第72話:葛藤
亀裂の向こうの現代の景色を見た瞬間、ナユタの足は地面に縫い付けられたように動かなくなった。
帰らなければならない。あの息苦しい教室で、自分が見て見ぬ振りをしてしまった同調圧力という理不尽と、今度こそ真っ向から戦うために。それこそが、自分がこの時代で得た力を証明する唯一の方法だ。
だが、頭での理解とは裏腹に、心が激しく抵抗していた。
ナユタは隣を見た。強がりで不器用だが誰よりも優しい朱音と、彼の背中にしがみつく小さなスイ。
共に泥にまみれ、血を流し、国家という巨大な敵から逃げ延びた。過酷な状況の中で、彼らは間違いなく、ナユタにとってただの同行者ではなく、魂で繋がった本物の家族になっていたのだ。
ここで別れれば、二度と会えないかもしれない。彼らを置いて、自分だけが安全で退屈な世界へ戻っていいのか。
「……帰らなきゃいけないんだよな」
ナユタの声は、自分でも驚くほど掠れていた。一歩が、鉛のように重い。
その震える言葉を聞いたスイが、ナユタの背中から飛び降り、彼の腰に力いっぱい抱きついた。
「いやだ! あにさま、行かないで! ずっと一緒にいるって言ったじゃない!」
スイはナユタの服を両手で強く握りしめ、顔を押し付けて激しく号泣した。
嘘を見抜く彼女には、言葉以上のものが伝わっていた。ナユタが本当に自分たちを大切に思ってくれていることも、そして同時に、彼が元の世界で果たさなければならない重い責任に縛られていることも。
だからこそ、余計に悲しかった。彼の決意の純粋さが見えるからこそ、別れが絶対に避けられない運命だと理解してしまっているからだ。
「スイ……ごめん。本当に、ごめん」
ナユタはスイの小さな背中をさすりながら、自分自身の目頭が熱くなり、視界が滲んでいくのを感じた。




