一番受けてたってことね。そりゃあ規格外の大きさにもなるわ。……ん? ということは――」


 独り言を呟くミラルの口元が、段々と引きつってくる。

 一体どうしたのだろうかとひびきが声をかけようとした時、奥の部屋から毛布と薬箱を持ったセロが現れた。


「もう一枚毛布かけた方が、ひびきも早く温まるんじゃあ……あれ? もう起きたんだ。元気そうで良かったね、イグニスさん」


 事態をまったく知らないセロはニコニコと嬉しそうに目を細めると、イグニスの元へ近づいた。


「今から顔に傷薬を塗るけど、しみたらゴメン……って、えええっ?! 何で傷が無くなってるの? うわー……ここ数日、近所のじーさんが手を切ったのにその日の内に治ったとか、おばちゃんが料理作っていて火傷したのに薬を塗る前に治ったとか噂になってるけど、本当にそんなことってあるんだ」


 目を丸くしながら興味津々にイグニスを見るセロへ、ミラルが「……ねえ」と、いつもより低い声で呼びかける。


「その噂、どこまで広がってるか分かる?」


「んー……少なくとも、この近所にいる人はみんな知ってるよ。あと、酒場に通ってるおっちゃんが得意気に話してるみたいだから、もう街中に広がってるかもね」


 セロの話を聴き終えた直後、ミラルが大きく息をついた。場の空気に少しずつ重みが加わってくる。

 不思議そうに首を傾げるセロへ、イグニスが笑いかけた。


「わざわざ持ってきてくれたのに悪いけれど、片付けさせてもらって良いかな? 俺が運ぶから、どこに置けばいいか教えてくれ」


「気を遣わなくてもいいよ、俺が片付けておくからさ。……ひびきは毛布、まだ使う?」


 セロに尋ねられ、ひびきは首を横に振る。


「もう体は温まりましたから大丈夫です。貸して頂いてありがとうございました」


 伸ばしていた脚を床へ降ろし、毛布を折り畳んで差し出す。

 それを手にして二人分の毛布を持ち直すと、セロは「もうすぐ夕食だから」と言い残して奥の部屋へと消えていった。


 セロの姿が見えなくなるのを見計らい、ミラルがおもむろにひびきの背後へ回る。そしてシアに目配せして、こっちへ来いと手招きした。

 何を言われるのか察しはついているのか、シアは真剣な面持ちで近づいてきた。


 ひびきを取り囲むような形になったところで、ミラルが小さな声で話を切り出した。


「はーい、こっちに注目。……セロの言った通り、多分もう街中に噂が広がってると思うわ。もしかしたら、ハーマン伯爵の耳にも入っている可能性大ね」


「ハーマン伯爵って誰だ?」


 同じように声を潜めて質問するシアへ、ミラルは瞳を流す。


「アタシと同じく『傾国の女神』を狙ってる、かなり趣味の悪い好事家よ。きっとシアの正体が分かれば、どんな手を使ってでも捕らえて、人に知られないよう閉じ込めるでしょうね。アデル王以外の為政者が、貴女にしてきたことと同じように――」


 シアは目を丸くすると、心底嫌そうに表情を歪めた。


「冗談じゃない! 外の景色が見たいっていうささやかな望みさえ叶わないんだぜ? 

あんなつまらなくて、虚しくて、窮屈な日々に戻るなんて、絶っっっっ対に嫌だ」


 鋭くなったシアの瞳の奥が、怯えと心細さで揺らいでいる。

 と、顔つきを引き締めたイグニスが、眼差しを強めてシアを見据えた。


「一度でも自由を知ったら、もう昔になんか戻りたくないよな。戻るくらいならいっそ死んだほうがマシ……その気持ち、俺にもよく分かる」


 ひびきは横目でイグニスを見やる。

 彼もずっと閉じ込められていた時期があるのだろうか? 暗所恐怖症になるくらい、暗闇の中で心細さや恐れと戦いながら。

 

 虚を突かれたように目を見開いたシアと見つめ合った後、イグニスはミラルに顔を向け直した。


「ミラル、これからどうする? 今回はいつもより補助が期待できるから、俺も遠慮なく動けるぞ」


 小声ながら力強いイグニスの声に、ミラルが大きく頷く。


「分かってるわよ。アタシだって、ひびきが居てくれるおかげで選べる選択肢が多くて助かってるもの。心置きなくアンタを使える機会なんて滅多にないものね。さて、どう動けばいいかしら?」


 手で口元を抑え、ミラルは小さく唸りながら思案し始める。

 時折ボソボソと聞き取りにくい声で何かを呟いたり、眉根を寄せたり――。


 ――唐突に、ハッとした顔で虚空を見上げる。

 そして「んふふふふー」という不穏な笑いが漏れた。


「相手の出方を伺うよりも、こっちから動いて先手を取った方が、面白くなるように仕向けられるわね。よし、決めたわ」


 ミラルは真っ先にひびきへ目を向けると、爽やかな笑顔を作り、ポンと肩を叩いた。


「明日ハーマン伯爵の所へ話をしに行くから、ひびきだけ一緒に来て。イグニスはここで待機よ」


 まずい。この笑顔をする時は、何か厄介なことを企んでいる時だ。

 このまま受け入れてもいいのだろうかとひびきが戸惑っていると、ミラルの気配をいち早く察したイグニスが眉根を寄せた。


「何をしに行く気なんだ? まさかケンカでも売ってくるつもりか?」


 訝しげに尋ねるイグニスへ、ミラルはこっくり頷いた。


「そのまさかよ。女二人で行ったほうが伯爵も侮ってくれるだろうし、力でどうにかできると思ってもらえるハズ。いつ動くかを待ってる時間も惜しいし、近々動くって分かってるほうが対処もしやすいわ」


 そう言うなり、ひびきの肩をポンと叩いた。


「詳しいことは考え中だけれど、これから忙しくなってくると思うから覚悟してね。頼りにしてるわよー」


 ……頼りにしてもらえるのは嬉しいけれど、相手を無闇に挑発するのはいただけない。

 仕事のためだと割り切れないが、こうなったミラルを止めることは誰にもできない。


 ひびきは内心頭を抱えながら、どう見ても厄介事を起こす気満々のミラルを見つめ続けた。


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