四章 再びマニキス山へ
マニキス山の北側は、南側に比べて山道は細く険しい上に、勾配が急だった。
残雪も山のふもとから道の脇に残っており、歩くたびに靴底でジャリッと硬い音が鳴る。
道が崩れて崖のようになっている所もあれば、木の枝が好き放題に伸びて遮っている所もあり、滅多に人が来ないことは容易に想像できた。
そんな過酷な山道を、軽快に進んでいく影が二つ。
先頭を進んでいたイグニスが、チラリと後方のひびきへ振り返った。
「ひびきちゃん、大丈夫か? もし辛かったらゆっくり行くし、荷物も持つけれど……」
「問題ありません。むしろもっと早くても、荷物が増えても大丈夫です」
平然とした顔でひびきが返事をする。
その右手には荷袋を、左手には黒いベルトがついた板二枚を抱えていた。
対してイグニスは両手にいつもの革手袋がはめられているだけで、荷物は何もなかった。
彼の背中から申し訳なさそうな空気が色濃く漂っている。
何か言いたげに口をまごつかせていたが、前に向き直ってイグニスは大きく息をついた。
「いくらひびきちゃんの望みとはいえ、これ絶対に俺への罰になってないと思うんだけど……」
今朝の寝起きの一件でイグニスが、「俺に罰を与えてくれ。どんな無茶な要求でも必ず呑むから」と言って引き下がらないので、ひびきは密かに望んでいたことを提案した。
鍛錬のために、荷物を全部持たせて欲しい。
そして出来る限り早くマニキス山へ登りたい、と。
傍からは罰を受けているのはこちらだと見られるだろうが、それでもこれしか望みが浮かばなかったのだから仕方がない。
未だに納得していないイグニスへ、ひびきは「気にしないで下さい」と言い切った。
「なるべく体が鈍らないように折を見て鍛錬をしていますが、やはり長時間体に負荷をかける鍛錬がやりたかったんです。それに――」
もう一つの理由を言いかけそうになり、咄嗟に口をつぐむ。
鍛錬のためということが本命だが、今朝のことを思い返さないために、あえて自分を過酷な状況に追い込みたかったからという思いもあった。
こちらの態度がギクシャクして、仕事に支障を出さないための苦肉の策だった。
イグニスがもう一度こちらへ振り返り、目を細めて微笑みかけた。
「もし他の望みがあったら、何でも言ってくれよ。欲張っていっぱい言ってくれても良いから。そのほうが罪滅ぼしになると思うし……」
こちらを気遣いながら反省しているのは分かるが、むしろ忘れて欲しい。
そんな本音を言おうものなら、余計に気にして延々と引きずることが容易に想像できる。
ひびきは小さく息をつくと、荷物を抱え直してから口を開いた。
「あの……私はもう気にしていませんから、イグニス先輩も気にしないで下さい」
「えっ、そうなの? いや、でも――」
「よくよく考えてみたら道場で手合わせの際、相手へ突撃してもみ合っている内に、頭突きと同時に双方の唇がぶつかるという事故を何度か見ています。それと同じだと思えば、今回の一件もさして騒ぐほどのことではないと思います」
思いついたことを言っている内に、段々と動揺が治まらなかった心が落ち着いていく。
これで気持ちを切り替えられるとひびきが安堵していると、イグニスが口元を引きつらせた。
「……確かに似たようなものだけれど、その例えはなんか嫌だなあ。道場にいたのはほとんど男なんだろ?」
「はい。私以外は全員男性でした」
「悲惨過ぎる……あの感触は事故でもなかなか割り切れないぞ。俺だって、かなり昔にそんなことがあったけれど、未だに思い出すと背筋がゾワゾワする。一生この感覚から逃げられないと思うと憂鬱になってくるよ」
急にイグニスの歩みが遅くなり、頭を抱えて項垂れる。
ひょっとして……と、ひびきはおもむろに尋ねてみた。
「もしかして今回みたいなことを、私以外の雑用をしていた人にもしてしまったことがあるのですか?」
「そう……そうなんだ。起きたらおっさんの唇奪ってたなんて、今まで生きてた中で最悪の目覚めだったよ。ほんのり汗臭いし、硬くてゴツい体の割には妙に唇は柔らかかったし――」
落ち込んだ声で、イグニスが気の毒な過去を延々と話し続ける。
その不憫な不幸話に、時折ひびきは相槌を打ち、同情心をさらに膨らませていった。
ようやく話が止まったのは――まだ話は途中だったが――遺跡に到着した時だった。
ずっと肩を落とし続けていたイグニスが背筋を正す。
「さてと、気持ちを切り替えていかないとな。ミラルの話だと隠し部屋があるらしいから、できれば見つけて調査したい。ひびきちゃんにも手伝ってもらうよ。特に蛇の絵が描かれている所を念入りに調べて欲しい」
仕事に関することなら、完全に気持ちを切り替えられるのは頼もしい。
ひびきはイグニスの隣に並ぶと、久しぶりに目を合わせた。
「分かりました。見落とさないよう、慎重に調べていきます」
意外そうに眉を上げてから、イグニスが表情を崩した。
「ひびきちゃんがいてくれて助かるよ。あっ、そうだ。もし早く終わって夕食前に戻れたら、手合わせするから」
「……全神経を集中させて、速やかに全力で調べます」
念願だった手合わせができる。そう思った瞬間、ひびきの胸は高揚し、我知らず拳をギュッと握っていた。
イグニスが小さく吹き出し、「今までになく目が輝いてる」と笑いを堪えながら呟いていた。