プロローグ
真夏の猛暑の中、アスファルトによる照り返しにいらいらしながら人ごみと一緒に目的地へと向かう。
ここ数年異常気象がつづいているが、今年の夏は例年に比べても非常に暑い日が続き、特に今日の暑さは正直勘弁してほしいほど暑かった。
ニュースではアナウンサーが「今日も全国的に暑さが続き猛暑日になるところもありそうです」と涼しい顔してニコニコしゃべっているだろう。現在進行形で都会のど真ん中をさまよっているこっちとしては、その笑顔に対して文句の一言も言いたくなってしまう。
まあ、ニュースキャスターがそんなことを言っているかは分からないし、実際にはどうでも良いのだが。
とにかく、この暑さをどうにかしたい。
俺の現状は気温が40℃近い真夏の猛暑の中、クールビズを許さない馬鹿な会社のため長袖&上下スーツの格好で東京のど真ん中を歩いている。
あまりの暑さに眩暈がし、額には絶えず汗が流れる。ハンカチで汗を拭いながら空を見るとビルの間からギラギラとした太陽が見える。
忌々しく思い舌打ちをして、逃避していた目の前の状況を確認する。
俺の目の前には、本来いくら東京とはいえ普段であれば今の時間帯こんなに街中に人がいるはずが無いのに、朝のラッシュと見まがうばかりの人人人…
なんかの集会でもあるのか大量のおばさん方が俺と同じ方向を目指している。
大量の汗のため肌に張り付いたワイシャツが不快で、おばさん達がかもし出す多種多様な香水と体臭の交じり合った匂いが俺を追い詰める。不快度指数は過去最高を記録しており真剣に喫茶店にでも避難したいところだが、得意先との約束の時間もせまっているためそんな時間は無い。それどころかこのままでは約束の時間に間に合わない公算がたかいため、おばさん方の群れをかき分けてでも先を急がなければならない。
約束の時間に間に合わなかった時の気まずさに後押しされ、俺は気合を入れてから群れを追い抜き始めた。
小声で「すいませ~ん」とつぶやきながらおばさん達をかき分け前へ進む。しかしこれがなかなか厳しい。匂いは我慢するとして物理的に障害となったのが日傘。
それも群れの大部分が日傘をさしており、追い抜こうとするとぶつかりそうになる。
俺の身長が183cmのため身長が低いおばさん方が日傘をさすとちょうどその傘の高さが俺の顔あたりに来る。油断すると日傘の突出部が俺の顔めがけて襲いかかってくる。
あまりの鬱陶しさに「てめーら!今更シミなんか気にしてどうすんだ!」と悪態をつきたくなる。
引き続きおばさんの群れをかき分けるように進んでいると、たまにおばさん方に接触してしまい「あらやだ」とか「ちょっと!」といった声が聞こえるが俺は気にしない。
頭を空っぽにしてただ群れを抜けること10分間、群れの進行方向が俺の目的地の方向からそれたためようやく地獄のような状況から抜け出した。
照りつける太陽の下、深刻な動作不良におちいりそうな頭に気合を入れ、約束の得意先の会社までラストスパートをかける。
ようやく目的地が見える大通りまでさしかかり、少しほっとすると携帯に着信が入った。
発信者を確認するとこれから商談の約束をしている担当者だった。
嫌な予感がしながら通話ボタンを押す。
「ああ田所君?今日の約束だけど別件が入っちゃってね~ほんと困っちゃうよ、ごめんごめん、今度の水曜でも時間作るからさ、新橋に焼き鳥でも食いに行って、そこで仕事の話しようや、はは…ガチャ」
約束の時間5分前の段階でのお断りの連絡だった。
あと、電話のガチャ切りなんて久しぶりにされた。
さっきまでの目的地はすでに目の前。
今はすでに用がなくなってしまったが。
怒鳴り散らしたくなる衝動を抑えるように、路上喫煙禁止区域だが、タバコを取り出し煙を深く吸い込む。
のどが渇ききっているため、咳をしそうになるが煙をゆっくり吐くことでこらえる。
まあこんなことは日常茶飯事と自分に言い聞かせて来た道を戻り始めた。
◆
会社に戻ってくると時刻はもう午後4時を過ぎていた。
得意先のドタキャン野郎のせいで受けたダメージを回復するためにドトールで休憩をしたためだ。
喫煙可のドトールは本当に地上の楽園だなと思う。
まだ重たい頭をすこし振りながら外出中に溜まったメールに目を通すと、急ぎで処理しなくてはならない案件が2件ほどあった。
その他あまり重要ではない内容を整理していると、仕事の残り状況から、今日は残業が10時を過ぎることに気が付き、気が重くなった。
「先輩、田所先輩!ぼけっとしてどうしたんですか?」
なにがそんなに嬉しいのだろうか?いつもニコニコと嬉しそうにしている後輩の田崎が話しかけてきた。
「ああ○○商会の清水さんとこへ新商品のプレゼンをしにいったんだけど約束の時間5分前にドタキャンされて、無駄にされた俺の貴重な時間を惜しんでいたところだ」
「あの清水さんですか、あの人たち悪いですよね、なんだかんだ言って何時も商談を絡めてお酒をつき合わせる」
今回のようなドタキャンはさすがに無かったが、これまでもこの担当は取引先に対して酒を付き合わせるような傾向があった。そして酒の席になると「営業とはどうあるべきか」とかしょうもない話を延々とつづける。
お前の仕事に対する思いは分かったから仕事しろよと言いたくなる。
「そう今回もそのパターン。もう少しで到着するって時に連絡一本でキャンセル入れやがって、何が今度焼き鳥でもだ、この落とし前は必ずつけさせてやる」
ドトールでアイスコーヒーを飲んだが、ホットコーヒーを飲みなおしながら、どうにかこの担当を陥れることは出来ないか考えてみる。
「そういえば先輩、その新商品のプレゼン資料ですけど私かなり協力しましたよね?今日あたり以前先輩が言っていた天ぷらの美味しいお店に連れて行って欲しかったりします」
田崎を知らない人間が聞いていたらずいぶん積極的な誘い方だなと誤解を受けそうな会話だが、こいつはただ単純に己の欲望に忠実でおごられるのが大好きなだけなのだ。相手が誰であろうと自分の要求を言うことのできるこいつは神経が図太く、顔の皮も厚いに違いない。
「いやいや、それお前の仕事で手伝うの当たり前だから。それに今日は急ぎで処理しなければならない案件が2本入ってきてるから俺もお前も10時過ぎまで残業コースだ」
「えー、一人暮らしの新入社員に対してそんな遅くまで残業を押し付けるなんて、人としてちょっと残念ですね先輩」
「…人として残念ってお前、大体お前会社の寮だから徒歩5分で帰れるだろうが、寮までは駅まで行く俺と一緒だし」
田崎とはこいつが入社してから2年の付き合いで、新人教育も俺が担当し、そのまま後輩として配属された。営業として女性の田崎が配属されるのはうちの会社としては珍しいが、こいつの性格を見抜いての判断だろう。確かにこいつは精神的にタフだ。
「じゃあ先輩、天ぷらの件日を改めてで良いのでお願いしますね。私今処理している仕事が終わったら先輩のフォローに入りますので、案件のメール私にもccで入ってます?」
「ちっ、しゃーねーなー、じゃあ週末にでも連れて行ってやるから今日は気合入れて俺を手伝えよ。メールはccでお前にも入ってるから確認しとけ、○○物産のクレームと△△商事の規格書についてだ」
「ご馳走様です~」
食事を奢ってもらえる約束を取り付けて嬉しそうに田崎が自分のデスクに戻った。独身で余裕がある身分とは言え、田崎が入社して以来こいつに奢る食費の負担が地味にきつい、辞められるのを怖がって甘やかしたツケだとは分かっているが、こいつの本質を見抜けなかった当時の自分が悔やまれる。
こいつの神経の図太さにもっと早く気が付いてさえいれば
月末なのに余計な出費が確定し少し人間関係について考えていると、他部署で同期の阿形が話しかけてきた。
「いいな田所は田崎ちゃんみたいな可愛い後輩がいて、俺のところなんて4年前に男が一人入ってきたっきりだし、そいつもノイローゼとか言ってすぐに辞めちまうし」
「お前俺がたかられてるの知ってて言ってるだろ?それにあいつ可愛いか?本気で言ってるんだったら本人に言ってやれよ、言われ慣れてないから喜ぶぞ、きっと」
「なんでこんなやつの所にあんな可愛い子が配属されるのか、俺の部署にきてたら喜んで食事でも何でも付き合ってやるのに」
人の気も知らずに言いたい事言いやがって。
確かに阿形なら喜んで食事でも何でも奢り続けるだろう。こいつは大学まで剣道を続けていて、今も休みは道場に通っている頭の中まで筋肉が詰まったバカ野郎だ。さぞさびしい青春を送ったのだろう、こいつには女性に対しての免疫と言うものがまったく無い。
結局阿形は言いたいことを言うと自部署に戻っていった。
人はいいやつなのだが、確実に女性を見る目はない。
確か一昨年阿形が手酷い振られ方をして、傷ついたあいつを肴に酒を飲んだ記憶がある。
もしも田崎が阿形の下に配属されていたら、あいつは今頃干物になって浅草の乾物屋店頭に並んでいることだろう。
あとたしか4年前に辞めた新入社員は、阿形の体育会系指導のせいで辞めたはずだ。それ以来新人が入ってこないのも人事が新人を潰されるのをおそれてのことだろう。
ふと時計を見ると、阿形がやって来て時間を無駄してしまったことに気が付く。
俺は頭を切り替えて仕事の処理に取り掛かることにした。
◆
気が付くと午後9時を過ぎており、すでにオフィスには数えるほどの人間しか残っていない。
営業部門ではうちの部署だけで俺と田崎の2人、阿形の部署も盆前のため阿形を含め数人いるようだ。あとは財務の小田切課長と他数名が珍しく残っている。5時まで男の小田切が9時まで残っていることに少し驚いた。
あとの部署はフロアが違うので分からないがもう社内に残っている人間も多くないだろう。
仕事自体は考えていたよりもずっと早く終わった。認めたくは無いが天ぷらにつられた田崎のフォローが大きい。
最後に田崎がやった仕事目を通しているとデスクの上においてあるカップが波打った。
「あれ?」
疑問に思いあたりを見回そうとした時、それは突然やってきた。
ゴォォォォオオ!!!
床から体ごと突き上げられるような衝撃を受け俺は自分の椅子から吹き飛ばされた。
吹き飛ばされながら何とか体勢を整えようとするが、天地が逆さまになったような状態ではろくに受身を取れず、したたかに肩から窓際の床へ叩きつけられる。
頭も打ったようで視界ぼやけており思考が追いつかない。
オフィス全体を襲っている衝撃はなお激しく続いており、俺は床にうずくまる。
顔を上げ周りを見るとめちゃくちゃになったオフィス内の様子が確認でき、地震だとようやく思い当たった。俺は今までに経験したことの無い規模の地震が現在進行形でこの東京を襲っている事実に愕然とした。
とても立っていることなど出来ない状況だが、この状況で窓際にいる自分の位置は最悪だ。運が悪ければ割れたガラスまみれになるだろう。
何とか移動しデスクの下にでも逃げ込まなければならない。
四つんばいでデスク付近まで戻ろうとした時、近くに田崎が倒れていることに気が付いた。
反射的に田崎の所まで行き「おい!」と声をかけるが「うぅ…」と目をつぶり唸るだけでどうやらパニックになっているようだ。
やむを得ず一番近いデスクの下に田崎を引っ張って床を這いつくばっていき、何とか田崎をデスクの下に押し込む。
地震はまったく収まらず、最悪このビル自体がもたないように思われた。
急いで自分も近くのデスクの下に逃げこもうとした、その時、
再び床より全身を突き上げられるような衝撃を受けた。
オフィス内のデスクが宙を舞う中、俺の体は窓のほうへ吹き飛ばされてしまった。
そしてすでに先ほどまでの衝撃でガラスが割れてしまっていたのだろう、何の抵抗も無く窓の外まで飛ばされた。
窓枠から外に飛ばされると視界は真っ暗な空で埋められた。
急激な状況の変化で場違いな開放感を感じながら思った。
オフィスは15階にあり、地上まで障害物も特に無い。
死ぬんだなと
思った
俺は真っ暗な空の中で、なぜか急に眠気が抑えがたくなった。
意識が飛びそうになるのを堪えながら、デスクに押し込んだ田崎は無事だろうか、と考えた。
最後に田崎のことしか頭に浮かばないなんて、と思ったところで限界がきた。
視界がブラックアウトし、俺は気を失った。