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第9話:隠里

険しい山道を越えた先に、その村はあった。 地図にも載っていない、深い谷底の集落。


「ようこそ、旅の方」


村人たちは貧しい身なりだが、表情は穏やかだった。 飢えた様子もない。畑は丁寧に耕され、子供たちが元気に走り回っている。 ナユタは安堵した。重税に喘ぐ村や、疫病に怯える町とは違う。ここには、奇妙なほど平穏な空気が流れていた。


夜。 村長が用意してくれた雑穀の粥を啜りながら、ナユタは違和感の正体に気づいた。 この村には「老人」がいない。 目の前の長老以外、働き盛りの若者と、子供しかいないのだ。 六十歳を超えた人間が、一人もいない。


「……長老。この村の年寄りたちは、どこへ?」


ナユタの問いに、長老の手が止まった。 パチリ、と薪が爆ぜる音だけが響く。


「山へ、参ったよ」


長老は、窓の外にそびえる雪深い山を指差した。


「この谷の収穫では、全員が腹一杯食えば冬を越せん。だから六十を過ぎた者は、自ら山へ入り、神になる決まりなんじゃ」


ナユタは箸を止めた。 知識では知っていた。口減らし。姥捨て。 だが、目の前で微笑んでいるこの好々爺が、自分の親や友人を、その手で死地へ送ったというのか。


「……食料の備蓄は?」


ナユタの声は低かった。叫びもしなければ、否定もしない。ただ、事実を確認しようとした。 現代人として、計算で解決できる可能性を探ったのだ。


「蔵を見せてください。配分を変えれば……あるいは、春までの種籾を少し切り崩せば……」 「若いの。蔵は、もう空じゃよ」


長老は静かに首を振った。


「種籾に手をつければ、来年は全員が死ぬ。配分を減らせば、弱い子供から死ぬ。……わしらも計算した。何度も、何度もな」


長老の目は乾いていた。 涙など、とうの昔に枯れ果てた目だった。


「お前さん。この粥一杯を食わせて、誰を生かす? もうすぐ寿命が尽きる婆様か、これから何十年も生きる孫か。……選ばねばならんのじゃ」


ナユタは手元の椀を見た。 薄い粥。その中に入っているわずかな麦粒が、誰かの命と引き換えにここにあるのだと気づいた瞬間、喉が焼けるように熱くなった。


「……ッ」


ナユタは口元を覆い、えずいた。 「間違っている」なんて言葉は出てこなかった。 彼らの計算は正しい。残酷なまでに正しいのだ。 「正義」や「倫理」などという甘い言葉が入り込む隙間もないほど、ここの現実は研ぎ澄まされている。


「……朱音さん」


ナユタはすがるように隣を見た。 何か言いたいわけではなかった。ただ、この息の詰まるような「正解」から逃げたかった。


だが、朱音は粥を見つめたまま動かなかった。


「……無理だよ、ナユタくん」


彼女の声は震えていなかったが、どこか遠かった。


「私の『重罪』は、悪意に対してしか発動しない。……ここには、悪意がない」


彼女は村人たちが眠る部屋の方を見た。


「彼らは誰よりも傷つきながら、子供を生かすために『罪』を背負うことを選んだ。……私には、裁けない」


ナユタは膝の上で拳を握りしめた。爪が食い込んで血が滲む。 怒る相手がいない。 倒すべき悪党がいない。 ただ「貧しさ」という物理現象だけが、彼らに鬼になることを強いている。


現代の知識も、正義感も、ここでは何の役にも立たない。 ナユタはただ、吐き気をこらえながら、出された粥を飲み込むしかなかった。 それが、命を削って客人に振る舞ってくれた彼らへの、唯一の礼儀だったからだ。

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