第8話:偽善
夜。 ナユタと朱音は、町の外れにある慈円の寺院に忍び込んだ。 昼間の「聖水」販売で得た莫大な布施が、どこへ消えているのかを確かめるためだ。
本堂の奥、隠し部屋のような書院からは、酒の匂いと下卑た笑い声が漏れていた。
「くくく……今日も愚民どもはよく払ったな」
慈円が、机の上に積み上げられた銭の山を数えていた。 その横には、都から取り寄せたであろう高価な薬の包みがある。 彼は自分と弟子のためだけには、本物の薬と清潔な食事を用意していたのだ。
「お上人様、聖水の中身、ただの井戸水だとバレませぬか?」 「構わん。治れば『信心のおかげ』、死ねば『信心が足りなかった』と言えばよい。死人は文句を言わんからな」
慈円は高笑いし、酒を煽った。
「疫病とは、なんと儲かる商売か! もっと広がれ、もっと死ね! 恐怖すればするほど、わしの懐は温まるわ!」
障子の隙間からそれを見ていたナユタの手が、障子紙が破れるほど強く握りしめられた。 重税よりもタチが悪い。 こいつは、人の「生きたい」という切実な祈りを踏みにじり、金に変えている。
「……許せない」
ナユタの声は低く、震えていた。
「あいつは、人を救うふりをして……人の命を食い物にしている」
「そうだね」
朱音の声もまた、氷点下のように冷たかった。 彼女の足元から、どす黒い影が広がり始める。
「命を秤にかける奴には、相応の『重り』が必要だ」
バァン!!
ナユタが障子を蹴破った。 「な、なんだ!? 誰だ貴様ら!」 慈円が飛び上がる。
「昼間の小僧か! ここが神聖な道場と知っての狼藉か!」 「神聖? よく言えるな」
ナユタは慈円を睨み据えた。震えは止まっていた。あるのは、静かで激しい怒りだけだ。
「あんたが積み上げているのは、銭じゃない。あんたを信じて死んでいった人たちの『骨』だ!」
「ふん、小賢しい! 出会え、出会え! この不届き者を殺せ!」
慈円が叫ぶが、誰も来ない。 部屋の空気は、すでに朱音の支配下にあった。
「無駄だよ。アンタの経じゃ、私は祓えない」
朱音が、ゆらりと慈円の前に立った。 慈円は腰を抜かし、きらびやかな法衣の裾を引きずって後退る。
「ひ、ひぃ……! か、金ならやる! いくらだ! 半分……いや、全部持って行っていい!」 「金?」
朱音は冷ややかに首をかしげた。
「そんな紙切れみたいな軽いもの、興味ないよ。私が量りたいのは、アンタが纏っているその『嘘』の重さだ」
朱音の視線が、慈円の豪華絢爛な金襴緞子の法衣に向けられた。
「救済者の皮を被った捕食者。その衣、さぞ重いだろうね」
【重罪・偽聖衣】
朱音の影が、慈円の影を侵食する。 その瞬間。
「ぐ、おぉっ……!?」
慈円の膝が、ガクンと折れた。 彼が身につけている法衣が、数珠が、まるで鉄塊に変わったかのように、彼を床へ縫い付ける。
「お、重……ッ! 着物、が……脱げな……ッ!!」
必死に法衣を脱ぎ捨てようとするが、衣は皮膚に張り付いたように離れない。 薄っぺらな布一枚が、千人の死体の重さとなって彼にのしかかる。
「ぎゃあああッ!! 肩が、首がぁぁッ!!」
メリメリメリ……ッ!
床板が悲鳴を上げ、慈円の体が亀のように這いつくばる。 金糸で刺繍された美しい衣が、彼を圧殺する処刑道具へと変わったのだ。
「あ、あ、あ……」
床に顔を押し付けられ、呼吸もままならない慈円を、朱音は冷たく見下ろした。
「一生、その重さを背負って生きな。アンタが騙した人たちの怨嗟は、二度とアンタを放さないよ」
寺を出ると、夜風が少しだけ涼しく感じられた。 ナユタは、慈円が隠し持っていた本物の薬を抱えていた。 これを配れば、全員とはいかなくとも、助かる命はあるはずだ。
「……重かった?」 「え?」 「あの坊主の罪」
朱音の問いに、ナユタは夜空を見上げて答えた。
「うん。……すごく、重かった」
疫病が消えたわけではない。 明日もまた、誰かが死ぬかもしれない。 それでも、偽りの救いで目を曇らされるよりは、確かな一歩を踏み出せるはずだ。
二人は闇夜に沈む町へと、薬を届けに走り出した。




