知人からの頼まれ事
キネーシャ大陸の最東端の国・京佳は、どの場所から見渡しても必ず山や森が目に入る自然豊かな国だった。
木造の家屋が集まる街中でも、道に沿って青々とした木が並び、ほんの少し道の脇に入れば手軽に山の幸が取れる。
自然豊かと言えば聞こえはいいが、発展途上の不便な地でもあった。
そんな京佳の首都から南方に広がる大森林の入り口に、重厚感ある黒い屋根瓦の大きな道場があった。
絶え間なく辺りに響く、「せいっ」「やあっ」という低く威勢のよい声。
だん、だだだだだっ、という力強く駆ける音。
そよ風がなびく涼やかな外にまで、道場から生み出された熱気が溢れ出ている。
道場の中では白の拳法着をまとった少年や青年たちが、武術の鍛錬に精を出していた。
隅のほうでは個人で腕立て伏せをしたり、型の練習をしており、中央では数組が模擬の対戦を行なっている。
この男ばかりの中に、「手合わせ、お願いします」と高く澄んだ声が響いた。
この場にいる誰よりも背が低く、華奢な体躯の少女がひとり。
目前の青年に深々と一礼すると、短い黒髪がさらりと動いた。
頭を上げて息を整えてから、少女は腰を落として構えを取る。そして大きな漆黒の瞳で、同じように構える青年を見据えた。
自分よりも遥かに高い背丈に、骨太の立派な体。不利なのは百も承知だが、恐れは微塵もなかった。
青年が力強く「応!」と声を張り上げ、それを合図に前へ駆け出す。
わずかに少女が上体の重心を後ろへ取る間に、二人の距離は縮まった。
大きな拳が、真っ直ぐに少女へ向かってくる。
しかし彼女は怯えて目を閉じることなく、何度も繰り出される拳を軽やかに避けながら、青年の動きを凝視した。
顔に拳が届く寸前、少女は肩をすくめて頭を下げると、左手の甲で青年の拳をいなして軌道をずらす。
次の瞬間、青年の懐へ飛び込むと、少女は右手の平を広げ、分厚い胸元を押した。
青年の足が床から離れていき――。
――ダァンッ!
後ろへ飛ばされた青年が、床に腰を打ち付ける。今日一番の大音が床を震わせた。
少女は座ったまま胸をさすっている青年に近くと、腰を屈めて顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
ふう、と息をついてから、青年は笑顔を見せた。
「流石ひびきお嬢さん、参りました。また動きのキレが良くなったんじゃないですか?」
ひびきは小さな口の端を引き上げ、わずかに微笑む。
「ありがとうございます。でも、まだまだ父様や兄弟子の皆さんの足元にも及びません。今の手合わせも、私の踏み込みが足りませんでした……もっと鍛錬を積まなければ」
手に視線を落とし、グッと拳を握る。
周りは腕を上げたと認めてくれるが、己の未熟さは自分がよく分かっている。
同郷の女性と比較しても背が低く、どれだけ鍛えても男性の力には及ばない。
明らかに武術には不利な体躯の上に、幼少期はかなり病弱だった。
こんな人間が強くなるためには、素早さを保つための体力を鍛えつつ、とにかく技を磨くしかない。武術道場の主である父の恥にならぬよう、ひ弱な人間のままでいたくはなかった。
決して楽な道ではなかったと思う。何度も心が折れそうになったこともある。
けれど、お気に入りだった大冒険の本を読む度に、自由に世界を飛び回る姿に励まされてここまで鍛えることができた。武術家としては、あまりに未熟な腕だけれど……。
ひと息ついて立ち上がると、ひびきは青年から距離を取って一礼した。
「お願いします、もう一度手合わせして下さい」
「はは、相変わらずお嬢さんは自分に厳しいな。分かりました、喜んでお相手します」
青年は立ち上がって腰を払ってから、再び構えを取ってくれた。
次は先手を打とうと、ひびきが走り出そうとした直後。
バンッ!
引き戸の開く音が道場に響き渡り、思わずひびきは足を止めてそちらを見た。
そこには黒い道着の師範――父・峰太の姿があった。
鋭い目つきに、厳格な人柄を載せたような顔。一瞬で緊張の糸が張り詰め、場内が静まり返る。しかし峰太の「そのまま鍛錬を続けてくれ」という一声で、門下生たちは再び動き出した。
峰太は辺りを見渡してひびきを見つけると、こちらへ来いと目配せしてくる。
内心首を傾げながら、ひびきは手合わせしていた青年へ「失礼します」と一礼し、小走りに父の元へ向かう。
ひびきが尋ねるよりも先に、峰太が口を開いた。
「大切な話がある。俺について来てくれ」
いつも以上に硬い声。よほど重要な話なのだと察しがつき、「分かりました」と答えるひびきの声も強張る。
小さく峰太は頷くと、踵を返して稽古場から廊下へ出る。父の歩幅は大きく、ひびきは置いていかれないよう早歩きでついていった。
道場の奥にある畳部屋へ入ると、おもむろに峰太はあぐらをかいて座る。ひびきも父と向かい合うと、背筋を正して座った。
「父様、お話というのは何でしょうか?」
「うむ。実は先日、友人から手紙が届いてな。弟子の中で一人、体力と武術の腕に自信がある者を寄こしてほしいと頼まれたのだが……ひびき、お前を行かせようと思っている。どうだ?」
ひびきの目が大きく見開いた。
「私を、ですか? ……でも、私はまだまだ未熟者ですから、ご期待に添えないかもしれません。それでも良いのですか?」
「本音を言うとな、お前には肩の荷が重いかもしれん。俺の娘がアイツらに振り回されると思うと……いや、すまない。聞き流してくれ」
普段からあまり動揺を見せない峰太が、珍しく頭をかいて言葉を選んでいる。心なしか瞬きも増え、瞳が泳いでいる。
ゴホン、と峰太は咳払いをした。
「ひびき、ミラル・ガジェットという作家を覚えているか?」
覚えているも何も、ずっと心の支えになった本の作家だ。
今この場でその名前が出るとは思わず、ひびきはわずかに困惑を滲ませならが静かに頷いた。
「……父様が昔、私に贈ってくれた本を書かれた童話作家ですね」
峰太は「おお、覚えていたか」と嬉しそうに微笑んだ。
「それなら話は早い。俺の友人が、ミラル・ガジェットの本を出しているヒューリット出版の社長でな。ミラルの取材についていける臨時の雑用係を探しているんだ。取材の度に雑用をつけているが、取材を終えて会社へ戻る頃には『もうついて行けない』と言って、ことごとく辞めているらしい」
話がいまいち飲み込めず、ひびきは峰太を不思議そうに見つめる。
「あの、そんなに過酷なお仕事なのですか?」
「ミラルは題材を探すために、各国の秘境や、身の安全が保証されない特殊な地域を飛び回る作家でな、よく危険な目に合っているそうだ。人使いも荒くて、休みなく走り回されるらしい」
これが普通の人ならば、気が重くなる話かもしれない。
しかし、ひびきの胸は沈鬱になるよりも、妙な高揚感で熱くなった。
「休みなく走り回るなんて、すごく良い鍛錬になりますね」
表情は変わらずだが、ひびきの瞳が嬉々と輝く。
それを見て峰太は満足気に大きく頷いた。
「必ずそう言うと思っていたぞ。確かに武術の腕は未熟だが、動き続けられる体力は誰にも負けていない。だから俺は、お前なら根を上げずミラルについていけると確信している」
褒められるために鍛錬している訳ではないが、認められると素直に嬉しい。
それに、ミラル・ガジェットに会えることも楽しみだった。
ひびきは大腿の上に手を置き、厳かに一礼した。
「どこまでお応えできるか分かりませんが、お引き受けします。父様の名に恥じないよう、与えられた役目をこなします」
「頼んだぞ、ひびき……ヒューリット出版はタルゴン共和国のレフィークスという街にある。京佳と比べれば賑やかな所だぞ」
横に長く広がるキネーシャ大陸の東端にある京佳から、大陸を横断する汽車で七日ほど走った所にタルゴン共和国はある。
山の資源が豊富な京佳とは対照的に、タルゴン共和国は交易で手に入れた資源を加工し、世界中に発信している先進国だ。行ったことはなかったが、ミラルの著書で何度か描写されており、とても華やかで多くの人種が集まっている所だと記されていた。
(タルゴン共和国……この目で見られる日が、こんなに早く来るとは思わなかった)
今まで京佳から出たことはなく、もっと修行を続けて、父に認められてから京佳を出てみたいと密かに考えていた。
誰にも言ったことがない夢が叶う。
ひびきが舞い上がりそうな心を必死に抑え続けていると、峰太が言葉を続けた。
「手紙と一緒に汽車の切符も届いている。今から一週間後のレフィークス行きだ。その間に出立の準備をしてくれ」
「分かりました」
頭をさらに深く下げたひびきへ、峰太が「ああ、それから」と言葉を続けようとして、口を閉ざした。
「父様、どうしましたか?」
「……いや、何でもない。気をつけて行くんだぞ」
何でもない、と言う割に峰太の眉間に皺が寄っている。そんな父の様子に違和感を覚えつつ、ひびきは「失礼します」と部屋を後にした。
足の裏に廊下のひんやりとした感触が伝わった瞬間、ひびきは口元を綻ばせた。
(会えるんだ、あのミラル・ガジェットに……)
鼓動に合わせて、胸の中で熱風のようなものが動き回る。
初めてミラルの本を読んだ時にも感じた疼きだった。
これは仕事なのだから、浮かれた気分ではいけない。
そう己を心で諫めるが、胸の高鳴りは止まらなかった。