一度やれば二度も同じ
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ばさり。体に毛布をかけられた音と感触で、ひびきは目を覚ます。
ゆっくり目を開くと、見慣れた吹き抜けの部屋が目前に広がった。視界の端では、間近になったソファーの背もたれが見える。
少しボーッとしてから、自分がレスター博士の家に戻って、居間のソファーに寝かされているのだと理解した。
瞳を泳がして窓の外を見ると、空は茜色に染まりかけるところだった。
まだ日が沈んでいないことにひびきは驚き、意識がハッキリとした。
(あそこから脱出して、私を抱えてマニキス山を降りてここまで戻るなんて……どうすればこんなに早くできるんだろうか? やっぱり凄いな、あの人は……)
いくら例の板と大凧を駆使して山を下りたとしても、ここへ到着するのは早くても夕方ぐらいになる。しかも、いくら小柄で軽いとはいえ、人一人を抱えて下山するのは容易ではない。
一体どういう方法でここまで来たのか、気になって仕方がない。すぐにイグニスから話を聞きたくて、ひびきは体を起こそうとする。
が、体は鉛のように重く、思い通りに動かない。起き上がることができない自分に落胆し、長息を吐き出した。
ギッギッギッ。誰かが足早に近づいてくる。
ソファーの背もたれから、大きな人影がヌッと現れた。
「ひびきちゃん、もう気がついたのか?!」
勢いよく身を乗り出したイグニスが、目を丸くしながらひびきを見下ろす。
また驚かれていることに違和感を覚えながら、ひびきは「はい」と答える。
それを聞いた瞬間、イグニスの表情が安堵の笑みで崩れた。
「あー、良かった。このまま目が覚めなかったらどうしようかって心配してたんだ。本当にひびきちゃんの底なしの体力には脱帽するよ」
……倒れた人間に使うような褒め言葉じゃない。
納得できずにひびきが浮かない顔をすると、イグニスは苦笑を浮かべ、回り込んでソファーの端に座った。
「気分はどう? 寒くないか?」
「体が少し気だるいだけで、それ以外は問題ありません。心配をおかけしました」
「そっか、ちょっと残念だな。寒いなら俺が人肌でひびきちゃんを温めてあげようと思ったのに」
いつもの冗談にしては、妙に切実な気配が混じっている。こちらが寒いと答えたら、絶対に実行していた気がする。
これさえなければ父の次に尊敬したい人なのに……と、ひびきは頬を引きつらせる。
気を取り直して、イグニスへ気になっていたことを尋ねてみた。
「一つお聞きしたいのですが、どうやってイグニス先輩はここまで戻ってきたのですか?」
「君を背中に担いで、例の道具を使って空を飛びながら、滑って転びそうになりながらふもとまで下りて、ここまで一気に走ってきたんだ。ついさっき着いたばかりだよ」
肩をすくめながら答えるイグニスの目を、ひびきは真っ直ぐに見つめる。
規格外の人だから、本気を出せば不可能ではない内容なのかもしれない。けれど――。
ひびきは目に力を入れ、再度尋ねた。
「あの穴から壁を登らずに、どんな方法で脱出したのですか? イグニス先輩の力があれば普通の人よりも高く跳べると思いますが、それでもあの高さは無理だと……すごく気になるので、教えて頂けませんか?」
一瞬、イグニスの目が泳ぐ。
「え、いや、その……カッコ悪い話だけど、確実に帰りたかったから、やっぱり壁を登って脱出した――」
「壁を登ったということは、両手は塞がっていたということですよね? しかも私を担ぎながらの上に暗所恐怖症なのに、ランプも持たずどうやって壁を登ったのですか?」
あの怯え方を見た以上、暗所恐怖症は嘘ではないと確信している。つまり、壁を登って脱出したことが嘘としか思えない。
どうしてこんなことで嘘を?
そう思った瞬間、ひびきの中で少しずつ積もってきた違和感が囁いてくる。
イグニスとミラル――二人が自分に何かを隠しているのだ、と。
ひびきが答えを待っていると、イグニスは小さくため息をつき、目を細め、妖しげな笑みを浮かべてこちらを見下ろした。
「タダで教えるのはちょっとなあ……ひびきちゃんから俺にキスしてくれるなら、教えてあげても良いけれど」
身の危険を薄々と感じながらも、ひびきはイグニスを見据え続ける。
最初の頃なら、単なる軽薄で遊び慣れた人だと軽蔑するだけで終わっていたと断言できる。
けれど、今なら分かる。
こう言えば絶対に引き下がるだろうと考えて、イグニスはわざと言っている。
腹立たしさよりも、仕事を共にする相手として認めてもらえていない気がして、じんわりとした悔しさと悲しさが胸に浮かんでいた。
軽く目を閉じて腹をくくると、ひびきは全身に力を入れ、鈍い動きで上体を起こした。
「分かりました。やらせて頂きます」
「……へ?」
すぐに何を言われたのか理解できなかったらしく、イグニスが目を激しく瞬かせる。
そして自分の頬をつねったり、頭を小突いたりして「夢じゃないよな」と呟くと、ひびきと目を合わせた。
「ひ、ひびきちゃん、本気で言ってるのか? 乙女の唇は安易に許すものじゃないよ。考え直した方が……」
「許すも何も、既に奪われていますから。一度してしまったなら、二度やっても同じだと思ったので……さあイグニス先輩、どこにすれば良いですか?」
ひびきは視線を逸らさず、自分は引き下がる気はないと暗に伝える。
狼狽気味にイグニスの瞳が揺らぎ――ゴホン、と咳払いをしてから、こちらに顔を近づけた。
「じゃあ……遠慮なく、唇に」
イグニスが神妙な面持ちで瞼を閉じる。
さっさと済ませてしまおうと、ひびきはイグニスの頬に手を添え、顔を寄せていった。
あと少しで触れそうになる所で、動きを止める。
一度でも二度でも同じ。
そう頭では割り切っていても、心の動揺は鎮まるどころか荒ぶる一方だ。
考えなしに軽率な判断をして、取り返しのつかないことをしかけている気がする。
今ならまだ引き下がれる。むしろ彼はそれを望んでいるのだから、このまま引けばうやむやに終わらせることができる。
勇気が持てず、あと一歩踏み込めない。
けれど、この仕事を続けていくなら知らなければいけない。
そして何よりも、とにかく知りたいという思いが抑え切れなかった。
意を決してひびきが口付けようとすると――。
「ちょっと待ったぁ!」
不意打ちに、二階からミラルの声が飛んでくる。
ほぼ同時にひびきとイグニスの肩が大きく跳ねる。慌てて二階を見上げると、ミラルが手すりから身を乗り出し、不満そうに唇を尖らせていた。
「いくら何でも展開が早過ぎよ。もっとゆっくり仲を深めてくれないと、ネタが稼げないじゃない! まったく、両思いになるまでの展開が一番面白いのに、色々とすっ飛ばしちゃって……」
「ち、違います! これはそういうものではありません」
反射的にひびきがイグニスから離れて否定すると、ミラルは「んふふふふー」とにやけた。
「えー? 顔近づけて手まで添えちゃってさ、どう見ても今からキスするようにしか見えなかったんですけどー?」
からかい半分のわざとらしい声の後ろから、ドアが開く音と「おっ? 何だ何だ?」というシアの声が聞こえてくる。
(いけない、早く誤解を解かないと……)
驚きと恥ずかしさで、ひびきの動悸が激しさを増す。
どう伝えれば良いのだろうかと考えたいのに、頭の中も混乱して言葉が出てこなかった。




