みんなの場合 43
風が地面に勢い良く吹き付けられ土ぼこりが舞う。日は高いが日差しは弱く、吹き付ける風は冷たい。秋の終わりを告げるような冷たさを感じる天気で、遮蔽物の無い所々土がむき出しとなった草原は、きたる冬に怯えるように弱弱しい。
それはそんな草原の風景にまるで馴染んでいなかった。少し遠くに見える森となだらかな丘、そんな放牧的な風景のなかにある事務机。
乱雑に倒れ書類が散らばり、風に巻かれてがさがさと音を立てる。事務机はかなりの数が草原に転がっており、机の他にも椅子やファイルがしまってある棚、FAXや業務用プリンター、観賞用植物などまでありそれらが乱雑だがまとまって草原に転がっていた。
「…あれ?…ここは…」
風に巻き上げられる髪を押さえながら、寒さのため肘を抱きこむようにして田崎静香が立ち上がる。ところどころ土がむき出しとなった草原に倒れていたため、白い田崎のブラウスは土で汚れてしまっており、田崎が手で汚れを払うが汚れは落ちない。
あたりを見回すが、それによって田崎は納得できる情報を見つけることは出来なかった。田崎の目に映ったものは、先程まで東京のオフィスで残業をしており地震の被害に遭っていたはずの自分が、オフィス用品が散らばる草原に居るという状況。残業を行っていた先程までは午後9時を過ぎていたはずだが、今は日も高く気温が低いが少なくとも午後9時では無いと言うこと。
「気温が低い?……」
お盆前の真夏の盛りであったはずが、ブラウス一枚着ただけの肌身には厳しい寒さとなっている。
理性的になれる条件が一つも無く、ただ風に吹かれる書類を呆然と見つめる。そして、田崎の脳裏に地震の時の記憶が思い出された。地震としてはおかしい、衝撃で机が宙に舞うような地震。たしか自分は何も出来なくパニックとなりうずくまっていた。そして田所が来て自分を近くの机に押し込み、そしてまた強い衝撃が襲ってきて…
「先輩!?」
急いで周囲を見回すが、田所の姿は無い。記憶が徐々によみがえり、田所が夜の闇に飲み込まれるように窓の外へ飛んでいく光景が浮かぶ。
「…あ…」
オフィスがあるビルは地上15階にあり、フラットなビルの側面には地上まで障害となるような物は一切無い。そして田所は地震の衝撃で外に吹き飛ばされた。
田崎はその場に立ち尽くし、呆然とした表情で風に吹かれるままとなった。
動きを止め、立ちすくむ田崎から少し離れたところでうめき声が上がった。
「…酷い目にあった…ん?なんだ…これは一体……あ!近藤君!君島君!」
小田切茂男は目が覚めると目の前に広がる周囲の惨状に目を奪われかけたが、近くに部下の近藤卓美と君島隆が倒れていることに気が付き、二人の名前を呼びながら駆け寄った。
見た限り怪我をしている様子は無く、二人とも名前を呼びかけるとうめきながら目を覚ました。
「うぅぅ…あ、課長、お早うございます」
「お早うって…大丈夫かい近藤君」
「さっぶぅぅ!なにこの寒さ!」
近藤と君島の二人は起き上がると寒さに顔をしかめながら両腕をかき合わせ、周囲の状態が視界に写ると動きを止めた。
「え?何すかこれ…」
「あれ、草原ぽい風景が見える…」
「確か、地震に遭っていたはずなんだけどね私達…」
呆然とする近藤と君島に小田切が相槌を打ちながら、視界に写る混沌とした風景を眺める三人。
「課長!小田切課長!」
「あ!田崎君!」
田崎が急いで小田切のもとへ駆け寄って来ると、小田切の体を両手で掴みながら「これ、どういうことなんですか!私達、一体どうしちゃったんですか!それに先輩は……」と詰め寄った。
しかし、状況が理解できていないのは小田切も同じなので、「おちついて田崎君、私達も今気が付いたばかりで状況が理解できてないんだよ」と田崎をなだめる。
体から力が抜けて、崩れ落ちそうになる田崎を小田切が支えていると後ろから声が上がった。
「おーい!みんなぁ!」
小田切達が振り返ると、隣のブースで同じく残業をしていた藤代浩と中桐智弘、それに阿形健二が駆け寄って来るところだった。
一様に寒さのためか背中を丸めるようにしており、風が吹くたびに体を震わせている。
「みんなも居たのか、気が付かなかった」
そう言いながら阿形は田崎のところへ行き「あれ?田崎ちゃん、田所の奴は?」と聞いた。田崎は阿形の問いに、うつむきながら力無く顔を振ることしか出来ない。阿形はそんな田崎の様子を見て、ぼんやりと(ああ、田所はここにいないんだ)と思った。
「小田切課長、私達三人もさっき目が覚めて、藤代と阿形の三人で周りを少し見てきたんですが、ここおかしいですよ、分かっているかと思いますけど」
中桐が小田切に真剣な表情で言うが、先程ようやく意識を取り戻したばかりの小田切にはちょっとよく分からない。
「申し訳ないですが、私達は先程目が覚めたばかりなんです。何がおかしいのか説明していただけますか」
中桐より小田切のほうが年長だが、役職が同じ課長職ということで少し遠慮した口調で問いかける。また、中桐は身長が179cmとやや高く、38歳という年齢にしては健康的に日焼けし若々しい。短く刈りそろえた髪と太い眉、目鼻立ちは尋常で堂々とした雰囲気がある。対して小田切の方はと言うと、身長が158cmと低く、頭頂部は髪が薄くなって久しい。全体的にはそれほど太っていないのだが、腹だけが出ている。一言で言うと貧相な外見をしており、年齢以上に年をとって見える。この外見の差が、小田切の中桐に対する口調を丁寧にさせているのかも知れない。
「私達三人はちょっと前に目が覚めましてね、周囲の様子が一変していることに気が付いたので少し周りを調査したんです。それでいくつか分かったことがあります。まずあの森なんですが」
中桐が森を指差しながら「あの森近くにあるように見えるんですが、結構距離があるんです。なぜそんな錯覚を起こすのか、木が大きいんですよ、普通じゃ考えられないくらい」と言った。
全員が森を見つめて中桐の話に聞き入っている。中桐は満足そうに全員の様子を見ながら話を続けた。
「そしてあの丘なんですが、登るのにたいした時間はかからないので、実際見てみたほうが早いですかね。すごい物が見られるのでみんなで行きましょう」
そう言って中桐が丘を目指して歩き出し、すぐ後に藤代が続いた。
「田崎ちゃん大丈夫?」
先程から、普段の活発さが見られない田崎の様子を気にしていた阿形が遠慮がちに聞いた。
田崎は阿形の問いに「大丈夫です」と小さい声で答えると、中桐達の後を追う小田切の所へ駆けて行った。
(何だ、俺なんか間違ったか?)
複雑な女性の心理を理解できず、これまで幾度と無く女性に対して空回りすることを経験してきたため、今回も何か田崎に対して対応を間違ったのではないかと阿形は心配した。
鬱陶しいとか思われるのではと怖かったが、みんなを追いかけない訳にもいかず、最後尾の田崎の後ろへと走って行き、目立たないようにみんなの後ろを歩く。
「近藤君これどういうことだと思う?」
「なんすかね、誘拐だとしたら事務用品も一緒にとか意味わかんないし」
「だよなぁ。てかこの寒さどうにかしろって話だ」
「マジで寒いすよね」
近藤と君島は24歳と25歳と年が近く、君島が近畿地区の支社より転勤してきた時から馬が合った。前を行く小田切や他の同部署の人間は年の差がかなり離れており、余計に二人でつるんでいる時間が多くなった。
「田崎はどう思う?この状況」
「…さあ、わからない」
同期の田崎に普段の勢いが無いことを少し訝しく思いながらも、近藤は前に向き直り、隣にいる君島へ「これって異世界トリップってやつだったり」と、自分でもまさかと思う可能性を口にした。
「それってアニメとかでよくある『目覚めたら異世界』ってやつか?」
「そうそうそれそれ、今の俺達、まさにそんな感じじゃないすか?」
「言われてみればそうだな…」
小田切はすぐ後ろで部下達二人が話す会話が聞こえてきたが、異世界トリップという単語が分からなかった。しかし、目覚めたら異世界というのには心当たりがあった。
「近藤君と君島君が言っているのって、もしかして『神隠し』のことかな」
まさか普段あまり会話に参加して来ない小田切が、自分たちの会話に加わってくるとは思っていなかった近藤と君島は少し驚きながらも、
「そういえば『異世界トリップ』と『神隠し』って少し似てますね…」
「でも、『神隠し』ってどちらかと言うと居なくなるだけってイメージなんすけど」
「え!俺達『神隠し』に遭ったのか!?」
最後尾で大人しくしていた阿形が、大またで歩いて近寄ってきて近藤に詰め寄った。
近藤は他部署だが、どちらかと言うと勢いで仕事をする阿形や田所が苦手だったので、少し身を引きながら「可能性の話っすよ、可能性」と、助けを求めるように君島を見る。君島も「そうですよ、まだ何にも分からないんだから」と、ごまかすように言う。
「そうか、『神隠し』に遭った可能性があるのか…」
阿形が何か考え込むような表情をし、近藤と君島が何とか阿形と距離をとることが出来ないかもじもじ動いていると、先頭の中桐から声が上がった。
「到着しましたよ!ここからなら一望できる」
中桐の歩く速度が早く、多少中桐との距離が出来てしまっていたので、後方の小田切達が急ぎ足で中桐の下へと急ぐ。
「これなんですけどね、ヨーロッパの田舎とかなんですかね?」
みんな中桐の声など耳に入らず、丘の上からの景色に見入った。
丘の上からは、広い平原と高い城壁に囲まれた町、そして中央にヨーロッパにある城のようなものがそびえ立つ要塞都市が見えた。城壁は高く、観光名所として存在しているような安っぽさは感じられない上、そこまで古い物には見えない。また城も堂々とした巨大な造りで、見るものを圧倒した。
巨大な丘か小山に都市を建設したのか、その都市は中央の城へ向かうごとに地面が高くなっているようで、丘から見る都市は中央の城を頂点とし非常に調和がとれた、まさに全体で一つの芸術品であるかのようないでたちであった。
「これ、トリップ当たりじゃね?」
君島が誰にと言うわけでも無くつぶやいたが、その言葉に反応するものはいなかった。
依然として冬の訪れを知らせるような、肌を刺す冷たい風が吹き付けてきていたが、時間を忘れるように皆その光景に見とれた。薄々感じていた、ここが日本では無いと言う可能性が確定したことを、それぞれがかみしめながら。
中桐は、そんな周りの人間をどうだと言わんばかりの表情で、満足そうに見下ろしていた。